
倫理に基づく研究を求めて(信州大学教育学部講師:楠見友輔) #倫理に基づく研究の可能性を探る 第1回
差別や不平等に対し、私たちはどのような立場から関わってきたでしょうか。本連載では、「倫理に基づく研究」をテーマに、これまで行われてきた研究を問い直し、差別や不平等を解消するための研究、および研究者のあり方を考えます。楠見友輔氏にご寄稿いただきました。
第1回となる今回は、楠見氏が関わってきた障害のある子どもの教育から、現在の特別支援教育の問題点、差別や不平等に向き合った際に研究者が直面するジレンマを考え、それらを乗り越える可能性としての「倫理に基づく研究」を提案します。
※月1回、全12回を予定しています。
私の研究の動機
本連載の目的は、「倫理に基づく研究」の可能性を探究することにあります。研究という実践が、社会における差別や不平等の克服にどのように機能し得るのかを考えることを目指します。
私はこれまで、知的障害教育を中心に研究を行ってきました。一般的に、知的障害教育とは、知的障害があるとされる子どもを通常教育の対象から切り離し、その特性に応じた特別な教育を提供することを指します。しかし、私の知的障害教育に対する考え方は、それとは異なっています。私にとって、「知的障害」という言葉は、個人の特性を表すというより、教育そのものの在り方を映し出す鏡です。
私は、「知的障害」や「障害」というラベルを子どもに貼り付け、そのラベルによって教育の在り方を区別する考え方に疑問を抱いています。現在の日本の教育システムは、標準的とされる子ども像を基準に設計されています。私は、この考えの延長線上で教育が運用されることによって、教育の「許容度の低下」が起こっているのではないかと危惧しています。教育の許容度を正確に測定することは難しいでしょう。しかし、私がいう「許容度」とは直感的なものです。通常学級にどれだけ多様な子どもが包摂されているかに、それが現れていると考えます。
近年の学校教育では、標準とされる教育課程に適応できない子どもには、特別な配慮や支援が与えられるようになっています。子どもがさまざまな支援を受けられるようになっている状況は良い傾向です。しかし日本では、教育の場を分けることも、特別な配慮や支援の一つと見なされています。このことには注意が必要です。少子化によって学齢期の子どもの人口が減少しているにもかかわらず、特別支援学校や特別支援学級の在籍者数は増加し続けています。これは、通常教育の許容度が年々低下していることの現れです。
通常学級の中で困難を覚えるようになっている子どもたちのための居場所や学習の場を確保することは重要です。しかし、根本的な問題は、子どもたちが学習や生活で困る状況を生み出している教育システムそのものにあります。教育をめぐる問題—不登校児童・生徒の増加、教職の不人気、離職率の増加など—も、教育の許容度の低下と無関係ではないでしょう。教育の許容度が下がることで、教室内での居場所を失ったり、教育に希望を見出せなくなったりしている人々が増えているのではないかと思います。教育の許容度の低下に向き合わなければ、教育を取り巻く問題と、そこで苦しむ人々は今後も増加し続けるでしょう。
現在の学校現場では、改革と称してさまざまな学習内容や仕事が追加されており、子どもと教師がいっそう苦しんでいます。許容度を下げるような改革は逆効果です。許容度を高めるための根本的な解決策は、新しい制度や枠組みを追加することではありません。むしろ、これまで追加されてきたものを一度棚上げにし、教育の在り方自体を問い直すことが求められるのではないでしょうか。
痛みから出発する研究
「倫理に基づく研究」という概念は、私が最近出版した『アンラーニング質的研究:表象の危機と生成変化(新曜社)』で提起したものです。この書籍で行ったように、私は教育学の枠を超えて、社会科学や学術研究全般にわたる幅広い議論を試みています。教育の在り方を問い直すためには、伝統的な教育学の枠組みの中で議論するだけでは不十分だと考えているからです。
私が教育そのものの問い直しに関心を持つ理由は、社会に対する不満や失望といった感情が根底にあるからです。研究者の中には、感情を排して書くことを重視する人も少なくないでしょう。しかし私は、研究を通じて単に内容や結果を伝えるのではなく、問題意識や感情を読者と共有することが重要だと考えています。
『アンラーニング質的研究』の執筆当時の私の心理状態を最もよく表す言葉として思い浮かぶのは、「Weltschmerz(ヴェルトシュメルツ:世界苦)」です。Weltschmerzは、「Welt(世界)」と「Schmerz(痛み)」を組み合わせた言葉で、現実に対する深い悲しみや苦悩を意味します。この概念は、ドイツのロマン主義作家ジャン・パウルの作品で知られるようになりました。ロマン主義は、18世紀末から19世紀初頭のヨーロッパで広がった文学や芸術の潮流であり、啓蒙主義の理性重視やフランス革命の理想主義に対する反発として生まれました。また、産業革命による社会変化や人間疎外への不安感も、特に後期ロマン主義の作家たちに影響を与えたとされています。「Sturm und Drang(疾風怒濤)」と呼ばれるロマン主義の先駆けとなった運動では、若い作家や芸術家たちが感情や情熱を率直に表現する作品を生み出したことがよく知られています。
しかし、感情をあからさまに表現することは、読者を圧倒したり反発を招いたりする恐れがあると思います。これに対して、Weltschmerzは、感情の爆発的表現とは異なり、理想が実現されない状況に直面したときの失望や虚無感を内に秘めたものです。このように、感情を内に秘めることで、読者がその感情を想像し、共感を呼び起こすことができるのではないかと考えています。
私が感じるWeltschmerzは、自分の理想に現実が追いつかないことへの失望ではありません。私は特定の「理想」を目指して研究しているわけではないからです。私が感じる痛みは、社会が「来てほしくない未来」に向かって進んでいるという感覚に由来します。その未来とは、差別や不平等が今後も続き、人々がますます生きづらくなる社会です。このような状況に対する痛みが、「倫理に基づく研究」の核になると私は考えています。
専門家のジレンマ
本連載では、社会における差別や不平等を解消するために、研究がどのように貢献できるかを考察していきます。しかし、そのためには、研究者自身が無意識のうちに差別や不平等の再生産に加担してしまうリスクを認識することが重要です。
この問題の中心にあるのは、研究者の「専門家」としての立場です。専門家は、特定の分野の事実や知識をよく知っていて、その分野において「何が正しいか」を判断することができる存在です。しかし、専門家が「正しい」とするものが、必ずしも普遍的な価値に基づくものではないことに注意しなければなりません。専門家の判断基準は、既存の社会システムに依存しており、そのシステムに組み込まれた差別や不平等を無意識に強化してしまう恐れがあります。逆に、差別や不平等を解消するためには、社会の価値判断の基準を問い直すことが求められます。しかし、ここで専門家は板挟みになります。専門家が自身の依拠する社会の価値を批判するということが果たして可能なのでしょうか。私はこの問題を「専門家のジレンマ」と呼んでいます。
冒頭で示した、障害のある子どもの教育を例に考えましょう。このような教育は、「特別支援教育」と呼ばれます。特別支援教育の専門家は、障害のある子どもに特別な配慮が必要であると考え、そのニーズに応じた特別な教育の内容や方法を考案してきました。一見、それは障害のある子どもたちに対する配慮のように思えます。しかし、特別支援教育の専門家が、「障害のある子どもには特別な教育が必要だ」と主張することで、障害のない子どもを基準とした教育システムが維持されてきたことを見過ごしてはいけません。
障害のない子どもを中心とする教育を変えるためには、どのようなアプローチが必要でしょうか。特別支援教育の考え方を通常教育に取り入れ、すべての子どもが共に学べる教育を創造することが求められます。しかし、それはもはや特別支援教育を「特別」と見なさなくなることを意味します。通常教育と特別支援教育の境界がなくなると、特別支援教育の専門家はその役割を失い、過去の研究成果を否定することを求められるかもしれません。ここに「専門家のジレンマ」が生じます。特別支援教育の専門家は、自らの専門性や研究成果が無効化される可能性を前にしても、全ての子どもが共に学べる教育の実現を受け入れられるでしょうか。
これは、あらゆる専門分野の専門家に共通する課題です。専門家であるがゆえに、自身の立場や知識の限界を見直すことが難しいのです。社会の変革を目指して研究をすることは、強烈な自己否定になるのです。
倫理に基づく研究の可能性
近年、「科学に基づく研究(Science-Based Research, SBR)」や「エビデンスに基づく研究(Evidence-Based Research, EBR)」が研究の基盤として重要視されるようになっています。「科学」や「エビデンス」という言葉は、あたかもその研究が客観的かつ普遍的な真理を示しているかのような印象を与えがちです。しかし、これらの枠組みは、社会の中で有利な立場にある人々の視点のみを反映していることが多くあります。むしろ、SBRやEBRの流行は、専門家のジレンマを覆い隠し、既存の社会システムに組み込まれている差別や不平等を強化する危険性をはらんでいるのではないかと危惧しています。
「専門家ジレンマ」を乗り越えるためには、科学やエビデンスに代わる新しい研究の基盤が必要です。私は、その基盤を「倫理」に求めたいと考えています。ここでいう「倫理」とは、単に規範的な行動指針を指すのではありません。それは、あらゆる存在の価値を肯定し、社会の中で抑圧されている人々の声への感受性を持つことです。
「倫理に基づく研究」は、専門家に、自身が依拠する「正しさ」や「権威」を疑うことを求めます。これにより、研究は社会の規範を再生産するのではなく、変革や新しい未来の可能性を切り開く力を持つものとなります。
本連載では、様々な領域で検討されてきた倫理についての議論を参照しながら、「倫理に基づく研究」の可能性を探っていきます。
執筆者プロフィール
楠見友輔(くすみ・ゆうすけ)
信州大学教育学部講師。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。主な著書に『子どもの学習を問い直す:社会文化的アプローチによる知的障害特別支援学校の授業研究』(東京大学出版会)、『アンラーニング質的研究:表象の危機と生成変化』(新曜社)など。
著書
楠見 友輔 (2024). アンラーニング質的研究―表象の危機と生成変化― 新曜社
楠見 友輔 (2022). 子どもの学習を問い直す―社会文化的アプローチによる知的障害特別支援学校の授業研究― 東京大学出版会
楠見 友輔 (2022~). 【連載】新しい時代の教育を創造する― 『教育と医学』 慶應義塾大学出版会