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トラウマ&バイオレンス・インフォームドケアの視点~支援の言葉や文化をケアフルなものにするために~(大阪大学大学院:大野美子、国立精神・神経医療研究センター:片山宗紀) #心理学と倫理

トラウマ&バイオレンス・インフォームドケア(TVIC)とは、トラウマインフォームドケア(TIC)の概念をさらに発展、拡張させたものです。TVICは、トラウマが社会的な構造や制度などによっても維持されているという視点を提供します。そして、支援の場においていかに新たにトラウマを生み出さず、維持させないかを考えます。
今回は、大野美子氏、片山宗紀氏にTVICを紹介いただきました。


 1960年代、ヘロインの使用に苦しむアメリカ人は、新たな治療法の登場に大きな期待を寄せていました。

 メサドン維持療法と呼ばれたその画期的な技術は、それまで苦しみに耐えながら断薬するしかなかった人たちに、人道的で、合理的な、新たな選択肢を提供しました。ヘロインと同じ合成オピオイド薬に分類され、長期作用型の薬剤であるメサドンを継続的に経口摂取することにより、オピオイド使用に悩む人たちは何ら問題なく社会生活を営むことができると、1965年の衝撃的な論文で発表されたのです。

 4年後の1969年には、コロンビア特別区で、政府主導のもと初のメサドン処方クリニックが開業しました。

 しかし、状況は大きく改善しませんでした。

 メサドンそのものに重大な欠陥があったわけではありません。メサドンの処方を受けるためには、毎日クリニックに通院しなければなりませんでした。出勤前にクリニックを訪れる人たちも大勢いました。必然的に、彼らは必要な薬の処方を受けるため、時に氷点下を下回る厳しい北部の寒さの中、早朝から長い列を為し、道行く人々の好奇の目に晒されながら、じっと自分の番が来るのを待ち続けるという屈辱的な通過儀礼を日常的にこなす生活を求められたのです。

 このような状況が新たなトラウマ体験となり、彼ら彼女らの物質使用を悪化させたのは想像に難くありません。

1.TICとTVIC

 トラウマインフォームドケア(TIC)は、トラウマの影響や、健康や行動に対してトラウマの影響が密接に関係することの理解を通して、ケアを必要とする人々に安全をもたらすことを目指す概念です。トラウマに特化したケアとは異なり、人々のトラウマ歴を聞きだしたり治療したりすることではなく、すべての人がさらに傷つくことがないよう、安全な空間を作り出すことを目的にしています。

 トラウマ&バイオレンス・インフォームドケア(TVIC)は、TICの概念を拡大し、構造的もしくは対人間暴力や、社会構造的な暴力(不公平)が人々に与える影響についての視点を提供します。この概念拡大により、過去または現在のトラウマを経験する人が抱える問題がその人の心の中だけでなく、本人を取り巻く社会環境の両方に存在するものと考えます。

 TVICは、2014年にブリティッシュ・コロンビア大学のブラウンらによって提唱され、近年では健康公平性を重視するカナダ政府の公衆衛生政策の主要なキーコンセプトに据えられています。本邦においては、TVICに関心を持つ有志のチームによって、同概念を紹介する4編の資料の翻訳と、TVICに関する日本発の事例集が開発され、国立精神・神経医療研究センター・精神保健研究所・薬物依存研究部のウェブページ上に2024年3月に公開されました

2.構造的暴力という視点

 構造的暴力とは、社会に潜む、当事者の抱える困難や症状を悪化させる社会システムを指します。

 治療アクセスの阻害要因、効果的な実践を阻む要因、当事者にとって危険な制度(例えば、DV(ドメスティック・バイオレンス)から逃げるため住民票の開示制限をかけると、定期的にDVの状況を事細かに窓口で説明することを要求される、薬を貰うために長時間屋外で待たなければいけない、など)について、制度の利用に抵抗を示す人を従来の精神医学・心理学的理論の枠組みでは「否認している」「深刻さが足りない」「底つきしていない」「ワガママだ」と考えてしまいがちです。

 現行の支援制度は、しばしば当事者を中心にした制度設計や治療構造になっておらず、利便性が低いアリバイ的な「制度のための制度」であり、システムが抱える欠陥を利用しない当事者の問題に還元してしまいます。TVICでは、このような阻害要因が当事者のトラウマを維持・増悪させている、という視座を提案します。

 個々の支援でも同様です。特定の治療構造、治療理論、支援プログラムに合致しない人たちに対して、「対象者の側に問題がある」のではなく、「支援が対象者のニーズに合致していない」と考えることをTVICでは推奨します。

 著者の一人は若い頃に性暴力被害や精神科入院を経験し、その後メンタルヘルス専門職になりました。哲学を専門とする立場から、精神医学、心理学、社会福祉学などの理論で暗黙に想定されている規範を問い直す研究をしています。治療や支援を受ける過程で疑問に思ったり傷つきを重ねたりした経験から、支援の文化や言葉を少しでも変えたいと考えます。「支援する側/される側」双方の経験を持つ者として、通訳や橋渡しができればとの思いでこの文章を書きます。

 性暴力被害への理解が不十分な社会では、被害を回避できなかった責任を被害者に押しつける論理が流通します。そうした論理に冷静に反論すれば「闘う強い被害者」と目され、傷ついて言葉を失えば「傷ついた弱々しい被害者」として扱われます。いずれも私の一面であるにもかかわらず、ステレオタイプの「被害者像」が押しつけられ、等身大の私自身でいることが難しいと感じてきました。

 私が支援を受けたとき、被害を受けた私は匿名のAさんと扱われました。プライバシー権とは、匿名にされ隠されることではなく、自己情報をコントロールする権利、つまり、自分についての正しい情報を発信する権利です。しかし、匿名のままで、自身の言動のオーナーシップ(自分のものだという感覚)を守ったり、主体性を発揮したりすることは、とても難しいと感じました。

 心理的支援においては、被害に遭っただけなのに、私自身の内面の問題として過度に個人化されて捉えられることに、違和感やもどかしさを抱きました。この点で、暴力を社会構造の中で捉える視点を強調するTVICに魅力を覚えています。

3.「医療の言葉」と「病や困難を生きる人の言葉」

 困難な状況の中で私が必死に紡いだ言葉は、医療や法律や社会学の専門用語に換言/還元されました。時に私の言葉は歪められた形で理論化され、理論に当てはまらない言葉は黙殺されました。典型的な「被害者像」に当てはまらない言動は「被害者らしくない」とされました。特定の理論的背景に立つことで、目の前のその人自身を理解することから遠ざかってしまうことがあることを、この言葉は表しているのではないでしょうか。

 理解されないもどかしさを抱いた私は、本を読んで精神医学や心理学や法律の理論や用語を身につけました。それにより、自分の状況を専門家に説明しやすくなりましたが、自分が本当に感じていることと理論や用語を操って説明することとの間に乖離が生じて、生の自分を置き去りにしているような違和感がありました。専門職になり、診断名を含む理論化された言葉を用いて仕事をするようになって、精神医療の言葉は良くも悪くも説明性能が高くわかった気になりやすいのだと理解しました。

 精神医療において、受療者の語りは医療化された文脈で症状として理解されがちです。患者が、症状と無関係の病棟における生活上の不満や改善を求める声をあげたとしても、医療者から「症状の悪化」と捉えられ薬を増やされることがあります。医療者―­­­­­­患者関係において、患者は医療者から「あなたのことはあなた自身より私の方がわかっている」と言われてしまう構造に置かれているのです。その結果、患者は自身の声を抑え込み「沈黙」を選択するか、訴えを正当に受けとめる度量のある治療者を慎重に見極めて発言するようになります。

 入院治療では、医療スタッフの暴力を目撃することがありました。たとえ自分に直接向けられたものでなくとも、見聞きするだけでとても傷つきました。処遇上の要望や意見を述べても、「不穏」「訴えが多い患者」のような「症状」や「問題行動」として「医療の言語」に回収されてしまい、無力感を覚えました。

 当初は抵抗を覚えたものの、次第に「このような対応を受けるのは、私がおかしいからだ」と思うしかなくなり、自己不信や自尊心の低下につながりました。被害で負ったトラウマよりも、医原性のトラウマの方が大きいと思うほど、入院医療で負った傷つきは深く、自己への信頼を取り戻すのに長い時間を要しました。

 過去の経験を開示することにはリスクが伴います。残念ながら、性暴力被害に関する無理解や偏見のため、被害者は「二次被害」を受けやすい状況にあります。その結果、被害者たちは、自身の経験を語ることを慎重に控えるようになります。

 私の場合、被害に遭い入院していた時期のことを語らずにいようとすると、会話において迂回するようにして、その時期のことが話題にならないようにする癖が身に付きました。このようにして被害を隠すという行為の帰結として、私自身の内部では逆説的に、繰り返し被害の経験が意識されるのでした。また、誰かと親しくなったとしても、自分にとって重要な事柄について話さないでいるために、どこか孤独に感じていました。

 被害経験を語らないことはそれ自体症状でないにもかかわらず、支援者や専門家から、「まだ語れないのね」と回復が進んでいないことの証左として評価されることがあります。被害者たちは慎重に語る相手と場を選択しており、単に「語らない」にもかかわらず、その行為は「語れない」と否定的に記述されてしまいます。

 たしかに、沈黙は、社会の無理解や偏見により被害者に強いられるものです。他方で、被害者たちは、単に強いられたから黙っているのでもありません。身近な人間関係が良好に進むよう意図したり(しばしば加害者は身内です)、目の前の相手が戸惑わないよう配慮したりする気持ちから、沈黙を選んでいると言ってよいでしょう。あるいは、被害をこえて生きる自分の大切な経験を共有するのは、そうしたいと思える相手とだけ、というのも当然のことでしょう。「語れない」との評価のもとでは、被害の後も続く人生を大切に守ろうとする人の生き様が取りこぼされてしまうように思うのです。

 被害者に沈黙をもたらしているのは誰なのでしょうか。名前を奪い匿名で振舞うことを強いるのはどんな社会なのでしょうか。沈黙の中に置き去りにされるのでもなく、ことさらに「スピークアウト」と言われるのでもなく、ただ自分の声で話すことを保障される。そのような社会が望まれます。

 専門職は時と場を待ちながら、語ってもらえる相手となれるよう信頼関係の醸成に注力したいものです。被害者が「被害に遭ったのは自分のせいではない、しかし、この先の人生を幸せにするのは自分の責任なのだ」と自らの人生を手繰り寄せて愛でることができるようになるには、周囲の理解と不当に傷つけられない安全な環境が不可欠なのです。

4.代理トラウマ

 ところで、TVICが、傷を受けることから守りたいと考えるのは、患者や支援される側に立つ人ばかりではありません。治療や支援に携わる医療福祉専門職もまた、傷つきやすい生身の人間です。そうした人間観に立ったうえで、代理トラウマの予防や対処を組織で行うことを推奨している点もTVICの特長です。

 対人援助の仕事は、自らの心をやわらかく差し出して傷ついた人の傍らに居続ける、ハードな仕事です。専門職もまた援助することで傷を抱えます。その傷が十分に手当てされないと感じるとき、医療や福祉の「論理」を纏って自分を正当化して守らなければ壊れてしまうと感じる人も多いことでしょう。

 援助職が、支援を受ける人の側に非や責任を押しつけたり、過度に防衛的に振舞ったり、時に暴力的な言動をしてしまうのは、援助職の側の悲鳴なのかもしれません。私自身、「支援する側」の理論体系を身につけて現場に立ったときに、「支援される側」として感じた理不尽な経験の意味をようやく理解したように思います。 

5.TVICの実践

 TVICの実践には二つのベクトルがあります。一つは個人における実践であり、この中には、個々の支援者が

  1. トラウマの存在を考慮した上で対象者にかかわり、日々の支援の中でこれを増悪・維持する要因を排除するよう努めること

  2. 対象者にとっての安全を重視すること

  3. 対象者の選択を尊重し、支持すること

  4. ストレングスに着目し、クライアントの能力や可能性を高める支援を行うこと

が含まれます。

 他方で、TVICは組織としての実践も重視しています。例えば

  1. トラウマに配慮した組織文化の構築、支援者への研修機会・安全の提供

  2. 当事者の意見をもとに安全を脅かす組織や制度システムを作り替え、また代理トラウマに対処すること

  3. 当事者のニーズに合わせた、利用者の意思が尊重され、柔軟に運用可能な支援プログラムの提供

  4. 個々の支援者に十分な時間を提供する、利用者のストレングスを活かすことのできる支援プログラムの提供

が挙げられます。

 このように、TVICでは再トラウマ化の予防のため、個々の支援者の実践のみならず、その背後にある環境の整備や、利用者のニーズにもとづいた制度設計への移行を組織の意思決定者に求めている点に大きな特徴があるといえるでしょう。言い換えるならば、対象者の声に対して組織や制度が「何もしない」ことが時に対象者のトラウマを悪化させる、とTVICでは考えます。

 共通するのは、危機的状況にある人の尊厳をできるだけ傷つけない“do no harm”の精神です。

 「興奮」「易怒的」「錯乱」と呼ばれるような状態は、突然の訪問に驚いて追い詰められるような気持ちから引き起こされているかもしれません。適切な表現方法がわからないだけかもしれません。何らかの症状を呈して自己コントロールを失っているように見える人も、相手が自分をどのような態度で扱っているかを繊細にキャッチしています。クライシスにおいてどのような態度で接したかが、後の援助関係に大きく影響します。

 過去の入院経験がトラウマティックな体験となって「二度と入院したくない」との思いから受療中断している人も少なくありません。過去の治療者・支援者に対してネガティブな思いを抱く人に対して、「この人は嫌なことをしない」と思ってもらうには長い時間を要するのです。

 支援にあたる際には、「症状」「問題行動」とラベルを付ける手前で、その人の行動や反応の意味を理解しようと努めたいと思います。時にシンプルに、自分が相手の立場ならどんな対応をしてほしいかを、考えてみることも必要なのではないでしょうか。

6.終わりに

 すべての支援関係には、支援者と被支援者という権力の非対称性が本質的に内包されています。より力を持っている側がこの権力性に対して鈍感であり、意図的であるか否かにかかわらずこれを濫用するとき、それが暴力となって支援関係そのものを外傷体験に変貌させるのは、私たちのチームが作成した事例集の通りです。そして、その体験は、時に当初のトラウマ体験よりも強烈に対象者の脳裏に記憶され、外傷体験をより複雑化、難治化させてしまいます。

 TVICにおける再トラウマ化の予防のゴールは、公平性の実現です。すなわち組織・制度単位で支援システムそのものをボトムアップに作り替える行為であり、このようなパラダイムシフトを促進するフレームワークを提供するのが、TVICだと私たちは考えています。

 なお、メサドン・クリニックの話には続きがあります。富裕層によるロビー活動を経て、メサドン・クリニックが羞恥的な体験になっていることを把握したアメリカ連邦政府は、地域で個人開業している精神科医に積極的にメサドンを処方するよう通達を出しました。

 これによって、問題は解決したかに見えました。しかし、実際にはそうではなく、高額な医療保険に加入し、個人開業のクリニックに通院する経済的余裕のある中上流白人のみが静謐な空間でメサドンを処方されるという特権を享受したのです。

 経済的に困窮状態にあり、医療保険に加入していない人の大多数は黒人を中心とした有色人種です。必然的に、黒人たちだけが寒い冬の路上に取り残されるという状況が形成され、実際の使用者の大半は白人であったにもかかわらず、ヘロイン使用を有色人種と結び付け、更なる偏見と差別を生み出すことになりました。

 このようなオピオイド使用に関する構造的不公平は未だに大きな問題としてアメリカで指摘され続けています。他方で、日本では、そのような選択肢さえ存在せず、薬物使用が「犯罪行為」と片付けられ、苦しみのうちに支援から「ドロップアウト」していく当事者が後を絶ちません。両者を比較した場合、どちらがより暴力的であるか、悩ましい話なのかもしれません。

 ケアとは、ともに傷を受けやすい人間同士の営みであり、だからこそケアの網を組織や社会に張り巡らせて、お互いに守り合いながら持続可能なケアシステムを構築していく必要があります。今一度この事実に立ち返りたいと思います。どうかTVICを手に、ご一緒に、「私たち」のために、支援の言葉や文化をよりよいものにしていきませんか。

参考文献

  • カール・エリック・フィッシャー.依存症と人類――われわれはアルコール・薬物と共存できるのか.みすず書房,2023.

  • Carl Hart. Drug-Use for Grown-Ups. Penguin Books, 2021.

執筆者プロフィール

大野美子(おおの・よしこ)
大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程/精神保健福祉士・社会福祉士・公認心理師。保健所や精神保健福祉センターで相談業務に携わってきました。哲学を専門とする立場から、精神医学、心理学、社会福祉学等の理論の背景にある規範を問い直す研究をしています。

片山宗紀(かたやま・むねのり)
医学博士・ハーム・リダクション・サイコセラピスト。
専門は薬物使用の本人・家族支援、スティグマ研究、トラウマ&バイオレンス・インフォームドケア、ハーム・リダクション。