
【連載】ほどよい家族支援を目指して―児童精神科訪問看護の舞台裏から(児童精神科医:岡琢哉) 第4回:発達障害の特性を「抱える」ということ―個人と家族、それを囲む環境という視点から
本連載では、児童精神科医、そして児童精神訪問看護ステーションを運営する立場である著者が臨床実践や理論を通じて、令和の時代の「子どものこころ」と「家族のこころ」について語っていきます。
子どもを支える環境の持つ課題
「子どものこころを支えるためには、家族や学校を含む環境を整えることが重要である」という視点から、前回は環境の持つ役割や環境を整えるための介入の意義についてお話ししました。中でも子どものニーズを受け取り、それに対して適度に応じる「ほどよい環境」の大切さを強調しました。環境の果たす役割に注目すれば、その大切さや必要性について理解が深まると思います。しかし、実際に環境側の立場に立って子どもたちを支えることを考えると、そこには多くの困難が伴います。
特に、発達障害を抱えた子どもたちに向き合う環境では、その困難さが顕著に現れます。自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如多動症(ADHD)の特性を持つ子どもたちは、日々の生活や社会の中で特有の困難に直面します。それに伴い、家族や学校といった環境も課題を抱えざるを得ません。
今回は、ASDやADHDの特性がどのように環境との摩擦を生み出し、また環境側にどのような負担を強いるのかを掘り下げて考えます。そして、発達障害を「抱える」ことの意味を、個人だけでなく、家族や環境の視点から探っていきたいと思います。
自閉症スペクトラムの特性と環境との齟齬
まずはASDの特性を抱えている子どもの場合について考えてみましょう。ASDの特性は大きく分けると「社会的コミュニケーションの問題」と「常同性、感覚過敏」の2つです。これらの特性は、それぞれ社会との交流や日常生活において環境との齟齬を生み出す原因となります。
ASDの子どもたちの「社会的コミュニケーションの問題」は、対人コミュニケーションの中で言外の相手の意図を読み取る力や自身の考えや想いを適切に伝える力の制限に起因します。
ASDの子どもと親との間でコミュニケーションのずれが生じる有名な例として「お風呂のお湯をみてきて」と伝えた時に子どもがじっとお風呂を見続けてお風呂のお湯が溢れてしまうという事例があります。このエピソードは、ASDの子どもが言葉を「文字通り」に捉える特性を象徴しています。親が本当に伝えたかったのは「お風呂のお湯が適切な量か、溢れそうになっていないかを確認してほしい」という具体的な意図です。しかし、子どもはその言葉の裏にある意図を汲み取ることが難しく、文字通りの「お風呂のお湯を見続ける」という行動を選択します。このようなミスコミュニケーションは、ASDの特性が親子の間でどのように日常的な摩擦を生むのかを如実に示しています。
このズレは、ASDの子どもが情報をどのように受け取るかという根本的な違いに起因します。一般的なコミュニケーションでは、言葉そのものだけでなく、話し手のトーンや表情、文脈など、多くの「非言語的な手がかり」がメッセージの解釈を助けます。先ほどの「お風呂のお湯」の事例は文脈の理解が追いつかなかったために生じているものです。このようにASDの子どもたちは、日常生活の中に溢れる非言語的な要素を読み取ることが苦手です。そのため、親が何気なく使った言葉や曖昧な表現が、期待していた反応とは全く異なる結果を生むことがあります。
また、ASDの子どもたちは自分が理解しやすい形で言葉や指示を受け取ることを求めるため、親や教師が漠然とした表現を用いると混乱を引き起こすことがあります。「もう少しちゃんとやろうね」「周りをよく見て行動してね」といった曖昧な表現は、ASDの子どもにとって具体的にどう行動すべきかが分からず、指示そのものが効果を持たなくなる可能性があります。このため、指示をより具体的かつ単純化する必要があり、親や教師には高い工夫と労力が求められます。
次に「常同性」について考えてみましょう。ASDの子どもたちは変化に対して強い抵抗を示すことがあります。たとえば、普段使い慣れた食器が変更されたり、毎日の通学路が突然変わったりすると、極端な不安やストレス反応を示す場合があります。このような常同性の特性は、子ども自身が安心できる環境を求める一方で、環境側に柔軟性のない対応を要求することとなり、家庭や学校の日常的な運営に負担を与える要因にもなります。
さらに「感覚過敏」の特性を持つ子どもたちは、環境中の音や光、匂いといった刺激に対して通常よりも強く反応します。たとえば、学校の教室のざわめきや蛍光灯の音、体育館での反響音が、他の子どもにとっては何でもないような音であっても、ASDの子どもにとっては耐えがたい刺激となることがあります。この感覚過敏の特性は、子どもが社会的な場に参加することを難しくし、家庭や学校生活に制約を与える要因となります。
不注意と衝動制御の問題と環境の求める成熟
続いて注意欠如多動症(ADHD)の特性を持つ子どもの場合について考えてみましょう。ADHDの子どもたちは主に「注意の切り替え」と「衝動制御」の2つの困難さを抱えています。これらの特性は、環境との関わりの中で、社会的な期待や行動規範との間に齟齬を生み出す要因となっています。
まず「注意の切り替え」について考えてみましょう。ADHDの子どもたちは、特定のタスクに集中し続けることが難しかったり、逆に1つのことに過剰に集中してしまったりして、周囲の状況に気づけなくなることがあります。たとえば、親が「片付けをして」と指示を出しても、子どもが遊びに夢中でその声が届かなかったり、逆に片付けを始めた途端に別のものに気を取られてしまったりすることで、最後まで終えられないことがあります。このような注意のばらつきは、親や教師に「言うことを聞いてくれない」「だらしがない」といった印象を与えることがありますが、実際には特性に起因するものであり、意図的なものではありません。
次に「衝動制御」の問題です。ADHDの子どもたちは、思いついたことを即座に行動に移してしまうことがあり、場面に応じた感情のコントロールや、適切なタイミングで行動を抑えることが難しいとされています。たとえば、授業中に突然立ち上がって教室内を歩き回ったり、友だちの発表中に割り込んでしまったりするといった行動は、周囲から見れば「ルールを守れない」と捉えられるかもしれません。しかし、これらは衝動制御の問題に由来しており、本人も意識を向けることはできたとしても、その行動を完全に制御することができないのです。
さらに、不注意と衝動制御の問題が複合的に絡む場面も少なくありません。たとえば、学校の図工の授業で「色を塗る前に形を作りましょう」という指示が出た際、最初は形を作る作業を進めていた子どもが、途中で絵の具に目が留まり、衝動的に色を塗り始めてしまうことがあります。その結果、作業全体が滞り、指示どおりに進められなくなることがあります。教師は「なぜ指示どおりに進めないのか」と叱る一方で、子どもは「ただ楽しく作業を進めたかっただけなのに」という感情を抱え、認識のズレが生じます。このような齟齬は、子どもに劣等感やストレスを与えると同時に、環境側にも負担を強いるものです。
こうした特性が、社会的な成熟や適応が求められる環境の中で摩擦を生む理由は、社会が一般的に「成熟」を、自己制御が可能であること、長時間集中できること、状況に応じて行動を抑えられることの中に求めている点にあります。たとえば、学校では机に向かって静かに座り続けることが求められますが、これはADHDの子どもたちにとっては過剰な負荷となり得ます。さらに、親や教師が「普通の子どもならできるはず」という基準で期待を押し付けると、子どもは劣等感やストレスを抱えることになります。
このように、ADHDの特性を持つ子どもたちと環境との間に生じる摩擦は、特性そのものと社会が求める規範との間にあるギャップから生まれています。子ども自身が意図的にルールを破っているわけではなく、特性が行動の背景にあることを理解する必要があります。しかし、その理解が欠けた場面では、子どもと環境双方にとって負担が大きくなる構図が生まれます。
特性を「抱える」ということと訪問看護の役割
発達障害の子どもたちが抱える特性は、個々の個性として尊重されるべきものである一方で、環境との齟齬を生じさせる要因となることもあります。この「齟齬」は、本人だけでなく、家族や学校といった環境側にも大きな負担を強いることが少なくありません。しかし、子どもたちが成長していく上で、特性そのものを修正するのではなく、それをどう「抱える」かという視点が支援の基盤となります。
「環境」という視点と共に、「抱える (holding)」という言葉もまた、イギリスの児童精神科医・精神分析家であるD.W.ウィニコットが自身の治療論を構築する上で使った重要な概念です。この言葉は、心理的な治療の過程で直面するさまざまな問題に対応する中で用いられ、「子どもを物理的に抱っこする養育者」の姿もその意味の1つとして示されています。養育者に抱えられている子どもは、物理的にも心理的にも保護される中で、自身の要求やフラストレーションを安全な環境の中で表現し、それに養育者が「ほどほどに」応じることで子どもの身体的・精神的な成長が支えられます。
こうした「抱える」という働きは、養育者と子どもとの関係性だけに留まらず、幼稚園や保育園、学校といった社会的な環境全体が持つ重要な機能として捉えることもできます。このように環境が十分に「抱える」という機能を果たすことで、子どもは自身の感情を表出し、困難を乗り越える素地を築くことができます。しかし、この「抱える」機能は、発達障害の子どもたちにおいては、特性による環境との齟齬が原因となり、環境がその役割を果たすことが困難になることが少なくありません。定型発達の子どもに対しては、親や学校が比較的スムーズに「抱える」働きを果たすことができますが、ASDやADHDの子どもにおいては、これまで取り上げたような事例のような特性が引き起こす出来事が環境の「抱える」力を超えてしまうことがあります。
このような状況において、医療や訪問看護といった外部支援が重要な役割を果たします。訪問看護は、家庭や学校という子どもたちの身近な環境に直接関わりながら、齟齬の原因を丁寧に観察し、必要な介入を行える希少な支援形態です。たとえば、訪問看護師が親の不安や葛藤に耳を傾けながら、具体的な対応策を一緒に模索することで、親自身の安心感を取り戻すきっかけを作ります。また、学校との連携を促進し、子どもが安心して学びに参加できる仕組みを整えることで、環境全体の「抱える」力を回復させる働きを担います。
これらの取り組みは、必ずしも外部支援者の介入なしで進むことが不可能ではありません。しかし、環境が「抱える」力を失うほどに疲弊している場合、訪問看護のような外部支援は、子どもと環境の間の摩擦を和らげる「緩衝材」として不可欠な存在です。環境が再びその働きを取り戻し、特性を持つ子どもたちが安心して成長を重ねる素地を築いた時に訪問看護はその役割を静かに終えることができます。そして、それは子どもたちが環境への信頼を土台に、自ら新しい出会いに向けて歩み出す契機となるのです。
【著者プロフィール】

岡琢哉(おか・たくや)
児童精神科医。岐阜大学医学部卒業後、羽島市民病院で初期研修を修了。岐阜大学医学部附属病院精神神経科、東京都立小児総合医療センター児童思春期精神科、医療法人社団神尾陽子記念会 発達障害クリニック、社会医療法人聖泉会 聖十字病院 医長、岐阜大学医学系研究科博士課程を経て、現在は医療法人社団あやなり 理事。株式会社カケミチプロジェクト代表取締役として、地域での臨床に限らず、訪問看護事業、インターネット上の情報発信、放課後デイサービス向け研修事業を展開している。主な著書に、『発達障害のある子のメンタルヘルスケア』(金子書房・共著)、『心を壊さない生き方:超ストレス社会を生き抜くメンタルの教科書』(文響社・共著)など。