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【特別寄稿】いじめについて改めて考える――いじめによって命を落とす子どもをなくすために(東京経済大学現代法学部教授・弁護士:野村武司) #子どものいじめ被害をなくすために私たちができること

 大津市中2いじめ自殺事件をきっかけに、2013年に『いじめ防止対策推進法』が成立・施行され、10年以上が経過しました。その後、「いじめはダメである」という認識が広まったにもかかわらず、いじめ認知件数およびいじめに起因した自殺(未遂含む)・不登校などは増加し続けている現状があります。子どものいじめ被害を減らすために、私たちにできることは何でしょうか。全3回のシリーズで検討します。
 最終回となる第3回は、東京経済大学教授・弁護士・日本いじめ防止学会代表理事の野村武司先生にご寄稿いただきました。

 いじめは理解されているか?

 いじめに当たるか否かの判断は、いじめられた児童生徒の立場に立って行う――最近では、ずいぶんと浸透してきており、「いじめとは何か」を問うと、たいていの人はこのように答える。他方で、現場に耳を傾けてみると、(いじめと認められないことに対して)「いじめられている側が『傷ついた』と言えばいじめではないか」との主張がなされたり、逆に(この程度でいじめになるのかという思いなどから)「相手がいじめだと言えばいじめになるのか」と疑問が投げかけられたりすることがある。果たして、異口同音にいじめに対して示す理解ほどに、いじめのことが理解されているといえるのだろうか。

 いじめはどうしてこのように定義されたか

 いじめ防止対策推進法は、その第2条で、いじめとは、(要約して述べると)「影響を与える行為であって、児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」と定義し、児童生徒の「心身の苦痛」を決め手としている。これは、文部省(当時)がいじめを把握するために定めた最初の定義(1986年度)を初めて改定した1996年度に入れられた「(いじめの判断は)いじめられた児童生徒の立場に立って行う」から続くものである。もっとも、法以前のいじめの定義では、「行為」について、「攻撃性」のあるものとしていたのに対して、いじめ防止対策推進法では、その要素を取り払い、「影響を与える」と価値中立的にとどめたことから、よりいじめられた児童生徒の「心身の苦痛」が決め手として際立つ形になったと指摘することができる。

 こうしたいじめの定義の変遷に対して、前述のように、とりわけ、「広すぎる」との観点から批判がしばしばなされるが、なぜ、このような変遷をたどってきたのかについては振りかえっておく必要がある。それは、ひとことで言えば、最初の定義のきっかけになった中野富士見中学校事件、次の定義の改訂につながった愛知県西尾市立中学校事件、さらに改訂を余儀なくさせた北海道滝川市立小学校事件、そして、いじめ防止対策推進法の制定のきっかけになった大津市立中学校事件と、10年周期のように、いじめによって子どもの命が失われる事件が、さまざまな対策にもかかわらず、なお続くことに対する、いわば「焦り」であったと筆者はみている。

 いじめは、これまで、その被害を訴えても、いじめを行っている子どもの言い分が勝り、聞き入れられないことがあった。例えば、「弱い者いじめじゃないから、いじめではないよね」、「相手がやり返しているから、いじめではなく喧嘩だよね」、「相手が悪いんだから、いじめではないよね」、「ずっと続いていたわけではないので、いじめではないよね。」、「悪ふざけにすぎないから、いじめではないよね」といった、①力関係、②双方性、③正当性、④非継続性、⑤非加害性(非悪意性)、⑥遊戯性、⑦程度等を内容とする言い分である。こうした言い分に、大人は理解を示し、いじめを受けている子どもを説得する形で、(ときに双方が謝罪するなどといった方法で)和解を試みてきたという場面が少なからずみられる。

 しかし、ここで気がついておく必要があるのは、「大人がみていること」は、いずれも、行為者の行為や行為の意図であって、いじめられている子どもの「心身の苦痛」ではないということである。そして、その結果として、「心身の苦痛」を覚えている子どもはこれを我慢し、何も解決しないまま和解をせざるを得ない状況が生じていた。

いじめとは何かを知る――行為主義の克服

 いじめの特徴として、それを行った子どもが考えている以上に、受けた子どもが傷ついているという両者のギャップがある。つまり、「たいしたことがない」、「ふざけていただけだ」と思って行ったことが、さらには、「よい」と思って行ったことが、実は相手方を深く傷つけていることがあるということである。それが故に、行う方は、ある意味悪気なく繰り返すことがある。受けた方は、辛いにもかかわらず自分が悪いと思ってしまったり、(報復が怖いであるとか、恥ずかしいであるとか、心配かけたくないなど理由はさまざまではあるが)言えずに胸にしまい込んでいたり、気がつかれないように振る舞ったりする。その関係からはずれたくないという気持ちが強い場合、辛さを認識できない場合もある。こうした行った方と受けた方のギャップがいじめの本質的な特徴である。こうして受けた心身の苦痛は想像以上に大きい場合があり、顕在化したときには取り返しのつかない状態にまで至っていることもある。

  元来、「いじめ」という言葉は、行為を表す言葉であり、それ自体として、「相手に対する酷い行為」として理解するのが社会通念である。しかし、人の行為によって学校に来られなくなってしまったり、死までをも選ぶということを念頭に置くと、対処すべきいじめの範囲を、こうした「酷い行為」に留めておくことはできない。いじめを、「酷い行為」を留める限り、いじめによって命を失う子どもをなくすことはできない。

  「(いじめの一部である)酷い行為」については、「それを行ってはならない」、「ゼロにする」という教育は効果的である。しかし、いじめはこれにとどまるものではなく、その意味では、どこにでも起こりうることであり、なくすことはできないといってもよい(いじめ防止対策推進法第4条が「児童等は、いじめを行ってはならない。」とするのは、明らかに「酷い行為」を言っているのであり、第2条のいじめの定義と整合的でない)。また、それを行った子どもが気づいていないこともあり、周囲の子どもも気がつかないことも多い。そうしたいじめの場合、社会通念上の尺度をもって、「いじめか?」と問うことはかえっていじめを見落とすことになってしまう。どんな些細なことであろうがそこからいじめを発見しようとするのであれば、(社会通念上の)「いじめ」という尺度ではなく、(日常の変化に)「傷ついていないか」と問うことが大切だと言える。これが、「いじめられた児童生徒の立場に立って行う」ことの意味である。

 いじめは、「行為」をみていてもそれを発見することはできない。正確に言うと、「行為」を見ていじめを発見しようとすることは、酷い行為やその萌芽の発見にはつながり大切ではあるが、他方で、そうでない行為を見落とすという大きな副作用を生じることになる。「心身の苦痛」に目を向けてはじめて、いじめを発見することができ、どの程度のいじめかを評価することができるのである。「行為主義」を克服すること、これがいじめ防止等の対策において最も大切なことである。

いじめにどのように対応すべきか

 「行為主義」に基づくいじめの指導の例を挙げておこう。学校現場でよくやられていることであるが、いじめの訴えがあった場合に、いじめを行った子どもから事情を聴き、「わざとやったわけではなかった」、「悪気があってやったわけではない」ことがわかった場合、しばしば、いじめを受けた子どもに対して、そのように説明をして理解を求めることがある。もちろん、「わざとだ」「悪意だ」と疑心暗鬼になっている子どもにとっては、そうでないことがわかり、解決に至る場合もある。他方で、こうした指導は、実は、これを受けた子どもの「心身の苦痛」に配慮しないものとして、「悪くない自分が説得されている」と映り、それが故にさらに傷つくことがあることには十分留意する必要がある。教師は、当然、よかれと思ってこうした指導を行うが、実は、いつの間にか「行為主義」に陥っており、そのことに気がついておく必要がある。 

 「心身の苦痛」に基づいて判断されるいじめは、一般に理解されている「いじめ」よりも広く認定されることから、実際には、これを行った子どもに対して、「いじめ」と言ってしまうと、社会通念上、「かわいそうな」場合を生じることは、「行為主義」の克服が大切であるとしても、理解をしておく必要がある。国の「いじめ防止のための基本的な方針」(平成29年3月14日改定)では,「いじめ」という言葉を使わず指導するなど,柔軟な対応による対処も可能」とする真の意味はこの点にある。そして、かかる場合の「指導」の意義は、影響を与える行為によって、(意図せずとも)「心身の苦痛」を与えてしまったということを、これを行った子どもが知り、向き合い、理解し、理解した気持ちを真摯に伝えられるようになるところにある。両者の間に生じたギャップを埋めることであり、これを行った子どもに責任を負わせることではない。

いじめによって子どもの命が失われないために

 いじめは、これを受けた子どもの「心身の苦痛」を尺度として、いじめられた児童生徒の立場に立って判断するということは知られるようになってきている。しかし、いじめの認知に際して、「いじめか?」と問いを発することで、語感によるバイアスが生じ、人はいつの間にか、行為を評価するようになっている。「(いじめというほどに)酷くないのではないか」、「(悪意をもって)わざとやったわけではないのではないか」などである。その行為の態様や意図によって、行為者に責任を負わせられないとの意図は大切なことであるが、こうした思考が、対応次第で、受けた子どもの心身の苦痛を考慮しない結果を招くことになるということには十分留意する必要がある。 

 いじめを防止し、早期に発見し、適切に対応するということは、日常の子どもたちの出来事において、他方が心身の苦痛を生じることがあったとしても、これをいじめとして早期に発見し、適切に対処し、子どもがそのことにより心が折れてしまったり、学校に行けなくなったり、命を落としたりすることがないようにする点にある。

 いじめは、これを行った子どもからみえているものと、これを受けた子どもが感じているもの(心身の苦痛)の間にギャップがあり、しかも、これを受けた子どもが表現しづらいという特徴があり、大人がこれを発見してやらなければ、解決に至らないことも多い。いじめを受けている子どもは、親にもなかなか打ち明けないという現状も踏まえると、学校現場での役割は極めて大きい。

 いじめとは何かについて、改めて真摯に向き合い、いじめ防止等の対策が適切に取られることを切に願う。

著者プロフィール

野村 武司(のむら・たけし)
東京経済大学現代法学部教授、獨協地域と子ども法律事務所弁護士(埼玉弁護士会)、国連NGO特定非営利活動法人子どもの権利条約総合研究所副代表。2023年に設立された日本子どもいじめ防止学会の代表理事に就任している。各地の子どもの権利条例策定に関わる。日弁連子どもの権利委員会幹事。中野区子どもオンブズマン、国立市子どもの人権オンブズマン・スーパーバイザーなどのほか、各地のいじめ重大事態第三者調査委員会の委員を多数務める。著書(共著)に『事例でわかる 子ども虐待対応の多職種・多機関連携』(明石書店,2022)、 『子どものいじめ問題ハンドブック:発見・対応から予防まで』(明石書店,2015)などがある。