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連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第12回:託す、ということ

旅するヌイグルミ

 十年くらい前に、ある旅行会社のことを知りました。ウナギトラベルという会社で(社長がウナギ好きらしい)、そこは人間のためのツアーを主宰しているのではありません。ヌイグルミだけを旅行に連れて行ってくれる会社なのですね。ツアーは浅草や横浜の有名スポットを巡るものであったり、ときにはハワイまで行くコースがあったりと、さまざまなプランがある。料金は、当時で国内旅行が四千円前後でしたね。個人的には、妥当な値段だと思いました。

 利用をするにはまずはツアーを申し込み、それから本社(東京)へヌイグルミを郵送する(体重制限300グラム)。するとコンダクターがヌイグルミを連れて旅をする。ちゃんと観光スポットを背景にヌイグルミの写真を撮ってくれる。一回のツアーで15枚の写真が撮影される。そして旅が終わると、写真データを添えてヌイグルミを郵送で送り返してくる。そのような仕組みになっていました。

 今でも会社は無事にやっているのかな(コロナ渦がありましたからね)、と思ってさっき調べてみたら、ちゃんと営業をしていたので安心しました。

 さて、これはいったいどのような人が申し込むのでしょうか。長期療養を要する病人だとか、あれこれとハンディを抱えて旅に出られない人が、自分の身代わりとしてヌイグルミを送り出すのか。仕事が忙し過ぎたり、介護だとかケアでまとまった時間が取れず、いわば憂さ晴らしとしてヌイグルミを代理に立てるのか。

 実は、わたしはこのツアーを利用してみようかと考えたことがあります(実行しないまま、十年が過ぎてしまったわけですが)。寝室にお気に入りのヌイグルミ(犬です。猫は本物を飼っているけれど、犬はヌイグルミ)があって、それを旅に出そうと思ったわけです。でもその気になれば、わたしは旅行へ行くだけの時間はどうにか捻出できる。だから当方のような人間にヌイグルミ・ツアーは不要な筈なのです。だがそれでもこのツアーは魅力的に思えます。なぜでしょうか。

世界の重層性

 薄暗い地下室でオレは昨夜からずっと働いていたので知らなかったが、ああ、嵐のようだった昨日と打って変わって今日は雲一つない快晴なのであった――そんな意外性に近いものを味わってみたいからなのです。ヌイグルミを自分の分身に近いものとして捉えるならば、自分が過ごしていた時間帯にヌイグルミが別な体験(しかも楽しい体験!)を満喫していたという事実はわたしに世の中の重層性というか豊かさに近い感触を与えてくれるように思えるのですね。

 今こうしている瞬間にも、歓喜や幸福感に酔いしれている人がいるでしょう。逆に、絶望感や恐怖に打ちのめされている人もいるでしょう。あらゆる可能性があらゆる場所で同時多発的に実現されているに違いない。そして自分はいつも「可能性」が孕むダークサイドに引きずり込まれそうな気分に怯えています。ときには世の中に「喜び」が潜在している可能性を思い起こさなければ、気持が果てしなく落ち込んでしまいそうだ。大切なヌイグルミを旅に出してこそ、陰キャであるわたしは、地下室で晴天の空を鮮明にイメージできるというわけなのです。

 観光スポットでわたしのヌイグルミを旅行会社のコンダクターが撮影していれば、好奇心に駆られて声を掛けてくる人もいるでしょう。きっと、好意と情味に満ちた会話が交わされるのではないか。そのような場面を想像すると、気持がほぐれてきます。性善説といったものを信じたい心になってきます。わたしのようにシニカルな人間であっても、ときには暖かなものを思い描きたくなる。

 わたしはヌイグルミに、善意や優しさへの渇望を託してツアーに送り出すことになるでしょう。馬鹿げていると笑うのは簡単です。でもね、こういったものに心惹かれる人がいることを認められない精神は貧しいと思う。そのような貧しい精神の持ち主こそが、残忍なことを平気で行えるのではないか。もちろん、ヌイグルミ・ツアーの利用者全員が「善き人」であるなどとは思っていないけれど。

 個人的には「絆」なんて言葉は大嫌いで、鬱陶しく感じてしまう。でも、その割にはいつも寂しさを感じている。そんな人間にとって、ヌイグルミ・ツアーは情愛や良心のドミノ倒しみたいなものを想像させてくれる装置に見えるのです。 

絵葉書を集めた話

 人はしばしば何かに自分の気持ちを託します。「推し」というのだって、たんに大好きとか熱烈なファンというだけではない。推している対象に、成功や自己実現や輝きといったものの実現を託している。たんに夢を肩代わりしてもらっているのではなく、実現に向かって積極的に後押しをすることによって、自分もまた夢の実現に参加できるところに妙味があるのでしょう。

 六、七年前に、主にオークションを通じて古い絵葉書(大正~昭和初期)をコレクションしていました。明治から太平洋戦争以前には、何か事件があるとそれを写真に撮って絵葉書にして売り出すといった習慣がありました(現在の写真週刊誌に近いシステムです)。いろいろな事件のうち、わたしは飛行機の墜落した光景の絵葉書ばかりを蒐集していたのでした。その時代の飛行機はコックピットも剥き出しの複葉機で、エンジンの不調や空中分解、失速などで墜落事故が多く、そうした様子を撮影した絵葉書がときおり発行されていた。それを丹念に集めていたのでした。

 そんなものをわざわざ集めていたのには理由があります。当時、わたしの人生がなかなか上手くいかず、いわば低迷期にありました。そうなると気持ちも落ち込む。うつ病にこそならなかったものの、気分は冴えず、毎日がどんよりと暗い。そのような精神状態を、墜落した光景にわたしは託していた。ある種の自嘲、自己憐憫といったものでしょうか。まさにいじけた振る舞いでしたが、絵葉書蒐集を通じてわたしは自分の鬱屈をまるで他人事のように観察していた。やがてコレクションの充実という「達成感」とともに、落ち込んだ気分も回復し始めたのでした。

客観視について

 もしかするとわたしたちは「わだかまり」や「とらわれ」といったものへ、自分自身の心に潜む怒りや不全感や不安や悔しさなどを(無意識のうちに)託してしまっているのかもしれない。飛行機が墜落した光景の絵葉書に、わたしが鬱屈した気持ちを託したように。

 ある意味、「わだかまり」や「とらわれ」は具体的で明確なものです。しかもそれは忘れ去ったり打ち消すのが困難なまま心の中に居座っている。そうなると、いつしかそれはネガティヴな感情を託しやすい存在となってしまいかねない。すなわち、「わだかまり」や「とらわれ」にますますエネルギーが注入されてしまう。これはまずい。

 まずはそうした心の働きを自覚するのが大切でしょう。それを面白がってみるのもいいし、自ら実況中継をしてみるのもいい。客観化を図るわけですね。

 で、それから先は?

 もちろん「トントン拍子」に事態が改善するわけではない。ただし、わたしたちは日々を過ごしているうちにさまざまな出来事に遭遇します。その際、自分を客観視できるようになっていると、その出来事を「自分にとってプラスに利用できるような態勢」に整えていけるように思えるのです。すると、意外なことが意外に作用する。それこそが人生の面白さだし、小説やドラマにもそうした実例はいくらでも描かれているではないですか。

 態勢を整えることは可能です。それが功を奏して、悪循環が逆方向に回るようになってくる。「わだかまり」や「とらわれ」もいつしか形骸化してしまうでしょう。それって本当なのか? ええ、本当にそんなものです。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

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