心について語るときに学習心理学者の僕が語ること(専修大学人間科学部心理学科:澤幸祐) #心とは何か
異世界転生したいあなたへ
みなさんは異世界転生モノという小説やアニメのジャンルをご存じでしょうか。うだつの上がらない主人公が事故などで命を落としたかと思ったら、異世界ファンタジーの世界に生まれ変わって大活躍するというのが典型的な筋書きかと思います。転生したときに元の世界と全く同じ身体のときもあれば容貌が変わっていたり、場合によってはスライムだったり剣だったりと人間以外のものに転生するという話もあります。こうしたお話を聞いて、みなさんは何か疑問に感じないでしょうか? 「転生とか異世界とかありえないですよね」などとフィクションに対して野暮なことをいいたいわけではありません。心理学者の端くれとして、僕にはどうもひっかかるところがあります。
異世界転生モノには、異世界の存在や転生という超自然的なものの他にも前提としているものがあります。それは、「人間の心は、その人の身体を離れて別のものに移し替えることができる」ということです。現世の肉体を離れて異世界で別の身体や事物のなかに心が宿るということは、人間の心は器に入っている水のようなもので別の器に移し替えることができる、と考えているわけです。こうしたギミックは形を変えていろいろなフィクションに登場します。フィクションだけではありません。いろいろな技術の進歩により、人間の精神を機械にアップロードしようという研究も行われています。もし実現すれば、それこそフィクションの世界が現実になるかもしれません。果たして、我々の心は別のものに移し替えられるものなのでしょうか?
学習心理学者は何を心と呼んでいるのか
「心とは何か 」という問いに対する答えによっては、我々の心は別のものに移し替えられるかもしれません。ただ、この問いに対して万人が納得のいく答えを与えられる人は、おそらくいません。この問題を難しくしている理由はさまざまですが、もっとも大きな理由は「心は見ることも触れることもできない」ということでしょう。目の前に「心」を置いてみんなで同じように観察できるのであれば、「心とは何か」について研究することはずいぶん簡単になりそうに思われますが、そうはいきません。なので、「心とは何か」という問いを考えるためには、「僕たちは何を心と呼んでいるか」について示す必要があります。
僕の専門は学習心理学と呼ばれる分野です。学習といえば「勉強すること」をイメージするかと思います。心理学において学習(learning)とは、「経験によって生じる比較的永続的な行動の変化」を指します。この定義にあっていれば勉強以外のことも学習ですし、定義にあっていなければ学習とは呼びません。鉄棒の練習をして逆上がりを習得するのも学習ですし、おいしいラーメン屋に足しげく通うようになるのも学習です。また、交通事故を目撃してしまい、事故現場の交差点を避けるようになるのも学習です。
学習の定義において、重要な要素の1つは「行動の変化」という部分です。先に述べたように、「心」は直接観察することができません。しかし、「行動の変化」は観察することができます。学習心理学者は、研究者のあいだで客観的な合意を得るために、「観察される行動に客観的に確認できる変化があったか」という部分を重要視してきました。学習研究における問題設定は、経験に基づく行動の変化が何を原因として起こるのかを明らかにすることであり、この問題設定に基づけば、学習心理学者は「行動の原因、行動変容を引き起こす原因となる機能をもつもの」を心と呼んでいるといえるかもしれません。
行動の原因を巡る2つのアプローチ
「人前での発表がうまくいかず笑われたせいで、人前に出るのが怖くなってプレゼンの場面を避けるようになった」という状況を例にとり、行動の原因について考えてみましょう。これは経験によって生じた行動の変化なので、学習の一例です。「プレゼンの場面を避ける」という行動変容の原因はなんでしょうか。この問題に対する答えは、最近の教科書(De Houwer & Hughes, 2020)に基づくと、大きく2つに分類することができます。
第一の答えは、「人前に出るのが怖くなったから」というものです。プレゼンの場面を避けるのは、恐怖という感情のせいだというわけです。学習によって恐怖が獲得されることは、繰り返し実験的に示されてきました。例えばラットに対して「音刺激の後には電気ショックがやってくる」という実験をすると、音刺激を提示しただけでラットは身をすくめて動かなくなることが知られており、これは恐怖反応であると解釈されています。
この答えのポイントは、「行動の原因は人間(あるいはラット)の中にある」と考えているところです。そもそも恐怖という感情は我々の主観的なものですし、学習理論のなかでも「音刺激と電気ショックのあいだに結びつき(連合)ができる」といった観察できない仮定を導入して説明を行います。この答えによれば、「プレゼンの場面を避ける」という外部から客観的に観察可能な行動の原因は、直接観察できない我々のなかにある何か(この例でいうと「恐怖」あるいは「プレゼン場面と失敗の結びつき」)によって生じている、ということになります。このように、我々の中にある直接観察できない何かを仮定し、学習のメカニズムを考える立場を認知的アプローチ(cognitive approach)と呼びます。
第二の答えは、「人前での発表がうまくいかず、笑われたから」というものです。もし人前での発表がうまくいっていれば、プレゼンを避けるようなことはなかったでしょう。その意味では、「人前での発表がうまくいかなかったこと」を「プレゼンを避けること」の原因と考えるのは筋が通っているように思われます。ラットの恐怖条件づけの例でも、「音刺激の後に電気ショックがやってくる」という経験をしたラットが、音刺激に対して恐怖反応を示した理由を「音刺激の後に電気ショックがきたから」と解釈するのは理にかなっています。
この答えのポイントは、「行動の原因は人間(あるいはラット)の外にある」と考えているところです。この考え方の利点は、学習が生じた原因を直接観察し、操作することができるというところにあります。行動の原因は外部環境にあると考えるわけですから、外部環境に働きかけることでより望ましい行動を引き出すような介入を計画することが容易になります。こうした考え方は、「行動と環境の関数(function)関係を重視する」あるいは「環境や行動のもつ機能(function)を重視する」ということから機能的アプローチ(functional approach)と呼ばれます。
僕は何を心と呼んでいるのか
ここまで、学習という現象を巡って2つの答えをみてきました。これを踏まえて、学習心理学者としての僕は何を心と呼んでいるのかをお話しします。学習研究では、行動の原因、行動変容を引き起こす原因となる機能をもつものを心とみなすといいました。認知的アプローチによると、行動の原因、行動変容の原因は我々のなかにありました。「我々のなかにあり、行動を引き起こしたり行動を変化させたりするメカニズム」を「心」と呼ぶことに、みなさんは大きな抵抗はないかもしれません。ずいぶんと単純化してしまいましたが、我々の直観にも合うでしょう。
一方で、機能的アプローチによれば、我々の行動の原因は外にあります。もし「行動の原因は心である」というなら、心は僕たちの外にあることになってしまいます。これは明らかに直観に合いません。しかし、僕たちの行動は外にある環境によって影響を受けています。認知的アプローチが示すように、「僕たちの中」には行動の原因となるメカニズムが仮定できますが、これが正常に動作するためには、機能的アプローチが扱うような「僕たちの外」にあるものとの関係が不可欠です。たしかに、もし「時計のねじを巻くのは人間の手なのだから人間の手は時計である」という主張をする人がいればそれは暴論だと思うでしょう。しかし機械で巻こうが手で巻こうが同じように動く時計ほど単純ではなく、「僕たちの中」は「僕たちの外」と分かちがたく結びついています。
こう考えてみると、僕たちの心は、僕たちの中にだけあるものではなく、中と外の結びつきに支えられた相互作用にあるように思えます。以前僕は、「心とは穴の開いた袋のようなもの」という例えを本のなかで書いたことがあります (澤, 2021)。たしかに中や外はあるのだけども、あちこちに穴が開いていて境界も曖昧で、内外の相互作用が絶え間なく生じている全体こそが心、というイメージです。これは学習心理学者全員が同意するものではないと思いますが、これが心について語るときに僕が語るものです。
最後に、最初の問題に戻ってみましょう。もし異世界転生したら、僕は僕のままでいられるでしょうか? みなさんはどう思われますか?
引用文献
De Houwer, J., & Hughes, S. (2020). The psychology of learning: An introduction from a functional-cognitive perspective. The MIT Press.
澤 幸祐 (2021). 私たちは学習している――行動と環境の統一的理解に向けて―― ちとせプレス