命を慈しみ 心に寄り添う ということ(後藤智子:梅花女子大学教授)#私が安心した言葉
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命を慈しみ 心に寄り添う ということ(後藤智子:梅花女子大学教授)#私が安心した言葉

いじめられている人にかけられる言葉は、安心できるものとは正反対のものだと思われます。そんな言葉や冷たい態度を取られ続けた人はいつもどこか安心できず、つらさを感じやすくなったり、かたくなになったりしがちではないでしょうか。そんな人たちの心に届く言葉とはどのようなものでしょう。いじめ問題にずっとかかわり続けてきた後藤智子先生にお書きいただきました。

 いじめを受けるなどして、人との関わりにおいて、他の人間を信じられないほどに、絶望の深みにいる人に、どのような言葉を掛けたらよいのでしょうか。どのような態度を示せばよいのでしょうか。大きなお題をいただいたと思いながら、積読の森を彷徨っていましたところ、河合隼雄先生の『大人の友情』(朝日新聞社)という本にたどり着き、以下の言葉に出会いました。

友人との関係が深くなるにつれて、その影の部分が明らかになるにもかかわらず、なお友人関係が続くためには、そこに「やさしさ」がなくてはならない。友人の欠点や、時には悪事をさえ知るかもしれない。それを肯定することはないが、非難する前に、まずそのようなことのある人間としての苦しみや悲しみの方に身を寄せる。その気持を共にした上で、それからのことを共に考える。外から見て批判し、非難する以前に、内側に共に立って感情をわかち合う、やさしさが友情を支える。

 影に、生きることの苦しみや悲しみが付きまとっていることも、ありうるのではないでしょうか。

 いじめとは、日常生活の中で、人間の影の部分が明らかになる、比較的身近な現象であると思われます。文部科学省のいじめの定義から、「一方的」「継続的」という言葉が除かれて久しいですが、そのことは、いじめは相互的・双方向的に・一過性のものとしても、生じるということを鑑みての変更です。傷ついた魂は、その傷を示し、和らげ、あるいは理解を求めるために、相手を傷つけ返したり、別の人を傷つけたりし、その傷つけ合いの連鎖は、そのままにしておくと止むことはないように思われます。いじめの被害者が、のちに加害者となる連鎖が指摘されている所以です。かつて傷つけられた人が、人を傷つけることもあるのです。

後藤先生 写真

 その連鎖を止める一つの手がかりが、『奈良少年刑務所詩集 世界はもっと美しくなる』(ロクリン社)にあるように思います。この詩集は「社会性涵養プログラム」の一環としての「物語の教室」(講師の寮美千子・松永洋介夫妻と、当時の法務教官の竹下三隆・乾井智彦両氏による)において、受刑者の少年たちが綴った詩が収録されています。詩作および分かち合いの目的は“受刑者たちの心にまとった鎧をはずし、心を開いて自己表現ができるようになってもらうこと”とあります。以下に、受刑者のある少年Gくんの作品とコメント(適宜引用)を、いくつか紹介させていただきます。

生きること
人は一人では生きていけない / 誰かの為に何ができるか 日々考えて生きていきたい / そうしたら僕自身も / 生きていてよいのだと 思えるだろうから
最近思うこと
僕は 誰からも必要とされていない人間だから / 自分から死のうとしたり 家族や彼女に殺されそうになっても / 何も言ったりせずに 受け容れていることが多かった / でも 最近は / こんな僕でも 必要としてくれている人がいるってことがわかり / 僕も 生きていてよいのだと思えるようになりました
 Gくんは、強い虐待を受けてきたのでした。‥この授業に参加するようになって、だんだん作り笑いが消え、ほんとうに笑えるようになりました。教官は「弱いところを正直に見せてくれてありがとう」といいました。弱さをさらけ出せることが、強さになっていくのです。次の詩は、最後の授業の作品です。
気持ち
これから先 / どんなことがあるかわからないけど / 少しでも 僕のことを必要と思い / 気に掛けてくれる人がいることを 忘れずに / 前向きに生きていきたいと 思えるようになりました
あのHくんが、Gくんが詩を朗読し終えるのを待ちかねるようにして、机から身を乗り出して言いました。「おれ、おまえのこと好きだから、死ぬんじゃないぞ」Gくんは、H君を見て、うん、とうなずきました。

 法務教官の乾井氏が、本書に以下のようなメッセージを寄せています。

自分の命の大切さがわからなければ、他人の命の大切さもわかりません。人は、だれかに大切にされて、はじめて他人のことを大切にできるのです。どうかお子さんの命を慈しみ、心に寄り添ってあげてください

 このことは、いじめや暴力の加害者の周囲の人々だけでなく、被害者の周囲の人々、すべての人々へのメッセージと感じます。

後藤先生 挿入写真 いつくしむ

 命を慈しむ、という言葉に触れるとき、筆者の心に思い浮かんだのが、元フィギュアスケート日本代表の鈴木明子さんの『ひとつひとつ。少しずつ。』(角川書店)という著書です(私の好きなスケート選手です)。タイトルに寄せて、鈴木さんは以下のように述べています。

私の22年のスケート人生をあらわしています。もしかしたら、何段も飛ばしていく方法もあったかもしれません。でも、私にはできませんでした。
ひとつひとつ。少しずつ。階段を上がっていきました。私には一歩一歩上がるしか方法はなかったのです。

 鈴木さんは、ご自身のことを “できないくせに完璧主義” と述べておられます。大学入学後に摂食障害に罹患しながらも乗り越え、29歳のソチオリンピックで有終の美を飾り、惜しまれつつ引退されました。その鈴木さんの病からの立ち直りのきっかけになったのが、お母様からの “食べられるものから食べようね” という言葉であったように思われます。

 その言葉を掛けられたとき、鈴木さんは、“わかってくれたんだ。私は生きていてもいいんだ” と思えた、と述べておられます。お母様が “当たり前のことができない娘も、食事のできない娘も、自分の娘なんだ” と受け入れてくれた、と、鈴木さんが感受したエピソードが記されています。

 お母様は、わが娘を案じるあまり、“野菜だけじゃダメよ” とおっしゃっていたのだろうと思われます。「野菜だけでなく、お肉も食べなさい」「好きなものだけでなく、きらいなものも、栄養があるのだから食べましょう」等の言葉は、日常場面でよく耳にする、当たり前の言葉です。しかし、その当たり前のことが、そのことができなくなってしまい、自分で自分を責めている立場の人には、たとえようのない辛さになるのだと思います。

 “食べられるものから食べようね” は「できることからしようね」ということ、できないことをみとめるということにつながるのだと思います。

後藤先生 一歩一歩

 「私は生きていてもいいんだ」という言葉に寄せて、もうひとつ、思い浮かぶエピソードが、「初女さんからいのちの贈りもの」という、NHKハイビジョン特集「初女さんのおむすび~岩木山麓・ぬくもりの食事」より再編集されたDVD作品にあります。

 佐藤初女さんの主宰されていた青森・弘前の「森のイスキア」では、全国から心に悩みや苦しみを抱える人々を、手作りの食事で迎え入れもてなし、打ち明け話に寄り添い分かち合うという営みが重ねられていました。

 イスキアを訪れたある一人の女性からのお礼の手紙が、そのDVD中に紹介されています。“あなたなんか産まれて来なければよかった” と母親から聞かされながら育ったその女性は “私は生きていてはいけない人間” “ずっと死にたいと思い続け” “物心ついた時から、そんな恐ろしい人生でした” と綴っています。しかし、佐藤初女さんに出会い “死にたいではなく、生きていきたいと思って生きることができるようになりました” と思えるようになったとのことです。

 初女さんのにぎるおむすびを食して、その祈りの心に触れ、自殺を思いとどまった人、拒食症が治った人、その他、困難から立ち直った人のエピソードは数多く聴かれます。

 ある拒食症の女性がイスキアを訪れたとき、食事を勧めても食べなかったその娘さんが、帰り際にお土産に渡された2つのおむすびを見て笑顔を浮かべ、宝物のようになでて、それから母親が夜勤の夜のさみしさを打ち明け、にこにこしながら帰っていった、というのです。

 このエピソードを対談で聴いて、河合隼雄は “拒食というのは、扉を閉じているということ‥社会に対して心を閉じているから、食べるものも入ってこない。閉じて、閉じて暮らしている‥そこへすっと何かがほんとうに入ってきたら、それだけで心が開きます。それはもう、ほんとうに表情とか全部変わりますよ” と述べています(佐藤初女『こころ咲かせて』サンマーク出版)。

 この娘さんが母親とイスキアを訪れるまでには、時間が必要であったことでしょう。母親がイスキアを知り、忙しい仕事を調整し、娘さんに声を掛け、娘さんが応諾する関係性と、おそらくは遠い距離を移動するだけの娘さんの気力体力も必要であったことでしょう。母親にとっても娘にとっても、暗中模索の日々が続き、長い時間を掛けてこのような出会いの不思議さが開かれていったように思われます。

後藤先生 長い年月

 前掲の詩集に、“あんたなんか産むんじゃなかった” と母親に言われ、自分は “生きていてはいけない人間” と思い、自殺未遂を繰り返し、それでも “まだ生きてたん?” と母親に言われたという受刑者の少年の詩が収録されています。そのコメントに、民生委員の “あんたのことを必要とする人もきっといるから、そう思って生きていきなさいね” という言葉が紹介されています。

 筆者はこのことを、カウンセリングの場で、しばしば経験します。自分など生きる意味がない、と思って暮らしている人にも、生きていると、ある時、その人を必要とする人との出会いがあるのです。あるいは、すでに出会っていたことに気づくのです。そのことは人間であるカウンセラーには操作することのできない、出会いの神秘、不思議という範疇に属すると思われます。ともすると人は、世間的に望ましく好ましいと思われる結果を求めがちになるように思うのですが、この未知・不可知の領域に触れながら生きるということが、絶望の淵にたたずむ人に寄り添う際に、必要であると顧みられます。

 “愛語よく回天の力あり” と道元禅師も述べております。いじめに深く傷ついた人の魂に、安心できる “愛語” が届くことを心から願ってやみません。

執筆者プロフィール

後藤先生ご本人お写真

後藤智子(ごとう・ともこ)
梅花女子大学教授。福井県立大学勤務を経て現職。専門は臨床心理学。臨床心理士。教育領域や医療領域における心理臨床に長く携わり、いじめや自殺など心の危機が心の成長に転じる機縁を実践的に研究。犯罪加害者のカウンセリングにも心を寄せている。
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