見出し画像

オンラインで他者とつながる時に大事なことは?(東海大学文明研究所所長:田中彰吾) #自己と他者 異なる価値観への想像力

この二年で他者とのコミュニケーションのオンライン化は一気に進みました。思ったよりうまくいったこと、実際に会っていれば簡単に伝わるのにと思ったことなど、さまざまな思いが生まれたのではないでしょうか。オンライン上のコミュニケーションにおける自己と他者の交流について、現象学的心理学、および身体性哲学がご専門の田中彰吾先生にお書きいただきました。

生活の一部になったオンラインの会話

 コロナ禍が始まって二年以上が経ちました。この間にオンラインでの会議や授業が一気に増え、生活の一部に定着したという読者もきっと多いでしょう。私もその一人です。2020年の3月ごろからZoomやMicrosoft TeamsやGoogle Meetを使う機会が急激に増え、大学の会議はTeamsで、ライブ配信の授業はZoomで、というのが当たり前になりました。また、研究会や学会はZoomでオンライン開催されるほうがむしろ標準的で、対面で開催される場合はきわめて限定的になってきました。

 離れた場所にいても会議や授業に参加できるのはオンライン・システムを利用する最大のメリットでしょう(私も海外の共同研究者とSkypeを使って打合せを行うことが以前から多くありました)。ですが、対面でのコミュニケーションと質的な違いを感じた経験のある方も多いだろうと思います。例えば、通信障害で会話が突然途切れてしまい、再開できたとしても会話の流れが大きく変わってしまうとか、相手の反応を確認できないまま話を進めるせいか画面の向こうの相手にこちらの意図が十分に伝わっている感じがしない、といった経験です。通信環境やシステムが改善されれば解消される面もありそうですが、問題はそれだけではなさそうです。

 というのも、オンラインの会話を経験すれば誰もが気づく通り、対面とオンラインでは非言語的コミュニケーションのあり方がかなり違うのです。オンラインの会話でも相手の表情や声のトーンなどはおおむね把握できますが、アイコンタクトは成立しませんし、身体間の距離を調整したり、姿勢やしぐさから相手の状態を読み取ったり、ジェスチャーで発話内容を補完したり、といったことができません。対面での会話時には、私たちはこうした非言語情報を暗黙のうちに利用しており、そのことに気づいていません。オンライン・システム上でのやり取りでこうした情報から遮断されると、かえって普段の会話で非言語情報を頼りにしていたことに気づかされるのです。

対面とオンラインでの非言語情報の違い

 この点が気になって、対面の会話とオンラインの対話での非言語的コミュニケーションのあり方の違いを調べるパイロット研究を行ってみました。詳細は近く刊行される拙論に譲りますが(注1)、3人の参加者でテーブルを囲む状態で会話する場合と、Zoom上で3人の参加者が顔の見える状態で会話する場合を比較してみると、非言語の身体的相互作用にともなう同調と同期のパターンが異なっていることが分かりました。

 同調とは、同じタイミングで類似する非言語のシグナルが表出する場合を指します。対面では「視線が合う」とか、それに誘発されて「互いに微笑む」といった場面が目立つのに対し、オンラインではそれが音声に媒介されます。声を出して同時に笑うとか、会話内容に納得して互いにうなずくという場面です。同期は、タイミングよく非言語行動が連続する場合を指し、対面ではやはり視線に媒介される場合が目立ちます。誰かが発話を始める・体の向きを変える・何かを指差す、といった行動を起こすと、別の誰かがそちらに視線を向けて何が起きているのか確認する、という場合です。オンラインの会話では、同期もまた音声に媒介され、誰かが発話を始めると、別の誰かがうなずく・微笑む・応答するといった場面が多く見られます。

 ただ、視線が媒介するか音声が媒介するかという両者のパターンの違い以上に、もっと根本的な次元での違いがあるようです。それは、非言語行動の同調と同期の頻度がオンラインの会話では全般的に低いということです。同調と同期は、対人コミュニケーション場面で非言語シグナルのスムーズなやり取りを支え、会話そのものの成立を支えるとともに、会話を通じた間主観性の形成に大きな影響を与えています。特に、同調の頻度が高い場合、コミュニケーションの参加者はお互いのことを理解できたと感じる傾向が強くなります(注2)。

 オンライン・システムを利用する会話では、非言語的な同調と同期が十分な頻度で生じないため、結果的に「うまく会話が噛み合わない」と感じたり、「互いの意図が十分に共有できない」と感じたりする場合があるようです。自己と他者が互いを理解する過程は、非言語的で身体的な相互作用によっても大きく支えられているのです。

オンラインの強み

 その一方で、オンラインでの会話には独特の強みもあります。それは、対面では非言語情報のやり取りに依拠して成立している「あいだ」「間」「場」などに頼って会話が進行していく場面が多く存在するのですが、オンラインではそうした暗黙の了解を言葉に置き換えて互いに意思疎通を図る必要が出てくるため、明示的なメッセージを介した「話し合い」「対話」「議論」といった性質がおのずと強まることです。

 このオンラインの強みは、大学院の授業でしばしば実感してきました。特に大学院に進学したばかりの修士課程の学生は、自分の考えを明確に言葉にするスキル(あるいは、自分の考えを言葉にしつつ、そこに相手の意見や立場を織り込んで発言を洗練させるスキル)がそれほど高くない場合が多く見られます。ですが、オンライン授業で他の学生とディスカッションを重ねるうちに、相手の発言を踏まえて自分自身の考えを明瞭に言葉にするスキルがどんどん上達していくのです。対面の会話では意味不明瞭なつなぎの言葉(「えー」とか「まぁ」といった)を私たちは多く用いていますが、オンラインの会話ではそうした「間を持たせる」だけの言葉を明瞭なメッセージに置き換えなければ会話そのものが続かなくなります。最初は無理して言葉にしているだけでも、それが次第に身についたスキルになっていく過程があるようです。

 よく似たことが研究会にも当てはまるように思います。オンラインの研究会では、非言語情報に依拠して構成される「場」から、言語化された情報により強く依拠する「対話」のほうに比重が移ります。ひとつの論点について集中的に意見が重ねられ、当初よりも議論が発展したり、より深い論点が議論を通じてあぶり出されたりする場面が多く見られます。私自身、オンラインの研究会で更なる論点や課題に気付かされた場面は多くあり、新たな学びの機会になっています。

オンラインでも人と人を結ぶ物語の力

 とはいえ、研究会もオンライン開催が当然のようになってしまうと、一種の味気なさが不満として残ります。研究会は学術的な議論だけを目的にして開催するわけではなく、参加者間で親睦を深めるという副次的な機能がもともとあります。たまにしか会えない研究仲間と再会し、休憩時の立ち話や終了後の懇親会で交流の機会を得ることの意義も大きいものです。オンラインの研究会では、深い議論ができるのはいいものの、終了後にZoomの画面を閉じると研究室や書斎で一人の空間に突然引き戻され、なんとも落ち着かない気分になることもしばしばです。

 昨年の11月、台湾の研究仲間と合同で開催したセミナーがあったのですが、この点に関連してちょっとした発見があったので、ここで読者と共有しておきます。その研究会は「ケアの哲学」に焦点を当てたもので、若手研究者と大学院生が臨床現場でのケアの経験について、自らの一人称的観点から現象学的に記述した内容を報告するという趣旨のものでした(私はそこにコメンテーターとして参加しました)。そのうち一件の報告がパートナーの闘病生活(がん)とその介護の経験を扱っていました。

 よくできた報告でした。学術的な議論の水準というより、別の点で私は感心しながら聴いていました。というのも、病に苦しむパートナーに寄り添い、介護する自らの経験を咀嚼する過程で、パートナーと報告者自身の関係が過去に遡っていわば生き直され、現在の経験を理解し直し、最終的に一種の物語(ナラティブ)に昇華され、自らの言葉で語られていたからです。その報告を聴く私の側でも、報告者の生きている世界へ深い情動とともに分け入っていくような感じがしました。

 この報告が当日のプログラムの最後で、私と先方の先生がコメントを加えることでこのセミナーは終了したのですが、終了する頃には参加者の間で深い絆のようなものが成立しているようでした。たんに「議論が通じた」ということではありません。最後の報告が持っている「物語の力」に、参加したメンバー全員が引き込まれていたのです。もちろん「物語」とは言っても、現実の現実らしさが言葉にされることで生まれた語りで、フィクションとして作られたものではありません。

 物語は、言葉で語られるものでありながら、語り手と聞き手の間に深い情動的な連帯を生み出します。もちろん物語は対面で語られてもその力を発揮するのですが、非言語情報に対して言語情報の比重が上がるオンラインのコミュニケーションでは、人と人を結ぶうえで貴重な力を発揮する場面があると思います。コロナ禍のため、「社会的距離」の名の下で分断されてしまった私たち。そんな中、オンラインでも人と深くつながる貴重な機会を与えてくれるのが、生きられた現実を言葉にした「物語」なのかもしれません。

(注1) 田中彰吾・森直久「間身体性から見た対面とオンラインの会話の質的差異」『こころの科学とエピステモロジー』第4号,近刊

(注2) 田中彰吾『生きられた〈私〉をもとめて――身体・意識・他者』北大路書房,2017年(第9章を参照)

執筆者

田中彰吾(たなか・しょうご)
1971年生まれ。2003年、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了。博士(学術)。東海大学現代教養センター教授、ハイデルベルク大学客員研究員を経て、現在、東海大学文明研究所所長。専門は現象学的心理学、および身体性哲学。著書に『生きられた〈私〉をもとめて――身体・意識・他者』(北大路書房,2017年)、『自己と他者――身体性のパースペクティヴから』(東京大学出版会,2022年)など。訳書に、コイファー&チェメロ『現象学入門――新しい心の科学と哲学のために』(共訳,勁草書房,2018年)、ラングドリッジ『現象学的心理学への招待――理論から具体的技法まで』(共訳,新曜社,2016年)など。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!