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連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第11回:魔術とカレー

幸運と不運について

 魔術的思考magical thinkingという言葉が精神医学にはあります。呪術思考、太古思考などとも呼ばれ、何だか「おどろおどろしい」響きがありますね。『精神症候学』(濱田秀伯、弘文堂1994)によれば、「小児や未開民族にみられる論理にもとづかない思考で、抽象化ができず、物事を非現実的に関連づけたり、空想と現実が混同されたりする。夢や妄想でもこれに近い思考が生じる」と記されています。

 まっとうな社会生活を営む成人とは無縁の思考といったニュアンスがありますが、案外わたしたちは似たような思考をすることがあります。ことに孤独な状態や、精神的に追い詰められた状況にあると、そうなりやすい。

 幸運とか不運といったことについて考えてみましょう。人が人生を終えるとき、幸運と不運とはプラスマイナス・ゼロになる、といった考えが比較的世間では流布しているようです。貧乏から這い上がって立身出世をした人とか、逆に人気の絶頂からスキャンダルで転落した芸能人などを思い浮かべてみると、そのような説には妥当性がありそうに感じられます。だが生まれてから死ぬまで不幸の連続としか思えない人だっていますし、絶好調のまま人生を逃げ切ってしまう人だっている。それは例外的な話なのか、それとも本人の内面においては、実は収支決算がゼロとなっているのか。

お金が落ちていたら

 わたしは基本的に、道にお金が落ちていても拾いません。大金ならば拾って交番に届けるかもしれないけれど(落とし主は困っているだろうし、それを誰かが拾って自分のものにしてしまうかもしれないから)、たとえば千円札が落ちていても、①その程度の金額ならば、落とし主が交番に訴え出ている可能性はまずない、②しかし、そのお金を自分のポケットに入れるようなことはしない主義である――以上から、無視をします。②については、ことさら正義とか道徳に基づいてそうしているのではありません。

 幸運と不運とは最終的にプラスマイナス・ゼロになる、といった言説をわたしは「何となく」信じています。言い換えれば、幸運とカウントしたくなる事象と不運とカウントしたくなる事象は最終的に同じ数になるだろうと思っている。もちろんエビデンスなんかありませんが、それが世の中というものだと思っているわけです。

 そして、長く望んでいた大きな願いがやっと叶うのも、千円を拾うのも、実はどちらも「幸運1回分」としてカウントされるのではないかと勝手に解釈している。そうなりますと、下手をしたら千円を拾う代わりに大きなラッキー案件を逃してしまいかねないことになる。冗談じゃない、そんな損なことはしたくない。しょぼい案件で幸運を無駄遣いしたくない、もっと大きな幸運にこそ「幸運1回分」を適用したいというわけです。

 自分でもそんな考え方はジョークに近いと感じているけれど、半ば信じているところもある。そもそも幸運や不運をいちいちカウントして配分しているのは神様なのか、といった話にもなってくるわけで、これはもう魔術的思考の範疇でしょう。でもどこか信じているわたしでもあります。 

ギャンブラーいわく

 ギャンブル好きの友人によりますと、わたしの説には賛成しかねるそうです。彼によれば、ツイている、ツイていないというのは、交互に訪れる一種の波なのだそうです。したがって、ギャンブルに勝つためにはその波を逃さず、また波が下り坂になってきたら無理をせずに「下りる」のが重要である、と。

 もし歩いていて足下に千円札が落ちていたら、それは好調な波の「さきがけ」だろうと彼は考える。そこでお金はしっかり拾い、それによっていよいよ好調の上げ潮を確かなものとするのだと主張します。それはそれで一理あるような気がしないでもない。

 さらに彼が言うには、人によっては「ツイている・ツイていない」の波が数十年もの長いサイクルで変化する。そのような人は一生好調であったり、逆に一生不幸であったりするのだ、と運命論めいたことを語るのですね。

 こうした話は、経験知とホラ話とのミックスなのでリアルであると同時に馬鹿げている。だから論じていること自体が面白い、ということになる。飽きませんね。魔術的思考は、百%本気にしない限りはなかなか楽しいのです。

人生観は魔術的思考に近い

 わたしたちは、人生が絶望と苦しみのみで成り立っているように思えてしまうときがあります。でも、誰かがさりげなく親切な振る舞いをしてくれたら、それだけでもう「人生、マシな面もあるかもしれないな」などと考えが変わってしまうことがある。

 平穏で心安らかな日々が続くと、「いつまでもこんな生活が続くわけがない」と心配になり、何かトラブルが生じると「ああ、やっぱり」と呟きながら心の隅では納得したような、あるいは肩の荷が下りたような気分になる人がいます。そのような人は、やがて小さな不幸を先取りしたほうが人生は安泰だ、と考えるようになるかもしれません。そこでわざと電車に乗り遅れて、そのことで安心感を得たりする。まさに魔術的思考ですね。

 戦争が始まると、兵士たちは魔術的思考に囚われがちになるようです。あるいはジンクスにこだわる。それは当然のことで、いつどこから攻撃を受けるか分かったものではない。何が生死を分けるか、そのありようも想像を超えています。躓いて転びかけた拍子に頭を低くする結果となり、危うく敵の銃弾を免れた、とか。そうなると通常のロジックではどうにもならない。でも何か「すがる」ことのできる理屈や法則が欲しい。それがあれば、いくらかでも安心感を覚えられる。

 実際のところ精神的に余裕を持てれば、そのぶん適切な行動を取れる可能性は高まるわけで、となれば魔術的思考も間接的に役に立つ筈です。占いも迷信もマジナイも、そうした意味で有用です。

カレーを煮込みながら

 さて、嫌なことを忘れられないとか、悔しさや悲しさからどうしても抜け出せない――つまり「わだかまり」や「とらわれ」で苦しんでいる人は、それを嫌だと思っていると同時に、それを忘れたくないといった気持ちも同時に抱いているようです。なぜなら、パーフェクトに忘れることができれば、それは加害者を無罪放免とすることと同じかもしれません。あるいは苦い体験として今後の役に立てられない。自分の人生の奥行きが少し浅くなってしまうかもしれない。と、そんなことを思うと判断がぐらついてくる。

 忘れたいけど忘れたくない気持ちもある――そのような矛盾した感情は、むしろ自然だと思いますね。でもそれって結局のところ、「わだかまり」や「とらわれ」は人生のスパイスである、なぜならそれらは単体では刺激が強過ぎるけれど人生という料理に混ぜれば味に深みが出る、といった類の言説に近い。とは言うものの、嫌なことはすべて人生のスパイスと思えるようになれれば、生きるのは確実に楽になるでしょう。

 いっぽう昔から、カレーにこれを(少しだけ)混ぜると格段に美味しくなる、と提唱されてきたものがあります。チョコレートとか、コーヒーとか、ココアとか、味噌とか、味醂とか、焼き肉のタレとか、バナナとか、そういったものです。が、どれも決定打にはなっていない。幸福になる秘訣みたいなものを求める人たちは、このような「意外な添加物」を求めているように見えることがある。それはそれで試してみるのも、面白いでしょう。何もしないよりはよほど賢明かもしれません。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

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