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名もなき塑像(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第14回

 「旅先で良い写真を撮りたい時のコツについて、コラムを書いてほしい」という依頼を受けたことがある。ほかの人にえらそうなことを言えるほど、写真に自信はないんだけどな……と思いながらも、旅でよくありがちな撮影の場面をいくつか挙げて、それらへの対処の仕方について、短い文章を書いた。
 たとえば、感動的な風景に出会った時。多くの人は興奮して、横位置に構えたカメラで、がーっと勢いよく連写してしまいがちだ。その結果、あとに残るのは、同じような写真ばかりになってしまう。カメラを横位置だけでなく縦位置にも構えてみたり、数歩近づいたり、離れたり、その場でしゃがんだり、ズームレンズの焦点距離を少しずつ変えたりして、いろんな条件の写真を撮るように心がけておく。すると、眼前の風景を少し冷静な目で見られるようになるし、初めは見落としていたその風景の魅力に、新たに気付けることもある。
 またたとえば、旅先で知り合った現地の人の写真を撮らせてもらえることになった時。カメラを向けたとたん、相手の表情や姿勢がぎこちなくこわばってしまうことはよく起こる。そういう場合は焦って撮り急がずに、いったんカメラから顔を外して、「ちょっと緊張しすぎじゃない?」と笑って話しかけてみる。現地の言葉が話せるに越したことはないが、表情と身振り手振りのコミュニケーションを挟むだけでも写真の出来は全然違ってくるし、そのやりとりの雰囲気は、必ず写真に写り込む。
 ……という感じの例をいくつか挙げながら、コラムの文章を書き進めていったのだが、その一方で、そもそも旅における「良い写真」とは、いったいどういう写真なのだろう、という根本的なところでの疑問が、頭の隅でずっともやついていた。
 構図がセオリー通りに整っているとか、色合いが美しいとか、誰もが驚くような決定的瞬間を捉えているとか……そういう技術的な基準で決まってくる部分は、確かにあるのかもしれない。ただ、そういう写真は、「上手い写真」だ。「上手い写真」と「良い写真」は、似ているようで、何かが違う。「上手いけれど、そんなに良くはない写真」もあれば、「下手だけれど、なんとなく良い写真」もある気がする。両方を兼ね備えた「上手くて、その上、良い写真」であれば、完璧なのかもしれないが。
 そもそも、それが本当の意味で「良い写真」かどうか、誰が判断できるというのだろう……。
 そんなことを、行きつ戻りつぐるぐると考え続けていた時、以前、ある写真を撮った時の記憶が、頭の中に浮かんできた。

 あの日、僕は、タイ北部の街、チェンマイにいた。
 チェンマイは、タイではバンコクに次ぐ規模の都市で、かつてはラーンナー王朝の首都として栄えていた。市内には今も古い城壁の跡や、古式蒼然とした仏教寺院がたくさん残されている。その一方で、洒脱なカフェやレストラン、ブティックなども多く、旅行者には人気の街だ。
 その頃の僕は、旅行用ガイドブックの編集部からの依頼で、チェンマイ市内にあるホテルやゲストハウス、レストランなどを片っ端から訪ね歩いて、料金や営業時間に変更がないかどうかを確認して回るという取材をしていた。地味で、疲れる仕事だった。雨季が終わった直後のチェンマイは、まだまだ蒸し暑い。その日の午後も激しいスコールが来て、一時間ほど雨宿りをしなければならなかった。
 日中に予定していた取材を終え、いったん宿に戻って水シャワーを浴びてから、どこかで晩ごはんを食べるために、再び外へ。バッグには、小型軽量の単焦点レンズに付け替えたカメラを入れていた。
 ラチャマンカ通りと呼ばれる道路を、西へと歩いていく。道路の幅は、車がかろうじてすれ違えるほどで、歩道もあまり広くない。スコールの後も空を覆っていた雲の隙間から、茜色の夕陽が射してきて、行く手の歩道を照らし出す。その光に、小柄な人影のようなシルエットが、ふわっと浮かび上がった。
 そこは、女性向けのスパらしき店が、かつてあった場所だった。閉店してかなり日が経っているらしく、看板も何もない。青く塗られた木製の表戸は固く閉ざされ、錆びた南京錠がかけられている。その脇に、高さ一メートルもないほどの像が、ぽつんと残されていた。人影のように見えたのは、その像だった。店の入口の装飾だったものが、そのまま放置されているようだ。
 彫刻ではなく、セメントかモルタルを型に流し込んで作ったように見えるその像は、男と女が、固く抱き合っているものだった。女は目を閉じて男の左肩に頭を預け、男は女に頬を寄せながら、女の背中から右肩に手を回している。二人の足元には、逆巻く波が打ち寄せている。よく見ると、女の腰から下は人魚のように鱗に覆われ、足先はひれになっていた。タイのあちこちに伝わる、人魚にまつわる伝説の一場面を表した像だったのかもしれない。
 僕は立ち止まったまま、しばらくの間、その男女の像に見入った。惹かれるものを感じた。美しい、と思った。像そのものだけでなく、それが寂しく置き去りにされている店の軒先や、閉ざされた青い表戸や、それらをほんのいっとき照らし出している夕刻の光や……そこにある、すべてのものが。
 ガイドブックで紹介されているような、観光スポットではない。文化財として評価されるような、由緒のある像でもない。閉店したスパの軒先に、置き去りにされていた装飾用の像。それだけのものだ。でも、僕にとってそれは、これからもずっと胸の裡に残り続けると予感させるような光景だった。
 バッグからカメラを取り出し、像の顔の部分にフォーカスを合わせ、数枚、写真を撮った。余計なことは何も考えず、ただ、このひとときの光景を撮って残しておこう、とだけ思いながら。
 あの日の夕方に撮った、名もなき塑像の写真は、今も僕の手元にある。誰かほかの人の心を動かせるような写真であるかどうかは、わからないし、自信もない。世の中のほとんどの人にとっては、ありふれた、取るに足りない写真でしかないのかもしれない。
 それでも僕自身にとって、あの写真は間違いなく、良い写真だ。ささやかで、何気ない、でもかけがえのない記憶が、確かに焼き付けられているから。
 たぶん、写真とは、そういう存在でいいのだと思う。

【著者プロフィール】

山本高樹(やまもと・たかき)
著述家・編集者・写真家。2007年から約1年半の間、インド北部の山岳地帯、ラダックとザンスカールに長期滞在して取材を敢行。以来、この地域での取材をライフワークとしながら、世界各地を取材で飛び回る日々を送っている。主な著書に『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々[新装版]』『ラダック旅遊大全』(雷鳥社)、『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』『旅は旨くて、時々苦い』(産業編集センター)など。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』(雷鳥社)で第6回「斎藤茂太賞」を受賞。

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