見出し画像

連載「不安」発「絶望」行き列車から降りる(精神科医:春日武彦) 第1回 あらためて、不安について考えてみる

「昔は幸せだったけど、不幸になってしまった。もう以前のような人生は望めない」「この先いいことがあるとは思えない」「またうまくいかないに違いない」「これからの人生、何とかなるとは思えない」そのような、今後についての不安への対処法を、様々な事例などを踏まえて書いていただく、春日武彦先生の新連載スタートです。

 

不安が意味するもの

 不安とはどのような気分であるのか説明してみろ、と言われてもこれはなかなか難しいですよね。何だか得体の知れない嫌なことが起きそうな、しかもそんなことに意識を向けるとますますその「嫌なこと」が実現してしまいそうな、でもそのような心のループからどうにも逃れられない――そんな悪い予感、怖れ、無力感、自縄自縛の気分などを総合した感覚とでも表現すべきでしょうか。

 困ったことに、「嫌なこと」の正体がいまひとつハッキリしない。もしハッキリしていれば、それ相応の対策や工夫(諦める、といった選択肢も含めて)があるかもしれません。でも、その「嫌なこと」が雲を掴むような状態なので、どうにも動きようがなくなってしまう。直感レベル、気配のレベルなので他人に共感してもらうことすら難しい。

 たとえば試験を受ける前に、わたしたちは多かれ少なかれ不安を覚えます。きちんと勉強して準備を怠らなければ不安なんか生じないかと申せばそんなことはない。試験の設問が予想外の角度から作成されていて、それに困惑させられた結果、実力を発揮できなかったという事態が生じるかもしれません。知識はあってもその本質をまったく理解していなかった可能性だってあり得る。意地悪な出題者が、「引っ掛け」問題を出してくるかもしれない。つまり事前の準備を嘲笑うかのような罠が存在し得る。そのような罠は正体がハッキリしないわけですから、試験前に不安が生じるのは当然となりましょう。

 不安には「薄々予想される嫌なこと」と「予想外の嫌なこと」の両方が含まれます。言い換えれば、未だに姿を見せないあらゆる嫌なことが不安を形づくっている。生きることはすなわち不安を覚えることであるとさえ言えましょう。いやはや「げんなり」するような話です。

暗い風

 幼児においては分離不安などという事態が生じたりするわけですが、わたしが既に述べたような不安が意識されるようになるのは10歳前後とされています。が、自分自身について考えてみますと、小学校に入る前から明らかに不安というものを自覚していたような気がします。ただしそこにはいくぶん特殊な事情が関与していました。

 ひとつには、かなり重度の小児喘息だったこと。当時は発作を止める吸引式の薬剤など存在していませんでした。発作は時や場所を選ばずいきなり生じます。しかもいつ発作が終わるかも分からない。発作の最中はろくに呼吸もできないし、咳が苦しい。他の子供たちと外を走り回っているようなときに生じがちだし、天高く晴れ渡った秋の日などに激しい喘息は出現しやすい。こうなってくると、人生そのものに罠が仕掛けられているような気分になってきます。

 さらに、母親がかなり情動不安定な人でした。急に態度が変わってわたしに怒ったり攻撃的な態度を見せる。その潮目がまったく読めない。彼女には一貫性が乏しいのですね。おまけに一人っ子だったので、対人的な逃げ場がありません。これまた人生そのものに罠が仕掛けられて生きているような気分になってきます。

 こうなると日々は地雷原を歩くような案配になってしまう。それに加えて、母は幼いわたしを愚痴の聴き役にしたがる。こちらとしては解決法を示したりコメントを述べるようなことなどできませんから、真剣な表情で耳を傾けるしかない。カウンセラーと同じわけです。しかし戦略として傾聴しているわけではなく、そうするしかないから耳を傾けているだけです。これはかなり無力感を植え付けられますね。

 もちろん母なりにわたしへ愛情を注いではくれますが、こちらとしては「愛情なんかよりは安定を!」といった意味のことを漠然と思っていたようです。

 ここで申したいのは、幼いときから不安感にどっぷり浸かっていようとも、不安には決して「慣れ」が生じないということです。不安には慣れも免疫も生じない。

 高橋たか子(1932~2013)という小説家がいて、彼女が1974年に出版した『失われた絵』(河出書房新社)という作品集には「夏の淵」という短篇が収められています。語り手である若い女性の「私」は非常に暗鬱なものを胸に秘めているのですが、以下に引用する箇所は常に不安を抱えている人間をまことに上手く描写している気がします。 

 私は自分が鯉のぼりの鯉になって、竿の先で、空を泳いでいる夢をみたことがあった。口を大きくあけて、風を腹いっぱいに呑みこんで、水平に浮いている。私には似つかわしくない緋鯉だった。軀が、なにか晴れがましい、にぎにぎしい色合いの、大きな鱗で覆われている。だがそれも長くは続かなかった。空を暗い風が吹くのである。口をとおって腹のなかを、そんな風が充たしていく。私は空に宙づりにされて、暗い風を餌としてあたえられるという刑に処せられているのであった。それでも私はせめても緋鯉だった。 

 慢性的な不安感に苦しんでいる人には、この文章はかなり腑に落ちるものがあるのではないでしょうか。 

不安を希釈する

 今回、とりあえずわたしが皆さんに伝えておきたいのは、不安を消し去る魔法の方法は期待しないほうが賢明だということです。いかにして不安と折り合いを付けていくかが重要です。いや、実は薬で不安を抑えてみようと服用したことはあります。結果はどうだったか。

 確かに効きます。ベンゾジアゼピン系のいわゆる「抗不安薬」はちゃんと効果があります。しかしあれには精神的な依存性が生じやすいですし、当方の場合、副作用として怒りっぽくなるようです。それでは安寧な生活は期待し難い。いっぽう最近では抗うつ薬の一部に抗不安作用があるのでむしろそちらの使用が推奨されています。なるほどこちらも不安を押さえ込みます。ただし、あらゆる感情が無くなってしまったような不自然な平穏さが訪れるのですね。何だかいやだなあということで服用を止めました。もちろん効き方は人によってさまざまで、わたしの場合がすべてのケースに敷衍できるわけではありません。でも服薬に期待し過ぎない、あるいは頼り過ぎないほうが良さそうな気はします。むしろ緊急避難的に使うと考えたほうが良さそうだ。

 ではどうすべきか。やはり自分の苦しさをいかに言語化するか、いかにその精度を上げるかを考えたほうが現実的な気がします。あるいは先ほど引用した高橋たか子のように的確な表現を試みてみるとか。それは自分自身の気持ちを、あえて距離を置いて眺めてみることにつながる。すると余裕も生じるし、ある意味で自分の辛さを弄ぶかのような(いささかマゾヒスティックな)営みに通じます。そして自らの言葉で的確に表現し得たとすれば、それはすなわち対象を昆虫標本のようにピン止めする行為に近い。そのときに生じるささやかな充実感、あるいは達成感に近いものこそが救いになると思う。

 近頃は若い人たちのあいだで短歌ブームが起きているようですが、あれも小さなサイズの詩型の中にさまざまな感情を流し込めることに多くの人たちが気づいたからでしょう。不安に対抗するためには、不安そのものを上手く表現・描写する方法を探ってみるのはかなり有効です。もしかするとそれによって、不安の生々しさが薄まってしまうからなのかもしれません。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

 

著書

 関連記事¥