
比較心理学における「心」とは何か?(大阪大学 人間科学研究科 助教:松井 大) #心とは何か
本特集では、「心」とは何かと題して、「心」という概念が何を意味するのか、そしてその意義について、心理学を中心に「心」を扱う諸学問それぞれの立場から考えます。
今回は、比較心理学がご専門の松井大先生に比較心理学における心とは何かを解説いただきました。
どうして「心とは何か?」なんて考えなきゃいけないんだ
こんなことを言ってしまっては元も子もないと思われてしまいそうですが、心理学者が「心とはなんだろうか」などと改まって考えたり、ましてや同業者と意見を交わしたりすることは、ほとんどありません。もちろん、歴史的には何度も概念的な議論がありましたし、今でも時に論文上で意見表明が行われることもあります$${^1}$$ 。しかし、大多数の心理学者は「心とはなんなんだろうか……」ということに日常的に頭を悩ましているわけではありません。むしろ、そういう人は少数派のように思われます。
私は、学部1年生向けの講義で、次のようなことをお話するようにしています。「○○とは何か?」を定義するというのは、実際には2つの意味があります(c.f., Gupta, 2023)。1つは、そこから先を考える上で、必要な事柄を決める、「お約束」としての役割です。例えば、ハトの大脳のクチバシの体性感覚を担う神経核には、“nucleus basorostralis” という名前がついており、解剖学的な定義が当てられています。あなたの語る nucleus basorostralis と私の語る nucleus basorostralis が違っていたら、会話に齟齬が生まれて困ってしまうわけですね。定義するというのは、そういう規約的な側面があるわけです。「定義すること」の持つもう1つの意味は、物事の本質を言い当てることです。こちらの方は、定義すること自体が、ただの「お約束ごと」を越えた内容を持っています。例えば「行動」という概念であれば、徹底的行動主義の提唱者であるバラス・スキナー(Burrhus Skinner)という人は、「随伴性の集合として定義される機能クラス」であると定義しました(Skinner, 1969/2014)。初見の人は、これだけ聞いてもちんぷんかんぷんだと思います。「随伴性」「機能クラス」といった諸概念がわからないと、この定義の意味は理解できないからです$${^2}$$。それに、こういった概念が発明・発見されるくらい、分野の知見が蓄積していないと、そもそもこういう定義には辿りつけません。現状の知識から、他の概念とも首尾一貫したネットワークをなすような言葉の意味を見つけ出す作業、これも定義することの大事な役目であるということです。
という運びで、何かを定義するという営みは、果たすべき役割が一様ではないということです。また、学問の進展具合によっても、必要な定義が変わることだってありえます。そういう心構え(?)がないと、「心は定義が困難なので、科学することはできない」なんて形で思考を停止してしまいかねません。科学史を眺めてみれば、人類は「○○とは何か?」に対する明確な定義を見つけ出すより先に、その○○を研究してきました。それはなんら珍しいことではないし、心というのもその典型例であるように思われます。むしろ、明確に定義できてしまったら、その時点で探求がほとんど終わってしまったのと同義かもしれません。このように考えると、「心とは何か?」は心理学の出発点ではなく、むしろ終着点であるように思われます。
「はい、というわけなので、この話はこれで終わりです。心理学者たちの今後の努力にご期待ください」と幕を降ろしてもよいのですが、それでは芸がないし、味気もないですね。それに、「心とは何か?」と立ち止まってみることには、心理学者がどんな方向に歩みを進めているのかを点検する上で、一定の意味もあるように思われます。このことには、最後にまた戻ってくることにしましょう。前置きがえらく長くなってしまいましたが、本稿では、筆者の専門である比較心理学(comparative psychology)において「心」が、どのようなものなのか、そして、なぜ、そのようなものとして考えられるようになったのかを見ていくことにします。
比較心理学は何をしているのか? それって、「心」なのか?
まず「比較心理学ってどんな心理学なんだ?」と疑問に思う人もいるでしょうから、まずは簡単に比較心理学を紹介することにします。筆者はよく、初対面の人に自己紹介をすると「比較心理学? 比較って……文化とかを比較するということですか?」と訝しがられることもしばしばです。いやはや、マイナーな分野の哀しさですね。一言でいえば、比較心理学とは、ヒトを含めた動物の行動や認知といった諸現象に対し、種間比較を通じてその法則や原理を見つけ出したいという人たちの集まりです。さらには、そういう研究を通じて、行動の進化を理解するところまで目論んでいるわけです。
比較心理学者がどのようなことを実際に研究しているのかにも、軽く触れておきましょう。筆者の研究でいえば、カラスやハトの運動学習を比較することにより、鳥類の採餌にまつわる運動制御の仕組みを調べる研究をしていました(松井,2019)。そう、「動くこと」だって、比較心理学の研究対象になるんですね。他にも筆者は、動物の学習一般や知覚の研究も、比較の視点で行ってきました。もう少し誰でも「心理学っぽい」と感じる例をご所望ならば、動物がメタ認知に基づいた意思決定をするのか、するとしたらどの種で、どのようなタイプのメタ認知なのかといったことを調べるのも、比較心理学の研究です(中尾 & 後藤, 2015)。他にも、学習、知覚、記憶、動機づけ、性格、コミュニケーションや競争や協力といった社会性であったりと、比較心理学が扱うトピックは多岐にわたります。心理学の全域にわたっていると考えておいても、さしあたり大きい問題はありません$${^3}$$。
1つだけ付け加えておくと、動物の研究だからって、人間を対象にした研究と切り離されたものではありません。どんなふうに人間の心理学と繋がっているかには、いろいろな応答の仕方ができますが、研究に直結する例をいうと、発達心理学では定番の「心の理論」は、チンパンジー研究者であるデイビッド・プレマックが発案者です(Premack & Woodruff, 1978)。また、概念的な議論としては、「人間とはどういう動物なのか?」を知るには、動物との相対的な関係から理解するのが有効なアプローチであるという考え方もあります(渡辺,1997)。加えて、擬人主義といった比較心理学で問題になることは、究極的には人間を対象にした心理学でも同様の落とし穴になりえます$${^4}$$。つまり、実は互いに共通した方法論的陥穽に備えなければならないんだ、ということすら指摘できてしまいます(坂上, 2011;渡辺,2023)。
少し脱線してしまいました。比較心理学の「心」の見方というのは、扱うトピックによってまちまちです。なので、この記事の依頼がきたときには、ちょっと困ったことになったぞ、などと思ったものでした。連合学習の枠組みで比較心理学の研究をしている人なら、心を事象間の結びつきという見方をとりながら研究を進めていくわけです。認知心理学の課題を動物に転用している人は、心を情報処理の装置であるとみなしているわけです。私が尊敬する比較心理学者の1人は、動物の認知研究のほとんどが行動分析学の「刺激性制御」の研究であると時折話してくれることがあります。この考え方から眺める心は、行動分析学における心に近しいものになることでしょう。個別の研究者が、どこまで本気でそう思っているかはさておき、各々がいったん、そういうところに出発点を置いて、研究を進めているわけです。1つの見方でどこまで動物を理解できるのかに挑戦している人もいれば、研究の「問い」ごとに使いやすい枠組みをその都度選ぶ人もいます。筆者がカラスやハトの運動学習の研究していたときには、感覚と運動のサイクルは動物の生きている時間幅の単位をなしているし、それを制約する身体を含めた個体全体(organism as a whole)が環境に働きかけること、それこそが心と呼ぶのにふさわしい座であろうと、大胆不敵な気概で臨んでいました。
このように並べてみると、比較心理学に通底するのは、動物の行動を対象にしていることくらいしかないように思われてしまうかもしれません。あるいは、あれもこれも心なんだといわれて、なんだかよくわからなくなってきた人もいるかもしれません。比較心理学がいろんな心の見方の坩堝として進んできたのには、相応の理由があり、それは比較心理学の歴史的な展開と不可分です。ということで、少しだけ、歴史の門を叩いてみましょう。結論からいってしまうと、比較心理学の「心」は、研究の目的に相対的であるし、時代背景を色濃く反映したランドマーク的な存在であるということをお伝えしようと思います。
比較心理学における心の概念の変遷
比較心理学の歴史といっても、包括的に語ることはこの記事ではできません。なので、ここでは、ワトソンが行動主義宣言をする「まで」の経緯を見ていこうと思います。この記事では特に、動物の「知性」を探求する分野として成立した比較心理学の黎明期の問題点を軸に、比較心理学における心がなんなのか、手がかりを掴むことを目指しましょう。
「心理学」(psychology)は、魂や心を表す “psyche” に学問・探究の意味の “logia” がくっついた言葉です。この言葉自体は、16世紀頃から魂についての学問領域として使われるようになりました(大久保,2024)。そこにさらに「比較」という言葉をくっつけた比較心理学という言葉は、18世紀の中頃から出現します(d’Isa, R & Abramson, 2023)。19世紀のはじめには、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語圏で、動物の心的な生活に関する研究分野として用いられています。この時代、関心を呼んだのは、動物が「推論」するかということでした。この当時の時点で比較心理学の多くは逸話の収集や思弁的なものでしたが、実証的な研究もありました。代表的な人物には、ジャン・ピエール・フルーラン(Jean Pierre Flourens)という生理学者がいます。この人は、ハトやイヌといった動物の脳の損傷が与える行動への影響を調べ、脊椎動物の「意志」は種を問わず大脳に宿っているのだと結論づけました。他にも、習慣、連合が論じられることも多く、当時の哲学的議論の状況を反映しているのがわかります。
動物の「本能」も大きな問題でした。今、本能という言葉を聞けば、心の機能が学習されるものなのか、生得的なものなのかという、いわゆる「氏か育ちか」を連想する人が多いと思います。この時代の比較心理学の本能論は、動物学的な行動の記載という側面がありました。それに加え、19世紀の後半から20世紀のはじめにかけて、本能と意識がいかに関係しているのかが論点となっていました。というのは、本能的な行動の存在は、外界の特定の刺激に鋭敏に反応する感覚能力の証拠であると考えられたためです。例えば、ウィリアム・マクドゥーガル(William McDougall)という心理学者は、本能の存在は動物が感覚印象から予測的な表象を形成している証拠であり、知性の徴証であると考えていました(McDougall, 1910)。現代の私たちの感覚だと「ええ、そう考えるの?」と突っ込みたくなるかもしれませんね。このように、使っている言葉は私たちにも馴染みのものでも、概念のカバー範囲や、他の概念との関係が、現代と大幅に異なることが往々にしてあるわけです。そういう概念同士の関係や問題の設定の仕方は、その時代の要請と結びついています。本能の場合、ヴィルヘルム・ヴントをはじめとした初期の実験心理学者が、心理学の主題を自己観察が可能な「意識」へと移行させたこととも、無関係ではありません。
動物の知性を行動から類推し、その進化の道筋を辿るという研究プログラムを明確に打ち出したのは、ジョージ・ロマネス(George Romanes)という人です(Romanes, 1882)。既に見てきたように、動物の心について論じる試み自体は、19世紀を通じて散発的になされていました。それが本格的な研究となるのは、チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の進化説が発表され、人間と動物の連続性が、いよいよ深刻な問題になったためでした。その中でも、「理性的な存在者」としての人間は、最後の砦であったわけです。ロマネスは、ダーウィンの後継者とも目されたほど、熱心な生物進化の擁護者でした$${^5}$$。この人はのちに、データの収集を逸話に頼っていることや、行動の解釈が過度に擬人的であることで、批判を受けています。実際、それはそうなのですが、当時の比較心理学を明確に心の進化の研究分野であると再定義し、そのために動物の知性を行動から測るという方向に舵を切ったことの影響は、その後の心理学にも、長く残滓として留まっているように思われます。ここで一度、本人の言葉を聞いてみましょう。ロマネスは、動物の知性とは、学習された行動であるということに重きを置いており、『動物の知性』の中で次のように述べています(Romanes, 1882, p. 4)。
私が提案し、本書全体を通して堅持する「心」の基準は次の通りである。その有機体が、自らの個々の経験の結果に基づいて、新たな調整(adjustment)を学び、または既存の調整を修正する能力を持つかどうか、である。
また、単に行動するだけではなく、学習を重視するのは、次のような考えがロマネスにはあったからです (Romanes, 1882, p. 17)。
理性または知性とは、目的に対する手段の意図的な適応に関与する能力である。したがって、それは用いられる手段と達成される目的との関係についての意識的な知識を伴い、個体の経験にも種全体の経験にも、新奇な状況への適応において発揮されうる。
動物の心の手がかりを「学習」に求める見方は、大西洋を越え、アメリカの実験心理学にも波及していきました。例えば、アメリカの心理学で初めて博士号を取得したマーガレット・ウォッシュバーン(Margaret Washburn)という人は『動物の心』の中で、動物に心があることの証拠を「行動の変動が、明確に過去の個体の経験の結果を示している」こととしました(Washburn, 1917, p. 30)。同様に、動物の走性の研究で有名なジャック・ロエブ(Jacques Loeb)は、連合記憶の存在が心と同義であるとしました(Loeb, 1900)。ウォッシュバーンはこのロエブの説に対し、連合であればなんでもいいわけではなくて、心があるというには十分に素早く物事を関連づけることができなければならないと留保を入れています。エドワード・ソーンダイク(Edward Thorndike)は、心理学者にとって猫の問題箱でお馴染みですが、この研究も動物の推論を否定し、一見、推論に見える行動も連合プロセスから理解可能であると示すこととが、研究の動機となっていました(Thorndike, 1911)。連合か推論かといった相違はあるものの、行動の学習を通じて、動物の心について調べることができるという見方、つまりは行動を可塑的に変化させる能力が心と深く繋がっているのだと考えていること自体は、ここに挙げた人たちの共通見解だったということです。
さて、そういった世紀転換期の議論を経て、ワトソンはいわゆる「行動主義宣言」を行いました(Watson, 1913)。ワトソンの宣言によって、心の概念が捨て去られたとよく紹介されています$${^6}$$。実際、彼は「私たちは、心の要素や意識的内容の性質(例えば、無心像的思考、態度、意識状態など)に関する思弁的な問いに絡め取られすぎてしまった」と「心」を主題にする心理学に対し非難を浴びせています。比較心理学については、行動から動物の心を類推する解釈的な作業に対し、次のような評価も下しています(Watson, 1914, p. 163)。
この類推を心理学が強調することで、行動主義者は道から逸らされてきた。行動の枠組みの中で意識の出現を特定できる場所を作り出そうとする衝動に駆られ、意識の支配から逃れずに済むようにしているのである。多くの人がいまだに行動問題を、このような考え方で捉えていることがうかがえる[…]この領域を完全に放棄し、動物行動の研究には何の正当性もないと率直に認めるほうが、むしろ良いだろう[…]系統発生のどの段階においても意識が存在する、あるいは存在しないと仮定しても、それによって行動問題に対する理解が少しでも変わるわけではなく、実験的なアプローチの方法にも全く影響を与えない。
ワトソンの初期のキャリアは比較心理学者としてスタートしています(Strapasson, 2020)。ワトソンが大学院時代を過ごしたシカゴ大学には上述したロエブがいましたし、指導教員はエンジェルでした。ロエブは、比較心理学を有機体全体の行動の科学とみなしていました。そういう学問的風土で学んだワトソンにとって、ひとたび大学の外に出ると、意識との関連で行動を論じなければ研究の価値が認められないことが苦痛であったようです(Watson, 1914)。この点から、ロマネスとは抱えている事情が大きく違うのが伺えます。ロマネスは進化説の擁護者として、人間と動物の連続性を示さなければならないという時代の要求に、心の概念から応答しようとしていました。一方ワトソンは、そのような問題意識を共有していませんでした。
ワトソンは、遺伝を軽視し、後天的な学習でなんでも説明してしまう人物であると紹介されることが多いです。しかし、当初のワトソンは、そういった環境偏重な主張よりも、心理学の主題を行動へと移行することに重きを置いていました。例えば、『行動——比較心理学への招待』では、「習慣」に対置される概念として、「本能」について分量を割いて論じています(Watson, 1914)それが、10年後の『行動主義の心理学』では、人間に本能が備わっているのかを疑う記述をするようになっています。心理学を学んだことのある人にとってはお馴染みの「1ダースの子ども」はこの本の中で登場します$${^7}$$。この言葉が登場するのは、当時の遺伝学について書かれていた章であり、優生思想に対する批判が念頭にあります。特にアメリカでは、世界で初めて断種法が1907年に制定され、他の州に年々広がっていきました。ワトソンが行動主義を「心理学を厳密に行動の学とする」ことを目指す科学運動から、生得性の否定という提言に向かっていったのには、当時のアメリカの社会情勢という背景があったわけです(中島,2024)。しかし、ワトソンの中では、両者が区別されておらず、渾然一体と混ざり合っていました。同じ時代を生きた心理学者は、こういったワトソンのすべてを受け入れた人はあまりいなかったのですが、各々が行動主義に修正を加えたり、部分的に同意したりする形で影響が波及していきました(興味がある人はRoback (1923)をご参照ください)。比較心理学では、迷路学習や弁別を対象にした研究が増えていったのも事実です。
以上、ワトソンに至る「まで」の比較心理学の展開という、ちょっとニッチな心理学史を駆け足で眺めてみました$${^8}$$。この後、ワトソンの中のどの部分を引き受けて、改変し、その当時の科学の状況に適合させていくのかということが、1920年から1930年代の行動主義の展開となっていきます。そういうワトソン以降の行動主義の展開や、認知科学の勃興、それに伴う認知行動学(cognitive ethology)も比較心理学の展開において欠かせない要素ですし、「心」の見方とも深く結びついています。しかし、そういった話題は他の方の解説に任せ、思い切ってスキップしましょう。代わりに、こういう歴史が、比較心理学の「心」観に何をもたらしたのかを考えてみることにします。
心の概念が比較心理学で果たしてきた意義
比較心理学は、一様な「心」観の下で研究が進められているわけではありません。それは、現代の比較心理学を眺めていても、窺い知れることなのでした。歴史を紐解いてみると、比較心理学の起源からして、研究者の目的や時代背景に相対的であることが理解できるのではないかと思います。ロマネスが「学習」を心の兆しに選んだのにも理由があったし、ワトソンがロマネス以来の比較心理学の考え方を切り捨てたのも、彼を取り巻く時代的・個人的な環境の帰結といえそうです。心における本能の位置付け1つとっても、現代の心理学者と19世紀末の心理学者では、見方が全然違うわけです。そもそも、現代の心理学者だったら、まずは本能と学習という二項対立自体に批判を向けることでしょう。この心の概念の変遷は、単に科学が進歩したからなんだと、楽観的に見ることができない側面もあります。マクドゥーガルの本能概念に近い用語は、現代の心理学にも見つけ出すことが可能です。プライミング、選択的注意、あるいは、「表象」の部分を取っ払えば、アフォーダンスの理論を通じて、咀嚼することもできそうですね。他の概念にも、似たようなことがいえるのだろうと思います。
心理学において、過去の研究者の特定の概念に対し「それは現代のこれこれに相当し……」なんてことを語るのは、ほとんどすべての概念にできてしまいますし、それ自体は大して重要なことではありません。言葉の意味は、その言葉単独で決まるものではなく、常に他の言葉との関係の中で決まります。そう考えると、心理学における心的概念の位置付けの変遷は、概念同士のネットワークが組み替えられている過程として見ることができそうです。心がどういう意味で使われているかは、そういった心理学の現状を検査し、概念の点検をすることにもつながっています。あるいは、そういう点検を通じて、現状の心の描像の限界点を見つけ出す意味合いもあるといえるでしょう。
まとめると、比較心理学の「心とは何か?」への回答は、研究の立脚点によって違うし、そういう前提の選択は、比較心理学の起源にまで遡ることができるのでした。私見ですが、「心とは何か」への答え自体は、あまり重要な意味はないように思います。そんなことを大上段から述べたところで、大抵、大したありがたみはありません。あるいは、ちょっと気の利いた、意外性のある答えを提示して読み手の歓心を買うのも手ですが、そんなことをしても衒学的に映るだけでしょう。ただ、こういうことを問う過程で、心理学者の隠れた前提や時代的な要請が明るみに出るということは、往々にしてありえることです。ことに、比較心理学はヘテロな考え方が、マーブル状の模様のごとく混ざり合っている分野です。そういう分野における考え方を紐解くことは、人間の心理学者にとっても学ぶところがあるんじゃないかと、淡い期待を筆者は胸中に忍ばせています。
脚注
興味がある人は、適当な心理学史の本を1冊手に取ってみるとよいです。筆者のおすすめは、絶版ですが今田(1962)か、英語でもよければ Cox (2019) です。どっちも嫌だという人には、サトウ・高砂(2022)を勧めます。また、筆者はこの手のことをわりと改まって考えちゃうタイプなので、心に関する概念の中でも動物の「認知」に対するアプローチについて、思うところを公開しています(Matsui & Hata, 2024, under review)。
これらの用語の意味が知りたい人は、松井(2023)にあたってみてください。
比較心理学を学んでみたいという人は、ぜひ中島(2019)か、その短縮版の中島(2023)にあたってみてください。英語でもよければ、Shettleworth (2009) が定番です。
擬人主義(anthropomorphism)とは、動物の行動を人になぞらえて解釈する態度です。動物行動を擬人主義的に解釈するといろんな問題が起きて、有名なのが「賢いハンス」問題です。興味があれば、検索してみてください。比較心理学では、擬人主義をあけっぴろげにやるのは、一応、御法度ということになっているのですが、「やっぱり一定の制限の下では擬人主義も有用な考え方なんじゃ?」と考える人もいます。
そのわりには、進化の見方が人間中心の進歩的・段階的であるという点が、よく批判されています。本人の文章を読むと、「う〜ん、確かにそうだな……」と思う部分がたくさんあります。ただ、ロマネス自身が解決したかった進化説の難点は、推論、知性、道徳心、倫理といった人間固有に見える心の働きをいかにして説明するかということでした。この問題意識がロマネスの念頭にあることを踏まえれば、一面的評価で片付けるのも野暮だな、と思うアンビバレントな印象が湧いてきます。
ワトソンが心理学の主題を意識から行動に移したという側面もないわけではないのですが、そういう兆候はワトソン以前から醸成されていました。先ほども出てきたマクドゥーガルは、心理学を「生ける有機体の行い(conduct)に関する実証科学」と定義しました(McDougall, 1905)。“conduct” という単語は、行動(“behavior”)と大筋で同義の意味ですが、理性的な人間の振る舞いを指すことが多いようです。機能主義心理学者であるジェームズ・エンジェルも、心理学の主題が行動に移っていくことを歓迎していました。それは、理性的な振る舞いが人間の心の発露であると考えられてきたためでしょう。ワトソンは確かに1つの転換点ではありますが、歴史の中で突如として出現したわけではないということです。
「私に、健康で、いいからだをしたーダースの赤ん坊と、彼らを育てるための私自身の特殊な世界を与えたまえ。そうすれば、私はでたらめにそのうちの一人をとり、その子を訓練して、私が選んだある専門家——医者、法律家、芸術家、大実業家、そうだ、乞食、泥棒さえも——に、その子の祖先の才能、嗜好、傾向、能力、職業がどうだろうと、きっとしてみせよう」(安田 訳 2017)ワトソンの有名、かつ、この部分しか引かれない一節です。筆者が思うに、この一文の直後の方がよっぽどワトソンを理解する上では重要で、「私は、事実より先走っている。私はそれを認める。しかし反対論の提唱者もそうしているし、何千年来そうしてきた。この実験をするときには、子供の育て方や子供が住まなければならない世界をくわしく述べることを、私に許すべきだ、ということをどうか心にとめて欲しい」と続けています。
行動がいかにして心理学の主題の一角となったのかに関しては、筆者がきちんと整理したものを世に送るつもりです。ご興味があれば、楽しみにしていただけると幸いです。
引用文献
Cox, B. D. (2019). The history and evolution of psychology: A philosophical and biological perspective. Routledge.
d’Isa, R., & Abramson, C. I. (2023). The origin of the phrase comparative psychology: an historical overview. Frontiers in Psychology, 14, 1174115.
Gupta, A. (2023). Definitions. The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2023 Edition).
今田 恵 (1962). 心理学史 岩波書店
Loeb, J. (1900). Comparative physiology of the brain and comparative psychology. Putnam.
松井 大 (2019). 鳥類の採餌行動の比較研究―運動制御と形態学的側面に着目して― 動物心理学研究, 69, 69-80.
松井 大 (2023). 行動とは何か―基礎概念をめぐる研究者間の不一致について― 動物心理学研究, 73, 1-14.
Matsui, H. & Hata, Y. (2024). On the Significance of Biogenic Approach in Comparative Cognition. PsyArxiv. https://doi.org/10.31234/osf.io/ra2gz
McDougall, W. (1905). Physiological Psychology. J. M. Dent.
McDougall, W. (1910). Instinct and intelligence. British Journal of Psychology, 3(3), 250-266.
中島 定彦 (2019). 動物心理学―心の射影と発見― 昭和堂
中島 定彦 (2023). 動物心理学への扉―異種の「こころ」を知る― 昭和堂
中島 定彦 (2024). ワトソン,ジョン サトウタツヤ・長岡 千賀・横光 健吾・和田 有史 (編) 人物で読む心理学事典 朝倉書店
中尾 央・後藤 和宏 (2015). メタ認知研究の方法論的課題 動物心理学研究, 65, 5-58.
大久保街亜 (2024). 「心理学」 の起源に関するメモランダム 専修人間科学論集 心理学篇, 14, 1-5.
Premack, D., & Woodruff, G. (1978). Does the chimpanzee have a theory of mind? Behavioral and Brain Sciences, 1(4), 515-526.
Roback, A. A. (1923). Behaviorism and psychology. University Bookstore.
Romanes, G. (1882). Animal Intelligence. Kegan Paul, Trench, Trübner & Co.
坂上 貴之 (2011). ある心理学方法論に見る陥穽と処方箋―「サリーとアンの問題」「裏切り者検知」「不公平嫌悪」 をめぐって― 哲學, 127, 33-59.
サトウタツヤ・高砂 美樹 (2022). 流れを読む心理学史—世界と日本の心理学— 補訂版 有斐閣
Shettleworth, S. J. (2009). Cognition, evolution, and behavior. Oxford University Press.
Skinner, B. F. (1969/2014). Contingencies of reinforcement: A theoretical analysis (Vol. 3). BF Skinner Foundation.
Strapasson, B. A. (2020). An updated bibliography of John B. Watson. Perspectives on Behavior Science, 43(2), 431-444.
Thorndike, E. (1911). Animal intelligence: Experimental studies. The Macmillan Company.
Washburn, M. F. (1917). The animal mind: a text-book of comparative psychology (revised ed.). The Macmillan Company.
渡辺 茂 (1997). ハトがわかればヒトがみえる―比較認知科学への招待― 共立出版
渡辺 茂 (2023). 動物に「心」は必要か― 擬人主義に立ち向かう― 増補改訂版 東京大学出版会
Watson, J. B. (1913). Psychology as the behaviorist views it. Psychological Review, 20, 158-177.
Watson, J. B. (1914). An introduction to Comparative Psychology. Holt.
Watson, J. B. (1930). Behaviorism (Revised Edition). University of Chicago Press.(ジョン・ワトソン(2017). 安田 一郎(訳)行動主義の心理学 ちとせプレス)
執筆者プロフィール

松井大(まつい・ひろし)
大阪大学 人間科学研究科 助教。専門は比較心理学。
座右の銘は「われわれが旅行をするのは、着くためではなくて、旅行をするためである」(ゲーテ『格言集』)。
趣味はツーリングと心理学の古典収集。
写真は3Dプリントしたカレドニアガラスの頭部模型をうっとり見つめる筆者。
Researchmap:https://researchmap.jp/heathrossie
ブログ:https://heathrossie-blog.hatenablog.com/
X:https://x.com/HeathRossie