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形のないおくりもの 森の動物たちに学ぶ老いと孤独(渡辺カウンセリングルーム 臨床心理士/公認心理師:西尾ゆう子) #孤独の理解

歳を取ると人との別れは多くなり、寂しさは深まっていくことが多いようです。老いることと孤独について、臨床心理士として高齢者の心理臨床に携わる西尾ゆう子先生にお書きいただきました。

「どうして普通に生きていけるんだろう?」

 「大切な人と別れた後、みんなどうして普通に生きていけるんだろう?って思うんだよね……。」

 学生時代、クラスメイトととりとめのない話をしながら駅に向かう途中のことだった。私より少し年上の彼女は冒頭のようにつぶやいた。私は「うーん、そうだね……」と相槌を打ちながら、彼女の問いを頭の中で反芻した。死別した家族や自死した友人の顔が浮かんだが、私はそうした別れを胸の中で持て余していた。彼女が言うように「大切な人」を失くした後、人はどうやって「それでも」普通に生きていけるんだろう。そして彼女はどうしてその問いを持つに至ったのかも気になった。しかし、ビジネスマンが行き交う真昼の人混みの中で「どうしてそう思うの」と聞くのはなんとなく憚られた。おそらくその問いは、彼女が臨床心理学を志す理由の一つでもあるようだった。当時行き場がなかったその問いへの答えを、彼女は今見つけたのだろうか。

人生の先輩の言葉

 「失うこと(喪失)」そして「ひとりぼっちと感じること(孤独感)」は臨床心理学の中で大変重要なテーマである。私はその後、人生の中でも老年期という年代をテーマに研究を始めることになるが、一昔前まで老年期を対象とした臨床心理学的研究は少なく、老年期イコール「喪失と孤独の年代」というイメージがあった。私も研究を始めて数年はそう思っていた。青春が人生の「夏」とすれば老年期は「晩秋から冬」と例えられる。人生の「みのり」が収穫できる反面、「できないこと」と「人との別れ」は増えさびしさは深まる。人との別れが増えるだけではなく、人に頼らざるを得ない状況も増え、そしていつかは自分自身もこの世と別れる。

 これまで研究のために訪れた先で様々な人生の先輩に出会ってきた。子ども達が巣立ち両親を看とった家に一人で住む80代女性は、今は一人で十分生活できるけれど、病気や怪我をして施設に入ることになったら子ども達には月々何万円か助けて欲しいと現実的な数字をあげながら「私が死んだら庭に草がぼうぼう生えるだけよね」とさらっと言った。老年期に限らず人間は「死ぬまでどう生きるか」や、「自分が死んだらどうなるか」を多かれ少なかれ考える。それは私たちが人間として意識を持って生きる以上自然なことである。

老年期の人とのつながり

 一つの前提として、人間は他者とのつながりを求める生き物である。乳児期の人間は分かりやすい。生きるために他者の応答と世話を引き出す能力が生来備わっている。うーうー、あーあーといった喃語が養育者の鼓膜に届き、養育者が赤ん坊に注意を向けると、赤ん坊はさらに表情と声を駆使して養育者の応答を引き出す。撫でたり抱き上げたりする接触によって双方の身体ではホルモンが分泌される。その相互作用は一種の音楽のようだ。

 老年期も同様に、私たちは人とのつながりの中で生きていく。しかしそのつながり方は乳児期とは当然異なり、身体の状態(健康であるかどうか)や居住環境(誰とどこに住んでいるか)、役割の有無(職場・地域・家庭内での役割)、そしてその人のパーソナリティによって必要とするつながりは人それぞれ多様である。年をとればとるほど個人の多様性が増す上に、社会も価値観も変化し続ける。残念ながら、個人が必要とするつながりを十分に得られないこともままあることだ。

『わすれられないおくりもの』

 今回、絵本『わすれられないおくりもの』を読んでいる時に本特集の執筆依頼をいただいた。30年以上前に日本に紹介された絵本だが、コロナ禍を経て読み返すと改めて心にしみる。老いと孤独を考えるための普遍的なヒントがあるように思い、ここに紹介したい。

 物語は年老いたアナグマの死から始まる。森の動物たちは愛するアナグマとの別れを悲しむ。そのなかでも、アナグマと仲が良かったモグラの悲しみは深かった。雪が森をおおう冬の間、モグラはやりきれない気持ちでひとり途方に暮れ涙で枕を濡らした。春が来て外に出られるようになると、モグラは森のみんなと互いに行き来してアナグマの思い出を語り合う。そうして語り合う内に、アナグマが残してくれた知恵が自分たちを豊かにしてくれていることに気がつき、悲しみが感謝に変わっていく。

モグラと重なる私たち

 今、読み返すと、モグラがひとり悲しみを抱えて冬を過ごした姿は、コロナ禍で互いに行き来することができなかった私たちの姿に重なる。モグラはアナグマのことばかり考えて泣いていた。他者と隔たれた環境でひとり悲しみを抱える夜は辛い。感染のために隔離された部屋でひとりぐるぐると考えて眠れなかったり、コントロールしがたい緊張や不安で身体が萎縮する感覚を味わった人もいただろう。大切な人が病で苦しんでいる場に寄り添えなかったり、看とりの場に立ち会えなかったりして胸が引き裂かれそうな思いを味わった人もいただろう。思ってもいなかった厳しい現実を多くの人が味わった。本当に辛かったと思う。
 
 春が来てモグラが動き出したように、私たちも今ようやく少しずつ人と会い思いを語ることが可能になった。そうして語り合う内に、辛かった体験に紛れ込んでいる知恵を拾い上げ、自分の心に内在化するプロセスが促進される。寂しいけれど、もう孤独ではない。失った人の愛情や忘れ難い体験から見つけ出した大切なものを心の内に根付かせて「生きていこう」という前向きな気持ちが芽生えてくる。そうして孤独を通り越した末に見つけた知恵は私たちが地に足をつけて歩いて行くことを助けてくれる。

おくりものを贈りあう

 別の視点から注目したいのは、アナグマと仲間の関係だ。

 老いて足が動かないアナグマは、モグラとカエルが楽しそうにかけっこをする様子を眺めて幸せな気持ちになる。英国で活躍した精神分析家メラニー・クライン(1960)が、老いた時にも心健やかに過ごす秘訣の一つは、多少の嫉妬があっても若い世代の喜びを共に喜び楽しむことと述べているように、アナグマもまた、動かない自分の足を残念に思いながらも、若い友達が楽しむ姿を眺めて楽しんでいた。

 夕方になり、アナグマはモグラとカエルと別れてひとり家路につく。きっと死が近くまで来ていることを心のどこかで知っていたのだろう。月に「おやすみ」を言って永遠に目を閉じる。死んでもなお心が残ることを知っていたアナグマは、死を恐れていなかった。その死生観は、自分と仲間の良いつながりがあることや、自分が死んでもその良いつながりが続いていくことをアナグマが信じていたことを示している。最期にアナグマが見た月は優しく空に浮かんでいた。それは、別れの寂しさや死への恐れが多少あっても、それらを包み込んでくれる存在が心の内にあることのメタファーとも理解できるだろう。そうしてアナグマはひとり死んでいった。

 最後に、森の動物達が語る思い出に触れておきたい。彼らが大切に語るアナグマの思い出や知恵は、たとえばクッキーの焼き方やネクタイの結び方のように、たくさんのお金や特別な能力を必要とするものは何もない。普通でよいのだ。私たちはついつい年老いて役立たずの自分なぞ早く死んだほうが良いとか、自分の人生あってもなくても一緒だとか、様々なことを考えがちだ。だが、アナグマのように、自分が普通にできることをするだけで人は十分誰かの役に立つことができると思うことができたら気楽ではないだろうか。いや、役に立つことなど忘れてしまってよいのだろう。何気ない日々を共に過ごす中で私たちはお互いに影響を与え合い、形のないおくりものを贈りあっているのだから。

参考文献

Susan Varley(1984)BADGER’S PARTING GIFT. Andersen.小川仁央(訳)(1986)わすれられないおくりもの 評論社

Klein,M.(1960).On mental health. In, Klein,M.(1975).The Writings of Melanie Klein,vol.3. London: Hogarth Press and the Institute of Psycho-Analysis. 深津千賀子(訳)(1996).精神的健康について. 小此木啓吾・岩崎徹也(責任編集)メラニー・クライン著作集5.誠信書房.

執筆者

西尾ゆう子(にしお・ゆうこ)
博士(教育学)臨床心理士、公認心理師
現職 渡辺カウンセリングルーム

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