【連載】ほどよい家族支援を目指して―児童精神科訪問看護の舞台裏から(児童精神科医:岡琢哉)第3回:子どもと家族のこころを支える「ほどよい環境」を整える
子どものこころ、家族のこころ
前回は、診察室での支援と、それを補う訪問看護の役割についてお話ししました。診察室では、子どもの「困りごと」に名前をつけ、見通しを伝えることで、治療の第一歩を支援します。一方、訪問看護はその支援を家庭に持ち込み、診察室だけではカバーしきれない不安や葛藤を丁寧に受け止める役割を果たします。私たちの訪問看護ステーション ナンナルでは、「子どものこころ、家族のこころ」というフレーズを創業当初から掲げてきました。この言葉は、子どものこころのサポートを行うためには子どもだけでなく、その周囲にいる家族のこころをサポートする必要があるという考えから生まれています。
子どものこころの問題に対応する際には、子どもに対して直接アプローチすることももちろん大切ですが、こころと身体が発達する途上にある子どもたちの場合は子どもの周囲の環境にアプローチすることも有効です。これは子どものこころの発達において、環境との相互作用が深く関係しているためです。今回は、子どものこころが発達する上で必要な考え方として「環境の役割」に注目し、訪問看護による支援がどのように「子どものこころ、家族のこころ」に働きかけていくのかを考えていきます。
目に見えない「こころ」
環境の役割についてお話する前に、まずは「こころ」とはどんなものなのかについて考えてみましょう。「こころ」という言葉は日常生活の中でよく使われる言葉ですが、その具体的な定義となると抽象的で、本当の意味で理解することはとても難しい言葉です。そもそも、私たちがこころと呼んでいるものは、人間が経験する様々な思考、感情、意識の集まりの総称で、個々人の行動や態度、他者との関わりを通じて表出されます。こころ自体は目に見えなくとも、「心のこもった贈り物」や「心無い対応」といった言葉に現されるように、私たちは他者との関わりや行動、物を通してこころのあり方を捉えています。
たとえば、「心のこもった贈り物」とは、単に物を渡す行為のことではなく、その行為に込められた意図や感情に注目したことばです。ここでいう「心」は「意図」や「感情」を指し、これらを物理的な形を持つ贈り物に込めて他者に届けられるため、こころを物理的な「かたち」を通して他者に伝える(あるいは伝わる)例と言えます。これとは対照的に、「心無い対応」という表現では、こころが欠如している、あるいは意図的に抑制されている行動が指摘されます。ここでの「こころが無い」とは、単に感情が見えないという状態ではなく、他者との関係性を築く上で期待される「かたち=振る舞い」が不在であることを示します。たとえば、冷たい態度や非協力的な行動が、「心ない対応」として評価されるのは、その行動が他者との連携や配慮といった社会的期待を欠いているからです。
このように、こころ自体を定義することは難しいですが、物や振る舞いを通じて表現される「こころ」は私たちの日常生活の中のことばに根付いています。そしてこのようなことばは主に私たちが他者と関わり合う中で現れる「かたち」や「振る舞い」を通して形成されています。私たちは目に見えないこころを取り扱うために、他者との交流を必要としているのです。
「環境」としての他者
「環境」と聞くと、私たちは物理的な場所や自然環境を思い浮かべますが、今回ここで私が取り上げる環境には、日々関わり合う他者も含まれます。子どもの視点で考えるなら、ここでいう「環境としての他者」は主に家族や学校で関わる同級生や先生のことを指します。
子どもの周囲にいる人間、特に養育者を「環境」として捉える考え方を提唱したのはイギリスの小児科医であり精神分析家でもあったドナルド・ウィニコットです。彼は、乳幼児期の子どもに養育者が果たす役割について深く考察し、子どもに行われる世話や関わりを単なる行為の結果だけでなく、子どもの情緒発達に与える影響という視点からその重要性を説きました。乳幼児期の子どもは自分で空腹に気付き食事を準備したり、体調や感情の不調を訴えたりすることもできません。そこで養育者が子どもの変化を読み取り、食事の準備をしたり、体調や感情の変化に合わせて対応したりします。このように子ども自身が意識せずに行われる世話や関わりが「環境」の持つ機能です。子どもは環境としての養育者の持つ機能を通じて、外界から必要なものを取り込み、不快な情動を安定させる経験を重ねます。養育者が果たすこの機能は、子どもに必要なものを適切なタイミングで提供し、情緒の安定を支える「ケア」として言い換えることもできます。
「環境」が完璧でないことの意味
ここで大切なのは、子どものこころの発達において「環境」が必ずしも完璧である必要はないという点です。ウィニコットは、「ほどよい母親(good enough mother)」という概念を提唱し、養育者が全ての要求に完璧に応えるのではなく、基本的なニーズを満たしつつも、適度なズレや失敗を含む対応も重要であることを指摘しました。このようなズレや失敗によるフラストレーションは、子どもにとって必ずしもマイナスに働くのではなく、現実に適応するための力を養う機会となります。たとえば、養育者が子どもの要求に即座に応えるのではなく、少し待たせてしまったり誤解が生じたりする経験は、子どもが自分の欲求を調整し、環境との関係性の中で工夫する力を育むきっかけとなります。こうしたプロセスを通じて、子どもは自分の認識や創造力を発展させ、徐々に現実世界とのバランスを取れるようになっていくのです。また、このような環境の機能やケアの役割は、子どもが成長するにつれて特定の養育者に限られたものから、より広い社会的対象へと広がります。家庭という限定された環境から学校や友人、地域社会へと、子どもが関わる「環境としての他者」は多様化し、それに伴い、子ども自身が環境に働きかけ、必要なものを引き出す力を発達させていきます。
「環境」の視点
では、もう一度前回挙げたケースに対する支援を「環境」の視点を加えて考えてみましょう。
この女の子のケースでは、小学校入学当初の時点で強い不安におそわれ、苦しい思いは抱えていたものの、なんとか周囲の環境(同級生や担任の先生、自宅での家族の支え)の力を得て、登校を続けることができたものと考えられます。しかし、学年が進むにつれて彼女を取り巻く環境は変化します。同級生の人間関係、担任の先生、家庭での支え、いずれも時が経つにつれて必ず変わっていくものです。彼女の場合は自分自身の成長のスピードと環境の変化との間に少しずつギャップが生まれていました。ここには彼女が生来的に抱えていた「つまずきやすさ」が背景にあったことが窺われます。同級生とのコミュニケーションの多様化、低学年とは違う先生の対応、中高学年になるにつれて求められる学習や生活面での自立性の増加など、さまざまな要因が積み重なり、負担が増していったことが「傷つき」に繋がったと考えられます。このような小さな変化の積み重ねから生じた「傷つき」は特定の原因が見当たらず、彼女の生活の基盤となっている「環境」となる家族や学校を大きく動揺させます。
「ほどよい環境」を目指して
私たち支援者が彼女とその家族に関わる際には、まず彼女を取り巻く「環境」に生じた動揺を丁寧に理解し、その動揺を緩和することから始める必要があります。環境における動揺とは、彼女自身が抱える不安や「傷つき」が家族や学校に伝播し、支えるはずの環境そのものが揺らいでしまう状況を指します。このような動揺が続いてしまうと、家族は「何が悪かったのか」と自分たちを責め、学校は「どう対応すれば良いのか分からない」と迷い、彼女自身の不安がさらに深まる「悪循環」に陥る可能性があります。
実際に訪問看護を利用されているご家庭の多くは、子どもの不安や行動の変化を目の当たりにする中、家庭内での対応に限らず、学校との連携方法が分からず、戸惑いや疲弊を感じています。私たちの訪問看護が目指すのは、このような家族や学校が抱える不安や負担を軽減し、子どもの成長を促す「ほどよい環境」を再構築することです。そのために必要なことが、医療者の視点から評価した「つまずきやすさ」「傷つき」「悪循環」の理解を家庭、学校と共有し、支援の橋渡しを行っていくことです。訪問看護では家族からの了承が得られれば、学校や行政機関との情報共有を行うことができるため、支援のための環境を整える役割も果たせます。こうした連携により、家族や学校の動揺が緩和され、子どもを取り巻く「環境」は穏やかさを取り戻します。そして、その結果として子どもの成長を促す「ほどよい環境」が築かれていくのです。