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連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第8回:言語化と、そこから逸脱する事案

思い出話から

 医師になって最初の六年間、わたしは産婦人科医として大学病院や派遣先の病院に勤務していました。にもかかわらず精神科に転向したのにはいろいろ理由があるのですが、そうした理由のひとつとして、もしかすると自分は精神科医のほうが相応しいかもしれないと考えたくなるような機会があったからです。

 その機会とは、患者さんから悩みを打ち明けられたり相談を持ちかけられがちであったという事実でした。

 たとえば当直をしていると、入院中の患者さん(妊婦もいれば、さまざまな婦人病や癌の患者さん等いろいろです)から話を聴いてくれとか相談したいと言われるケースがしばしばありました。外来でも同様です。その頻度が、わたしに限って高い。それは当方に人徳があるからとか包容力に富んでいるからとか医師として頼りがいがあるとか、そういった訳ではありません。むしろ、いつもぼんやりしていて浮世離れした雰囲気があったので、かえって生々しい内容であっても喋りやすいと思われたからのようでした。おしなべて外科系の医師は、「オレに任せておけ、ごちゃごちゃ言わずにおとなしくしていれば間違いないのだ」といった父性的というか高圧的なノリが多かった印象がありました(あくまでも昭和の頃の話です。今では大分様子が変わっている筈です)。そうなりますと、ちょっと頼りなさそうだがそのぶんソフトな印象のわたしを聴き手に選んでみたくなるようなのでした。

 病気に対する不安や、死への怖れ、家族間の問題や人生への疑問など、まことに多彩な悩みが語られます。それらは医師としての見解を聞かせて欲しいといった類のものではなく、独り語りの延長に近いものでした。まだ社会人としての経験もろくにないようなわたしとしては、助言など無理です。仕方がないから、とりあえず真剣に耳を傾けるしかない。相手が話し終えても、コメントなどできません。わざとらしく励ますのも誠意に欠けている気がする。仕方がないので、「大切な話を聴かせてくれてありがとうございます、今は正直なところそれを受け止めるだけで精一杯です。でも、もしも何かわたしが具体的にして差し上げられることがあるようだったら、おっしゃってください」と言っていました。それしか言いようがなかったので。

 それに対して、ああしてくれ・こうしてくれと具体的な要望を出してくる患者さんはほぼいませんでした。聴いてくれてありがとう、としか言わない。産婦人科の医師としては、何か実際に尽力してあげないと気まずい。でも確かに患者さんはわたしに切々と語るだけで、どこか気持の整理がついているようでした。ならば人間ではなくヌイグルミにでも向かって喋ればよさそうなものですが、人の心はそこまで割り切ることはできない。誰かにきちんと話を聴いてもらえるのは、悩める人にとってわたしが予想する以上に重要なのだなと気付いた次第でした。守秘義務を守ってくれる、場合によっては医療者としての判断や意見を示してくれる、おそらく自分よりももっと大変なケースに向き合った経験もあるに違いない――そうした条件も、医師が聴き手である強みなのだろうとも思ったのでした。

言語化ということ

 産婦人科医時代のわたしが行っていたのは、カウンセリングの一部、いわゆる傾聴という営みでした(当時はそんな自覚はありませんでしたが)。それがそれなりに効果をもたらしたのは、「言語化」という作用ゆえでしょう。

 相手に悩みを語り、事情や心持ちを理解してもらうためには、まず自分の頭の中を整頓する必要がありましょう。それから原則的には時系列に沿って出来事や気持に言葉を与え(言語化)説明をしていく。その作業がきちんと行われれば、少なくとも自分の悩みを客観的に眺め吟味する基盤が形作られましょう。実際に口に出して相手に喋るのは、頭の中で考えているときとは思考に違いが出てきます。すなわち、語ることを通して少し違った角度から自分の悩みを検討できる。さらに、喋るという行為(表現行為でもあります)にはある種のカタルシスが伴うようです。少なくとも相手が真剣に傾聴してくれているのなら。つまりすっきりして心に余裕も出てくる。

 そんな次第で、きちんと(嘘や誤魔化しを可能な限り排除して)悩みを語るのは毒抜きであろうし、自分自身をあらためて検証し、その過程で何がどんなふうに問題であったかが徐々に見えてくる。おまけに心の風通しもよくなるだろう。傾聴する者は、アドバイスや指導をするのが仕事ではなく、いかに本人が率直に心の内を言い表せるか――その勇気を与える存在だと思うのですね。だから傾聴者は悩める人が覚悟を決めて話をしてくれたこと自体を褒め称えて承認すればよいし、悩む側の人(つまりクライアント)はそのことに力づけられて、最終的には自分でどのように決着をつけるべきかを探し出すことになりましょう。

 言い方を変えれば、自分で自分をカウンセリングするのは無理です。そんなことをすれば、必ず自分に都合良くストーリーをねじ曲げますから。その気はなくとも、ついズルをしてしまう。そうならないように、真剣に傾聴してくれる者がいるわけですし、傾聴者(カウンセラーや精神科医)はクライアントに信頼されなければならない。傾聴者が白衣を着たり、診察室で話を聴くのが原則なのは、言語化が安心して進められるための舞台作りなのです。診察料を取るのも、馴れ合いや遠慮、忖度などを避けるためにあえて必要だと思います。

 言語化という営みは、予想以上に人を救うようです。

「わだかまり」や「とらわれ」の厄介さ

 この連載において、わたしは不本意だったり不条理な過去に対するどうにも忘れられない怒りや悔しさ、悲しみ、つまり「わだかまり」や「とらわれ」をどう振り払うかについて考えています(それが平穏な生活や幸福につながるからです)。そうなりますと、言語化によって忌まわしい記憶を乗り越えられるのではないかと思いたくなる。でも実際のところ、どうなのでしょうか。

 個人的な話をしますと、わたしは母親(当然のことながら、もう亡くなっています)との関係性において複雑な感情をいまだに払拭できていません。今までに人生の節目がいくつかありましたが、そうしたものを通過してもやはり「わだかまり」「とらわれ」は変わることなく持続していました。同業者に向かって言語化するのも抵抗があったので(向こうだって、やりにくいに違いありません)、冗談半分に占い師を相手に吐露してみたこともあります。それでも乗り越えられない。結局、私小説だかエッセイだか判然としない本を二冊書き、それでかなり心の整理はつきました。が、その時点において払拭ないしは解決に至ったというよりは、むしろ自分で自分を茶化すような形で妥協しただけのような気がします。

 でもそこで気付いたこともあるのです。わたしは自分なりの「わだかまり」「とらわれ」によって苦しんではきたが、同時に、それらと馴れ合いの関係も形作ってきたのですね。シリアスさと「毎度おなじみの吉本新喜劇的な、あるいは予定調和的な冗談」めいたノリとのあいだで何とか生きてきた。言語化どころでは歯が立たないので、馴れ合いの関係によって事態の毒々しさを懐柔しつつ生きてきた、といったところでしょうか。ある程度以上にヘヴィーな案件においては、長期に至ると妙な愛着すら生じてくるものであり、そうした不可思議なありようこそが自分自身の輪郭を描き出しているような気すらしてくる。

 こうした感覚については、次回に話をつなげていきたいと思います。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

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