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連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第9回:自業自得、あるいは不条理な災難

高級石鹸の話

 以前、外来で、ある患者(男性)がわたしに無礼千万なことを言いました。パーソナリティー障害の人物でしたが、患者だから担当医に何を言ってもよろしいというものではない。幻覚妄想があったり、心の余裕をまったく欠くような状況にあったり、自分でコントロールしかねるような感情の昂ぶりによってつい暴言を発してしまったというのなら容認はできますが、そうではない。無礼と分かっていて当方を挑発している。そこにはある種の甘えや、どこまで礼節を踏み外したらわたしが腹を立てるかを見届けようという魂胆が見え隠れしていました。

 わたしとしても、もちろん喧嘩を始めたりはしませんでしたが、無言のまま三十秒くらいじっと相手の顔を見つめていましたね。あえて無表情で。向こうもさすがにマズイと思ったようで、「あ、冗談、冗談。精神科のドクターでも怒ったりするんですねえ」などと戯(おど)けた調子で取り繕う。医師-患者という関係でなかったら、胸ぐらを掴んでやるところでしたね、正直なところ。

 その患者は次の診察のときに、小洒落た紙袋を持参してわたしに差し出しました。中身は輸入ものの石鹸だそうで、確かに高級品はかなり値が張る。彼としてはそれなりに無理をした出費なのであろうことは見当がつきました。そして彼は言います。「前回は先生の機嫌を損ねて申し訳ございませんでした。わたしなりに反省をいたしまして、お詫びのしるしに石鹸を進呈させていただきます。これでお腹立ちの気分を洗い流し、つまり水に流していただくということで」

 そのような台詞を、彼は薄笑いを浮かべつつ口にするわけです。担当医を怒らせてしまったのは結局自分にとってマイナスになりかねないが、だからといって素直に謝るのも面白くない。そこで彼としては、スマートでソフィスティケートされたやりとりといった形で事態を収めようと考えた。いわば気の利いたブラック・ジョークの応酬みたいなものを想定したわけで、ここでわたしが難色を示したら、野暮でつまらぬ精神科医と認定してやろうという腹づもりですね。一部のパーソナリティー障害の人には、自分は洗練された精神の持ち主であり、医療者はそれを理解した上で対応すべきであるなどと考えています。洗練された精神の持ち主であると自認するのは結構ですが、それを発揮する相手が担当医しかいないところに彼の悲しさがある。

石鹸を受け取るということ

 この場合、高級石鹸を受け取るべきか否か。
 
 基本的に、医師は患者さんから贈り物を受け取るべきではないでしょう。袖の下を差し出すか否かで医療の質が変わってくる、などと錯覚されては困ります。でも実際の場面では、よほど高額の品でない限り、わたしは有り難く頂戴することのほうが多い。大概の場合、駆け引きの材料として患者さんが贈り物を持ってくることはありません。たんに挨拶や好意のレベルで持って来てくれる。こちらが受け取るのを拒んだら、相手はそれを持ち帰らねばならない。そんなときの彼らの少々白けた気分を想像すると、拒む気にはなれません。まあお菓子が多いですから、「スタッフと一緒に頂かせていただきます、ありがとう」と受け取りますね。

 さて、では高級石鹸のケースはどうなのか。受け取らなかったら、既に述べたように彼はマウントを取った気分になるでしょう。勝ち誇った様子で「心の狭い医者だなあ! オレがこんなに譲歩してやっているのに、ユーモアすら分からないのだから」と。さもなければ、見捨てられたような気分になって逆上するかもしれない。別にどう思われようと構わない筈ですが、わたしとしてはやはりクールには徹せない。互いにわだかまりが生じてしまい、長い目で見ればこちらのモチベーションに関わってくる。

 受け取ったら受け取ったで、おそらく彼はその事実にネガティヴなニュアンスを(故意に)付加するでしょう。すなわち、「贈り物をしたら機嫌を直すなんて、卑しいよなあ。まさに医は算術だよ!」と。彼のような人はニュアンスを自分に都合良くねじ曲げるのが常ですから、受け取るのはリスキーです。いやはや実に厄介ですよね。

 わたしは、「突っ返すのも角が立ちますので、あなたの気が済むのでしたら受け取らせて頂きます。ただしこのことでわたしの言動に変化が生ずることはないと思いますよ」と告げて石鹸を受け取りました。そしてそのまま淡々と面接を進めたのでした。今こうして振り返ってみても、受け取りを拒否したらそれは「心遣いを踏みにじる」「相手の顔を潰す」といった意味での攻撃になりますので、まあ受け取ったほうが正解ではなかったかと思っています。もちろんその石鹸を家に持ち帰って使ったりはしませんでした。何かあったときにすぐ返却できるように保管しておくのが賢明でしょうが、ムカつくのでゴミ箱に捨てました。もちろん彼が気が付かぬように留意しつつ。

どうしてこんな話を書くのか

 考えようによっては、愚にもつかない話かもしれません。なぜそんな打ち明け話をわざわざここに書くのか。

 石鹸の件は、とりあえずこじれることなく事態は収まりました。だが、こじれた場合にはどうなのだろう。原則論から申せば、そもそも精神科の医師が患者の言葉に腹を立てること自体がおかしい、大人げないと言えるかもしれない(個人的には、腹を立てるという〈人として当たり前の反応〉はあって然るべきだと思います。ただしその後どんな対応を取るかのほうが重要でしょう)。また医師が患者から物を貰うのは間違っているといった意見のほうが、正論でありましょう。そうなると、わたしのほうが「悪い」といったことになってしまうかもしれない。いや、仮にSNSで報じられて炎上したとしたら、おそらくわたしのほうが分が悪くなりそうな気がします。当方と患者との間で生じた一連の経過にまつわる微妙なニュアンスだとか、あえて原則には沿わない判断をした事情などを上手く説明するのは案外難しい。そうなると、シンプルに原則論を言い立てる側のほうが有利になりがちです。

 わたしたちが「わだかまり」や「とらわれ」で苦しむとき、その案件が一方的なハラスメントや悪意であるといった具合にあっさりと白黒がつくケースは案外と少ないのではないでしょうか。こちらだって多少の落ち度やミスはあったかもしれない。背景にはやや特殊な事情があったのかもしれない。それなりの理由はあろうとも、そこを上手く説明し納得してもらうのは容易でない。また向こうなりの言い分もあり、表面的には相手のほうが「まことしやか」に映ることだって多い。しかもわたしたちの怒りや立腹には、外野席の人たちの無理解で無責任な態度、イージーな先入観、事実よりも誤解を面白がる残酷な姿勢などへの恨みがかなり含まれている。そうなると、もう何が何だか分からなくなってきてしまう。

 気を落ち着けて言語化を図ってみようとしても、むしろ理不尽な感情や怒りが蒸し返されてしまう。それどころか孤立感がますます高まってしまう。

 ではどうすれば賢明なのでしょう。結論から申せば、さし当たっては「どうしようもない」。じたばたしても逆効果な場合が多い。でも泣き寝入りの必要はない。時間が経てば周囲の理解が得られるといった話ではないものの、その時間をどう過ごすかのほうが重要だ。トラブルが「自業自得」であったのかそれとも「不条理な災難」であったのかは、トラブル後の振る舞いや態度を通して確定してきます。そこを念頭に、悔しいかもしれないけれどもわたしたちは「わだかまり」や「とらわれ」という異物を抱えつつ、毅然として生きるしかない。ただし心の中では、その異物を自虐的に弄んでみたり、苦笑してみるといった余裕が大切でしょう。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。


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