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いま改めて考える家族という関係と心の距離(吉川 悟:龍谷大学文学部教授)#こころのディスタンス

人は他の人との関係の中で生きています。自分で決めたと思っていた行動が、実は他の人との関係に縛られて生じていること、その因果関係にお互い気づいてさえいないことが、多々あります。人間関係のはじまりである家族には、人の心について考えるヒントが沢山あります。家族関係に着目することで心理的な問題の解決に取り組む、システムズアプローチの第一人者である吉川 悟先生に、今回見えてきた家族の課題について語っていただきました。

 人から人への感染を避ける最も効果的な方法として、他の人との接触機会を作らない、いわゆる「巣ごもり生活」が推奨される日々が続いていました。いつもの日常では、社会的場面で活動し、多くの人との接触機会があるのが当然でした。にもかかわらず、信じられないくらいの多くの人が、しかたなく「家」で過ごす時間が圧倒的となり、結果的に「ステイ・ホーム」のかけ声に倣った日々を過ごさざるを得なくなっていました。

 その「家」には、外の人間関係とは異なる特別な特徴があれこれ存在します。「言わずもがな」や「阿吽の呼吸」というある特殊なコミュニケーションや、最悪の場合、その関係そのものが破堤してしまう危険な面も持ち合わせているのです。

 「家」では、今回いろいろなことが起こっていました。そのいくつかを紹介します。

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「ステイ・ホーム」の片隅で……

 「ステイ・ホーム」のかけ声が世間に聞こえはじめた頃、あちこちで小さな声が揚がっていたのを、ご存じでしょうか。

 「ステイ・ホーム」がうまく機能するためには、「家」=「安全な生活が保障されている場所である」という無垢な前提があります。確かに多くの「家」には、「日常」という生活基盤のバランスの上で、「安全が保証」されている場所であると思いますが、いつどのようなときでもそれが保証されているものではない場合もあります。

 ある旦那は、自分の思い通りにならにないと、朝から奥さんや子どもを怒鳴っています。しかし、仕事に行かなければならないから、怒鳴り続けるわけにはいかず「家」を出てしまうので、この怒りっぽい旦那は、その時は家から消滅することになります。しかし、「ステイ・ホーム」では、怒りっぽい旦那は消滅せず、永遠の怒号の地獄が続いてしまいます。

 ある母親は、幼稚園児の子どもが正しい生活習慣に従ってくれないからと、朝からあれこれ子どものすべきことを口うるさく怒鳴り続けています。しかし、子どもが幼稚園へ行ってしまって「家」にいなくなると、この口うるさい母親は、その時に消滅することになります。しかし、「ステイ・ホーム」では、口うるさい母親は消滅せず、永遠の怒鳴り声の地獄が続いてしまいます。

 ごくごく一部の「家」ですが、実際に起こっていたことです。これを報道関係者に任せれば、Domestic Violence と呼ばれたり、児童虐待と呼ばれたりします。心優しい人から見れば、信じられないことに思えるかもしれませんが、「普通」によくあるできごとが、今回の「ステイ・ホーム」のおかけで大問題となってしまっただけなのです。

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止めたくても止められない……

 家族臨床を囓ったことのある人なら、わかっているかもしれません。「家」にかかわる人間関係では、それまでの日常のごく小さなリスクがエスカレーションすれば、そこに関係しているすべての人の常識的判断や肉体的限界を超えるまで、リスクの増大が続いてしまう怖さがあることを。そこには、想像できないような大きな精神面での苦痛だけでなく、生物学的な「死」をも含む、とてつもない悲劇を生み出す可能性があることを。そのうえ、そのエスカレーションに関わるすべての人が、悲劇を回避したいという強い思いがあるが故に、よけいに悲惨な出来事が起こってしまうという矛盾を。そして、その出来事が起こった後に、ものすごく強い自責感だけが互いの中に溢れ出そうになって、なにも語れなくなっている人たちがいることを。こんな家の中の見えない部分は、多くの人がそんなことが起こっていることにする気づけないものなのです。

 こうしたとんでもないことでさえ、起こるべくして起こっている出来事であるという事実は変えられないし、社会のあるべきリスクとして、いろいろな人にも知っておいてもらいたいと強く思います。しかし、如何せん、社会の前提となっている性善説は、揺るぎないものです。「家」=「安全な生活が保障されている場所である」という無垢な願望が強いだけなのかもしれません。

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コロナ離婚

 一方で、そんなこんなの危機的状況が生じるかもしれないという変化を、早々の段階で察知できた人たちの中には、「家」という枠組みそのものを変えてしまう決断も、そこここで見られました。マスコミも気を遣ってオープンにしていませんし、巷であまり話題が顕在化しないように抑制的に扱われていますが、いわゆる「コロナ離婚」です。

 「離婚」というと、否定的なイメージが先行しがちです。互いの忍耐と我慢によって成立していた家族としての繋がりが、今回の「ステイ・ホーム」によって脆くも崩れ去ってしまったと考える向きも少なくありません。しかし、どうでしょうか、新たな一歩を踏み出す決断につながったと考えることはおかしいのでしょうか。

 日本文化には、「子は鎹(かすがい)」という格言に見られるようなある前提があります。親となったかぎりは、子どものために我慢に我慢を重ね、堪え忍んだ末に、バラ色の夫婦関係が作られる、というような含意があります。ですが、子どもにとって、揉めている親の姿を見続けて、その上調整役をしなくてはならないと思わされかねない日々を共有することが、本当にそれでいいのかと疑ってしまいます。

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ミスなく生きる

 欧米文化はこの真逆の発想です。両親の醜い争いを子どもに見せることは、ネグレクトと同等の子どもに対する虐待的行為で、できる限り早く別れた方が良い、という考えです。これはこれで、一旦一緒になろうと決断した夫婦関係を、争いが繰り返されるからといってそれほど軽々に終結させる決断をする、本当にそれが適切なのだろうかと疑ってしまいます。

 今回の「コロナ離婚」の事例では、これまでにも何度も「離婚」を可能性として考えたことがある事例がほとんどだと耳にします。しかし、これまではその度に、莫大な事後処理を想像して、躊躇し決断を先送りしてきた筈でした。にもかかわらず、今回あっさりと決断できたのは、ある種危険なエスカレーションを察知する力があったからなのかはわかりませんが、それなりに意味ある決断と考えて良いのではないでしょうか。

 多くの人にとって「離婚」という言葉の語意には、否定的な「離別」という意味が含まれています。だから、新しい可能性を検討しはじめることを決断できたのだ、と見なすことはできづらいのだろうと思います。それは、子どものための犠牲を強いることが尊いとする文化から、個人の可能性を広げる自己中心の文化への転換として、批判的に見なすこともできるのかもしれません。そこにある「ミスなく生きることが何より正しい」とする失敗回避の哲学、それを文化的に押しつけられていることを気づくのは、タブーなのかもしれません……。

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空間と距離の誤認

 人間の間に存在する空間や距離の概念は、社会がここまで空間や距離を自由に操作できるようになるまで、人にとって想像力を鍛える手段として役立つことも少なくなかったように思えます。空間的に遠く離れている人のことを思うこと。空間や距離を無視して存在感を自らの中に作り出し、安心を作ろうとすること。こうした想像力を鍛えていることにこそ価値があると位置づけられることも、少なくなかったと思います。

 また、「リモート」という名の下に、物理的な距離を認識するための1つであった視覚的要素は、繰り返される仮想的錯視の結果、混乱を生み出す要因となりかねなくなっています。そこで新たに求められている想像力は、どこまで現実の中でのできごとに結びつけて考えることができるのか、それを見極めるためのものになってしまっています。リモートの中で見える現実とは、常にそれぞれのできごとと一定の距離が保たれているわけではありません。ごくごく身近だったり、とてつもなく周辺的だったりしても、等距離の感覚でその情報が提供され続けるので、それぞれの違いを常に考慮することが求められます。その遠近を消失してしまえば、人の痛みや辛さなどの苦悩だけでなく、楽しさや感謝などという感情さえ、空間のつながりを想像できなければ、より実感しづらくなる傾向があると言われています。

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わかるということ

 ナラティヴ・セラピーという一風変わった臨床の世界に、謎かけのような格言があります。「目の前のクライエントのことがわかった、と思ったとたん、そのクライエントのことがわかっていないことが確定する」というものです。何かの悩みや困りごとを抱えて来談するクライエントに対して、セラピストはその悩みや困りごとをできる限り理解しようと努めます。そして多くのセラピストは「なるほど、このクライエントはこんな風に悩んでいて、困っているのだ」とクライエントを理解しようとします。臨床現場では、来談する見ず知らずのクライエントのことをこんな風に「わかろう」とすることが基本となっています。

 しかし、この格言は、人のことが「わかる」ためには、「わかった」と思ったとたんに「わかっていないこと」が確定すると伝えています。どういうことなのでしょうか。

 あるセラピストは、こんな風に考えるかもしれません。ここまでクライエントが話してくれていることが、本当に悩みのすべてなのだろうか。まだまだあるかもしれないではないか。また、もしもそれがすべてだとしても、そこに理解できていないことや誤解はないと言い切れるのだろうか、と。こんなことを言い始めたら、どこまで聞けば良いんだ、とお叱りを受けるかもしれません。しかし、こう考えたらどうでしょうか。

 人が人を理解するためには、その人のことを理解しようとし続けている中の、今はその途中にいるだけなのだという認識が大切なのだ、と。そして、「わかった」ということは、その人のことを理解しようとする努力を止めてしまうことの始まりのサインになるのだ、と。加えて、「わかった」と思ってしまった時は、その途端その人に対する関心や興味を失ってしまった瞬間なのだ、と。

 通常の面接では、それまでのカウンセリングの中でわかったことからあれこれ考えながらも、まだまだわかっていないことがあるからと知るための努力を続けます。そして、今の「わかった」という前提もある程度「保留」としながら、クライエントのために役立つ指針を提供しようとする。そしてそこからまた新たにわからないことに関心を向ける……。ややこしいからもっと簡単にならないのだろうかと思いたいのですが、たぶんそれではダメなのだろうと思います。

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これからという名の未来は……

 人が人をわかろうとするとき、空間や距離という要素は、いろいろな調味料にはなり得ても、主たる食材にはなり得ないものです。慣れ親しんだ関係の中でさえ、いつも通りの行動に加えて、「ウィズ・コロナ」の中での新たな日常における適応行動を検討しても、突然できるものではありません。これではやっぱりだめかもしれないから、今度はこうしてみよう、そんな試行錯誤を繰り返す中から、だんだんそれらしい「新しい適応行動」が生まれていきます。そして、そこからまた、よりよい新たな「適応行動」を生み出そうとして……。その繰り返しの途中のどこかに、今の自分はいるのだと自覚することが大事なのかもしれません。

 「家」で、親子や夫婦が顔をつきあわせ、互いについてこれまで以上に関心を向けてみることが、肯定的な時間が流れる前提となるのかもしれません。しかし、人間関係は常に互いに関する肯定的な関心だけで成立しているわけではありません。

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家族のためにしてきた、忘れてしまっているかもしれないこと

 もしかすると、あなたはすでに忘れてしまっていませんか、昔、なにげなくやっていた、すごくすごく大事なことを。何気ない「日常を維持する」ために、何気なくない程度の日々の努力をしていたことを。その努力そのものは、ある日突然、意図を持ってはじめたものではなく、いつからか知らないうちに自分がしていたことなのだということを。

 「日常」という何気ない、当たり前のこと。ただ、それを守りたい、大事にしたい、永遠に続けばいい、そう昔に願っていたことを、すっかり忘れてしまっていませんか。

 その何気ないことには凄く意味や価値があるのだと。そして、その日常を維持する魔法がいつか解けてしまうかもしれないということを知りつつも、解けない魔法であってほしいと願っていたことを。

 素直に、目の前の大事な「人」との繋がりが続くために、すごく大事な「日常」のためにしていた努力を、すべて「昔にあったこと」として忘れてしまっていませんか。

 何気ない日常の、人との共同作業の繰り返しは、艱難辛苦を生み出す機会にも繋がります。それを共に体験できたり共有できたりする中で、悲喜こもごもの感情が生まれます。その度にそのときが唯一のものであるように感じられること、それが人として普通なのだということを、すっかり忘れてしまってはいませんか。

 すべての出来事が、起こったそのときだけで終わらないのであれば、それからどうなるかの「未来」を変える努力をしてみることが、その出来事の意味を変える、唯一今の自分にできる方法なのかもしれない。

    そんなふうに昔、自分に言い聞かせていたことを……忘れてしまってはいませんか。

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執筆者プロフィール

吉川 悟(よしかわ・さとる)
龍谷大学文学部教授。家族療法から、日本で独自に発展したシステムズアプローチの実践と教育が専門。人間関係の不全状態の改善が唯一の心理療法的対応と考え、臨床実践と後進の育成に力を注いでいる。著書に『対人援助における臨床心理学入門』(ミネルヴァ書房)、『システムズアプローチ入門』(ナカニシヤ出版・中野真也先生との共著)などがある。

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