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短期連載:教育は能力主義の呪縛から抜け出せるのか?【第3回】教育は能力主義の呪縛から抜け出せるのか?(組織開発コンサルタント:勅使川原真衣×東京学芸大学教職大学院准教授:渡辺貴裕)

連載第2回 教育における能力主義をどうほぐすのかでは、教育方法学者の渡辺貴裕さんの紹介した授業検討会での先生たちの様子と勅使川原真衣さんから見た企業での会議に通じる点がいくつも見つかりました。入れ子状態になっている社会構造の中で、教育が能力主義の呪縛から抜け出すにはどうすれば良いのでしょうか。いよいよ、最終回となりました。

能力主義は個人を測るための査定のエビデンス

 ——連載『教育は能力主義の呪縛から抜け出せるのか?』も今回でいよいよ最終回となりました。結論にたどり着けるかどうかはわかりませんが、よろしくお願いいたします。

渡辺 第1回で触れたことに少し戻りたいのですが、勅使川原さんが能力主義を批判するポイントとして、個体能力観に立っている、ということがありました。学校教育の場合、子どもはずっとその学級やその学校に居続けるわけではないので、「進級したときにやっていけるか」「中学校、高校でやっていけるか」ということを先生方は気にします。

その意味で、学校教育が個体能力観になるのは理解しやすいのですが、企業はなぜ個人にそこまで焦点を当てるのでしょう。ある意味、「個人がその後どうなっていくかなんて知ったことじゃない」とも言えますよね。 

勅使川原 今でこそ、仕事は生き甲斐という文脈で語られますが、もともとの乾いた意味で言えば、生きるために収入を得る手段です。ただ原資には限りがあるんですよね。限りあるものを分け合わねばならないのが社会なので、納得性の高い取り分を決めるロジックが必要だった。そこから生まれてきたのが貢献度を配分の軸に据える、つまり「できる人は多くをもらい、できの悪い人はもらいが少ない」とした能力主義で、その人の査定のエビデンスとして個人を測るためのものなのです。

そこに客観性があれば、「取り分に差があっても文句ないでしょう。だってあなたはあの人よりできが悪いじゃないですか」というロジックが成り立つということなのだと思います。

渡辺 あぁなるほど。私は、実家がパン屋兼喫茶店、親戚も自営業ばかりだったので、会社員という存在が身近ではなかったんですよね。学校教育の世界も、企業の場合ほど差はつかないというか、経験年数が同じなら個人の取り分がそこまで大きくは変わらないので、査定のエビデンスとして個人を測るというイメージが薄かったのかもしれません。

勅使川原 もともと人・モノ・カネはいつだって有限ですが、日本の企業は、右肩上がりの成長ではなくなってしまったころから、よりできるだけ支出を抑えたいという方向になってきました。だから、人事コンサルティングにおいて能力を正しく測り、給料を払い過ぎないためのロジックが幅を効かせるようになってきたところがあります。あまり大きな声では言えませんが。 

学校教育で必要なのは他者評価ではない

 渡辺 そうなるとなおさら、学校は、社会に出るまでに能力を獲得させてあげないと、と頑張るわけですよね。学校の先生方がそこまではっきりと「将来稼げる子になってほしい」と考えているわけではないでしょうが、「いろんな能力が開発されているほうが幸せになれるだろう」というのはあると思います。

 勅使川原 その親心はわかります。ただ、能力主義って、つまり他者評価なんです。ですから、他者評価によってだけ自分の能力を把握でき、その多寡で社会を生き抜くという発想ではなく、社会に出て誰かと共に生き合うために、自分の凸凹を知るヒントとしての「特性」や発揮しやすい「機能」の情報を、学校で掴んでほしいと思っています。

自分はこういう感じの場所に行くと急にやる気がなくなっちゃうとか、こういう先生はちょっと無理だなとか。そういう自分のデコボコを知る場でもあってほしい。自分や他者を評価するためではなく、組み合わせるための。

渡辺 自分のデコボコを知るというと、学校の先生には、「じゃあ子どもたちに、自分の得意・不得意を見つけさせればいいんですね」と捉えられてしまうかもしれませんが、そうではなく、勅使川原さんがおっしゃるのは、自分がどんな関係性の中で、どんな働きをするのかを知っていくということですね。自分がどんな人で、周りにはどんな人がいるのか。学校がそういうことを知れる場になるといいなと私も思います。

勅使川原 得意、不得意でいうとやはり二元論ですものね。こう言い換えてはどうでしょうか? 自分の反応パターンを知り、環境調整のヒントを探る。まずは感情でいいと思うのですが、何に腹が立つかとか、何には笑いが止まらないとか、イラっとくる瞬間がどんなときなのかとか。

「自立」という言葉が誤用されていることも気になっています。一人で立つことを人生の質が高いことだ、成果なのだと思いすぎているのではないかと思います。成果というものは、本当は、持ちつ持たれつでみんなで作っているのに。

勉強ができれば今のところタックスペイヤー(納税者)になれる社会ですが、発達障害だって、まだ評価の軸がなくて測れないから評価対象になっていないだけで、本当は素晴らしいデコボコが存在している。私は、そこを拾っていきたいと思っています。

息子は、2歳から油画を描いていますが、学校の図工の成績は万年「がんばりましょう」。学校では、描けと言われたものを描かないから「やる気のない子」と評価されます。そうではなく、じゃあ、どういうアプローチなら彼は図工の時間を楽しめるのかということこそ、学校教育でみんなが学び合うことなのではないかと考えています。

一人で生きるのではなく、共に生きるために

勅使川原 本当は、就職活動でも、企業側も評価軸や面接官はどういう特性を持った人がいるのかなどを公表していかなければならないと思います。今、世の中の選抜のほとんどは、権力勾配と情報格差を基にしたものです。開示するなら双方の情報を開示する必要がありますが、権力勾配ありきの選抜は崩していかなければいけない。 

渡辺 教師だって人間ですから、本当は、この子相性いいなとか、なんか合わないなとか、ちょっと苦手とかいろいろあるはずなんですけど、そんなことは決して出せませんよね。自分自身の感覚に蓋をするような状況に、職業柄置かれているといえるのかもしれません。もちろん、教師が好き嫌いで子どもへの対応を変えるというのは違うわけですが、他の面では、教師だってデコボコのある存在として校内にいられるとよいなと思います。

勅使川原 人間だもの、ありますよね。先生が担う校務の中には、当然、自分の特性と少し合わない仕事もあるでしょう。それを表明することは、無能だとか、わがままだとかいうことではないはずですよね。「今回の報告テーマは正直、自分にとってなじみのない発想の話なので、見方に偏りがあるかもしれません。ぜひお気づきの点を教えてください」などと事前にお話されることが当たり前になったらいいのになと思います。

渡辺 教師の個々のそうした違いを「ない」ことにして、個人にあらゆる方向での「能力」を求めているのが今の教員関連の施策かなと思います。

私はこの勅使川原さんとの対談を通して、一つ大きな気づきがありました。学校教育は、とりわけ公立学校に関して、そのぬるさや不自由さが繰り返し批判の対象になってきました。給料が一緒だとか、自由に人を採れないとか、平等主義に縛られているとか。でもそういうぬるさや不自由さが、ある面では良さでもあるのかもしれないと思い至りました。

企業のように、学校単位で教員を選抜したり採用したりするのに悩まなくていいし、自分の取り分のために自分の能力が高いことを誇示するような振る舞いに追い立てられることもない。配属された学校の中に多様な先生がいて、担当したクラスの中に多様な子どもたちがいる。一見不自由に思えるかもしれないけれど、最初から、それを出発点としてやっていくことができる。それを良さとして捉えることができるのだというのは、新しい気づきでした。

今の学校が、子どもも教師も能力主義に追い立てられているのは間違いないのですが、同時に学校の中に存在する、能力主義とは異なる原理で動いている部分についても、しっかりと目を向けて、その大事さを訴えていきたいなと思います。

勅使川原 インクルージョンの萌芽はすでにあるものだという発想ではなく、何か自分たちに欠けていることがあるんじゃないか? 足りない点を埋めていかねばならないんじゃないか? と先生たちも思い続けるような社会になってしまっているのは本当にもったいないことです。

私自身も、渡辺さんとお話しできて、改めて学校の葛藤の一端を知れたように思います。本当にありがとうございます。教育から労働は連綿と接続した存在。今後も両者を行き来、越境しながら探究を続けたいと襟を正しました。 

とはいえ、包摂や融合は一朝一夕に進められるものではないですよね。だからこそ今日のような、近接領域で日々実践・研究をする者同士が、他者の営み、他者の合理性を垣間見た上で、視点を交換し合うことは、包摂の地道な一歩でしょう。これはぜひとも定期的にお願いしたいです(笑)! 

(記事作成:太田美由紀)

プロフィール

勅使川原 真衣(てしがわら・まい)
1982年、横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。組織開発コンサルタントとして企業や病院、学校などの組織開発を支援する。2020年から乳がん闘病中。2022年に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)を刊行。朝日新聞デジタル言論サイトRe:Ron、教育開発研究所『教職研修』、PHP研究所『Voice』にて連載中。近著に『働くということ—「能力主義」を超えて』(集英社新書)『職場で傷つく』(大和書房)がある。Xは@maigawarateshi。


渡辺 貴裕(わたなべ・たかひろ)
1977年、兵庫県生まれ。教育方法学者。東京学芸大学教職大学院准教授。「学びの空間研究会」主宰。研究テーマは、演劇的手法を用いた学習、実践の省察のための対話など。演劇教育・ドラマ教育関連の業績に関して、日本演劇教育連盟より演劇教育賞、全国大学国語教育学会より優秀論文賞、日本教育方法学会より研究奨励賞を受賞。授業や模擬授業の「対話型検討会」の取り組みなど教師教育分野でも活躍。著書『なってみる学び』(藤原由香里と共著、時事通信出版局)、『授業づくりの考え方』(くろしお出版)ほか。「渡辺 貴裕|教育方法学者 note」https://note.com/takahiro_w/

 

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