構造的不正義とは何か(立命館大学総合心理学部教授:神島裕子) #心理学と倫理
2023年度の大学入学共通テストの倫理で、心理学者ウォルター・ミシェルのマシュマロ実験を題材とする問題が出されました。ミシェルの実験は、子どもの将来の高学力や経済的成功には、マシュマロをいますぐ食べるのを我慢できるような自制心(セルフ・コントロール)が関係していることを示すものでした。
後続の実験が明らかにしてきたように、そのような成功には子どもの家庭環境も大きくかかわっています。要するに、個人のウェルビーイングについて考える場合には、自制心といった個人の認知的スキルに加えて、家庭環境などの個人を取り巻く社会環境にも目配りしけなければならないのです。当該共通テストの問題も、「社会で成功できるかどうかは本人次第だと思う」高校生と、努力できるかどうかも「社会の仕組みや構造に左右されると思う」高校生の会話を受けてのものでした。
個人のウェルビーイングにおける「社会の仕組みや構造」の重要性を説くのが、哲学のなかでも政治哲学という領域において研究されてきた社会正義論です。社会正義論は、社会の基礎構造の正義を主題としたジョン・ロールズ(1921〜2002)の著作『正義論』(1971年)を出発点としています。ロールズは、正義にかなった社会では、人々の道徳性の発達が心理学者ローレンス・コールバーグの示す第5段階(社会契約的遵法主義志向)と第6段階(普遍的な倫理的原理志向)に相当するものに至ると考えていました。正義にかなった社会の維持には、正義感覚を身につけた人々が欠かせないとされたのです。
さて、ロールズ以降の社会正義論の一つに「構造的不正義」をテーマとするものがあります。ロールズは正義にかなった社会の基礎構造について論じましたが、それは抽象的で理想的な状況を想定することで成立する理論でした。そのような理想理論は確かに必要です。ですが私たちの日常生活に溢れる大小さまざまな不正義に直に目を向け、それらを取り上げることも必要です。誤解を恐れずに言えば、人が何かに対して理不尽を覚えるとき、あるいは何かに対して誰かのために理不尽を覚えるとき、その何かには不正義があります。その理不尽を伝えるか伝えようとする声を無視したり軽視したりすることは、倫理的ではないのです。
こうした不正義のうち構造的なものについて、つまり個別の行為や政策における不正義のようには原因を特定できないけれども「直観的になにかが間違っている」(ヤング、2014年、64頁)と思われる状況を取り上げたのが哲学者のアイリス・マリオン・ヤング(1949〜2006)です。ヤングは、初期にはフェミニスト現象学と呼ばれる領域の研究を主に行なっていましたが、後期には遺作『正義への責任』に結実する構造的不正義論を展開しました。
では、構造的不正義とは何でしょうか。ヤングは構造的不正義を説明するにあたり、架空の事例を用いています。以下にその事例を簡単に紹介しましょう。
この場合、サンディの計画性のなさを咎めるのは容易かもしれません。でも、サンディが住宅難という「自分自身のコントロールが及ばない環境の被害者」であり、シングルマザーというホームレスに陥りやすい「社会構造上の立場」にあることも事実です(ヤング、2014年、65頁)。そしてサンディと子どもたちがホームレスになる(だろう)プロセスの関係者のほとんどは、本人たちに許されている当然の行為をしています。にもかかわらず、住宅供給にかかわる市場の力、所有権のありか、そして政策の良し悪しなどのさまざまな要因と相俟って、意図されざる結果が招かれるのです。
ヤングはこうした不正義を生じさせるプロセスを構造的不正義と呼び、次のようにまとめています。「構造的不正義とは、たいてい制度上の規則の範囲内で、大半のひとが道徳的に許容されていると考える実践に従って行動する、何千、あるいは何百万の人びとによって生産され、再生産されている……こうした構造上のプロセスにおいては、しばしば違法なことや不道徳的なことをする者たちもいる……そうした違法あるいは不道徳的な行為は、明らかに構造的な結果につながるが、そうした行為に関与する人びとだけが、不正義の加害者というわけではない。他にも、あまりに多くの人びとが不正義な結果に関与しているのである」(ヤング、2014年、142〜143頁)。
サンディの事例でも、明白な咎めを負う罪人はいません。それでもサンディと子どもたちがホームレスになる(だろう)という不正義な結果が生じるのは、「何千、あるいは何百万の人びとによって生産され、再生産されている」構造上のプロセスのためです。そしてそこに行為者として存在する私たちには「ハビトゥス」があります。ハビトゥスは社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)が用いた概念で、ヤングによれば「同じような社会的立場にある人びとに典型的な、内面化された身体的な振る舞いと反応」(ヤング、2014年、87頁)のことです。サンディの事例でヤングは、構造上のプロセスの中に「「適切」な家族は男性が家長を務めるべきである、という社会的に強化され広く共有された偏見と、専門職でない女性たちをわずかな職種しかない低賃金労働に押し込める労働市場プロセス」があることを指摘しています(ヤング、2014年、101頁)。サンディが生きる社会では、女性のシングル・ペアレントに対する私たちのありふれた行為が、サンディをホームレスへと追いやる力となっているのです。
では、構造的不正義にはどのように対峙すればよいのでしょうか。不正義な結果を生じさせるプロセスの関係者のほとんどは、本人にとっては当たり前と思われることをしているだけですから、不正義に加担しているという自覚はありません。ですがもし、ホームレスやいじめ、そしてハラスメントなどが構造上のプロセスの結果であるとひとたび考えられたならば、その構造を変容させる責任も感じられるはずです。少なくともヤングはそのように考え、感じており、私たちにも同じように考え、感じることを迫っています。そうして提案されているのが「社会的つながりモデル」という責任の取り方です。
責任の社会的つながりモデルでは、構造的不正義を取り除く責任は、同じ構造にかかわる関係者の全員にあります。つまり、「不正な結果を伴う構造上のプロセスに自分たちの行為によって関与するすべての人びとが、その不正義に対する責任を分有する。この責任は、罪や過失を誰かに帰す場合のように、主として過去遡及的ではなく、むしろ、主に未来志向的である」(ヤング、2014年、144頁)のです。誰かを咎め、その人に責任を負わせるだけではない。サンディの事例で言えば、シングルマザーをホームレスへと追いやるような構造上のプロセスを変革し、同様の結果が生じないようにする責任が、関係者の全員にあるのです。
そしてその責任も、社会的つながりの中で果たされると考えられています。例えばアパートを開発業者に売るという儲け話に飛びつく大家、低所得の賃借人の窮状よりも都市の見てくれを重視する政府役人、シングルマザーには優良物件を案内しない不動産業者といった関係者の一人ひとりが自分の行為の帰結に思いをめぐらせ、ホームレスになる人がいないようにすること、そして同じ構造上のプロセスにいる残りの私たちも彼らにそうするように呼びかけることが求められます。一見すると無関係のように思われる残りの私たちも、同じ構造上のプロセスにいることから責任を負い、傍観者を決め込んではいけないのです。理不尽について声を上げることをはじめ、自分にできることを考え、これからの正義へ向けて他者と共に何かをすることが大事なのです。ヤングはこれを「他者との公的な、コミュニケーション的参画」(ヤング、2014年、166頁)としています。
構造的不正義に関するヤングの論考は、ここで紹介したサンディの事例以外にも有効です。例えばヤングは、グローバルなアパレル産業が途上国で経営する苦汗工場(スウェットショップ)で、劣悪な労働条件で働いている人びとの事例をあげています。私たちはそのようにして作られた衣服を着ることがあっても、自分がそうした社会的つながりに基づいて、劣悪な労働条件で働いている人びとのウェルビーイングに対する責任を持っていることを自覚していないことがほとんどですから、ヤングの論考はたいへん示唆に富んでいます。
他にはどのような示唆があるでしょうか。例えばある女性Aさんに次のことがあったとしましょう。
この架空の事例では、心配した両親が連れて行ってくれたカウンセリングによって、Aさんは自暴自棄の状態から回復し、地元で仕事をしながら、健康で文化的な暮らしを営みはじめるかもしれません。でもAさんの研究者への道は閉ざされたままであり、第2、第3のAさんを生じさせうる構造上のプロセスは変わらないままです。このように、誰もが社会的に容認されたルールや規範に従って行為しているにもかかわらず、特定の社会構造上の立場にある人びとが意図されざる結果に苦しむということは、私たちの身近にもありうることなのです。
冒頭で紹介したマシュマロ実験の問題では、子どもが成功に至る条件として、自制心といった認知的スキルの他に、家庭環境などの個人を取り巻く社会環境を考慮すべきことが論点となっていました。ここで見てきたことからすると、考慮すべき社会環境は想像以上に複雑で、不正義な結果を生じさせる構造上のプロセスとも無関係ではなさそうです。さまざまな構造的不正義の可能性を前にして個人のウェルビーイングについて考える場合、学問に携わる人びとは、未来志向的な責任をどのように果たすことができるのか。ヤングの論考は哲学の境界を越えてこの問いを投げかけています。
引用参考文献
アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』(岡野八代・池田直子訳)岩波書店、2014年.
ジョン・ロールズ『正義論 改訂版』(川本隆史、福間聡、神島裕子訳)紀伊國屋書店、2010年.
神島裕子「構造的不正義としてのハラスメントーヤングの責任モデルによる、大学におけるセクハラ問題の考察」日本哲学会編『哲学』69号、2018年.