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こころの交流は、ときに命よりも重い(平尾 剛:神戸親和女子大学教授)#こころのディスタンス

人との交流を避けることが推奨される中、普段なら正当化されないような行動を取る人が現れてきました。また、そういった行動に、少なからずの人たちが共感を覚え、一定の力を与える状況も見えてきました。このような事態はどうして起きたのでしょうか。どんな危険性をはらんでいるでしょうか。スポーツ教育学と身体論がご専門の元ラグビー日本代表の平尾 剛先生が警鐘を鳴らします。

ある日のエレベーターで

 緊急事態宣言が発出中のある日のこと、仕事を終えて自宅マンションに帰り着きました。4階に住んでいる私はエレベーターを使うのですが、扉が開くとそこには地下1階から乗ってきた住人がいました。目を合わせて軽く会釈をし、いざ乗り込もうとしたとき、その人は私を警戒するかのように後退りをしたんです。もちろん私はマスクをしていました。

 この人は密閉空間で他人と同居することを憂慮している。それを察知した私は乗り込んですぐに身を反転させ、その人に背を向けました。4階のボタンを押したあとは、やや俯き加減の姿勢で時が過ぎるのを待ちました。

 やがて4階に着くと、速やかにエレベーターを降りて徐に深く一呼吸つきました。

 同じマンションに住む者が乗り合わせるエレベーターは、本来ならば笑顔で挨拶を交わすなどして友好的なコミュニケーションをとるべき場です。それが互いを警戒し合う敵対的な空間へと変貌している。なんともいたたまれない気持ちになりました。

 エレベーターを降りて一息ついたとき、自分が無意識的に呼吸を浅くしていたことにも気がつきました。他者への感染を防ぐためには「三密」を避け、ソーシャルディスタンシングをとって、なるべく飛沫が飛ばないように配慮しなければならない。この所作がいつのまにか習慣化し、知らず知らずのうちに呼吸を浅くしていたのでしょう。

 隠れ感染者かもしれないという目で他者を捉えて、警戒心を抱く。他者への感染を防ぐために、飛沫を抑えるべく呼吸を浅くする。私たちのこころとからだはこうして「コロナ化」していくのだなと、暗鬱な気分になったあの日が忘れられません。

 よりよい生とは、人とのつながりを広く、そして深くすることです。ですから、人との接触をなるべく避けるような生活は多くの人にとって苦痛でしかありません。

 あの日のエレベーター内において私という存在は、かの住人にとって感染への恐れをもたらす不安要素に過ぎなかった。住居を共にする「同胞」ではなく、むしろ「敵」だった。

 新型コロナウイルスの猛威を考えれば、この「敵対視」は致し方ないと考えるべきでしょう。感染拡大を阻止するという目的を達成するためには、しかるべき態度だといってもいい。だからかの住人の行動を誰も責めることはできません。でもこの「敵対視」が、これまで私たちが大切に育んできた他者に接する際の価値観をじわじわ侵食しつつあることは、無視してはいけないと思います。

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空気のおそろしさ

 感染拡大が落ち着いたとの判断から5月25日に緊急事態宣言が解除され、次いで6月19日には都道府県をまたぐ移動の自粛も解除されました。とはいえ新型ウイルスはこの世から消え去ったわけではなく、まだまだ予断は許さない情況です。国や各都道府県も、引き続き感染拡大の防止に努めることを国民に求めています。

 にもかかわらず、私はまるで肩の荷が下りたかのように軽やかな気持ちになりました。限定的ではあっても公的に外出が認められたという事実に、ホッとした。

 緊急事態宣言および移動の自粛が解除されたあと、世間を覆っている空気は明らかに変わりました。私が住んでいる阪神間では電車の乗客が増えたし、飲食店や百貨店などさまざまなお店が営業を再開して街には活気が戻りつつありました。シャッターが閉まったお店が減ったことで、行き交う人の表情もどことなく明るい。社会経済活動が再び動き始めたことに、多くの人がよろこびを感じているように見えました。

 世間に流れる雰囲気が和らいだ。それについ、つられたんだんと思います。空気というものは、いつの時代も人々のこころに影響を及ぼすものなのですね。それをあらためて感じたと同時に、空気はとても怖いものだと戦慄を覚えました。空気を根拠に、これだけこころの内が変化するとは思ってもみなかったからです。

 かの日のエレベーターで私が感じた疎外感は、まぎれもなく空気が作り出したものでした。新型コロナウイルスは飛沫を介して感染をするといわれています。だから同じエレベーター内で居合わせるだけで感染することは、まずないと考えていい。にもかかわらず同乗した住人が私を警戒したのは、「三密を避けなければならない」という予防のための一つの指針を、頑なに守ろうとしたからです。メディアを通じて拡散された「三密回避」「マスク必着」「手指の消毒」といった指針が、ウイルスを媒介する人との接触を避けなければならないという空気を生じさせ、それが過剰な行動を強いた。その行動に、思わず私もつられた。

 空気は、個々人が判断した適切な行動よりも、おぼろげでありながらも大多数の総意に添った行動を是とする。たとえそれが科学的な根拠もなく間違っていたとしても、です。

 ここに空気の恐ろしさがある。

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ウイルス禍がもたらす空気

 あるとき空気を読めない人を揶揄した「KY」という言葉が流行しました。山本七平はその著書『「空気」の研究』で、ここ日本において大衆が言動を決めるときの根拠に空気があると述べています。空気とは「まことに大きな絶対権をもった妖怪」で、現実を編成するという点では「超能力」ともいえる。また「宗教的絶対性」をもっていて、「個人では抵抗できない“何か”」であるといいます。そしてこの空気は、感情移入をもとにそれを絶対化することで醸成されるのだとも。

 「ウイルス感染拡大の防止および阻止」は、ことが命に関わるだけに誰もが抵抗なくそれを受け入れることができます。たとえばこれが「毎日磨けば幸福になる壺」だとすれば、そうはいきません。壺の効用を説く人(あるいはその団体)の言い分を信じることができなければ、誰も購入しません。そして壺の効用を信じて毎日磨く人たちが増え、その人たちが集まって互いの感情を移入し合ううちに、だんだんと壺の存在は絶対化していきます。壺を信じる集団の内部ではその効用を否定する発言はご法度となり、壺なくしては幸せになれないという、集団の外部からでは到底信じられない独特の空気が醸成されていきます。

 でもこの度のウイルス禍はそうではありません。

 生き死にがともなう問題だけに容易に反論を許しません。自分や他者が不健康になっても、たとえ死んだとしても気に留めないという人を除く、すべての人が共感する。

 たまたま居合わせただけの赤の他人であってもマスクを装着していなければ罵倒する「マスク警察」や、なんの権限もないのに許可された時間を超えて営業する飲食店を告発する「自警団」がいると聞きます。確かにその行為自体は咎められるべきものです。でも、そうする気持ちはわからないでもない。行動には顔をしかめるものの、その気持ち(感情)はわかる。

 そう考える人は実は多いのではないでしょうか。

 彼らだって好き好んでそうした行為に及んでいるのではない。生命を脅かされる不安が抑えられず、「ウイルス感染拡大の防止および阻止」という空気が背中を押して、ことに及んでいる。その気持ちだけはわかる。つまりここに空気が醸成され始めるきっかけとしての「感情移入」があるのです。

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こころの交流は、ときに命よりも重い

 空気に抗うためには「相対化」するしかないと山本氏はいいます。新型コロナウイルスの蔓延がもたらすリスクは、生物学的な健康や生命を脅かすことだけにとどまりません。経済活動の停滞も大きなリスクであることは論を俟たない。でもなによりも見過ごせないのは、人と人との分断を深めるリスクです。

 ウイルス感染を恐れ、ソーシャルディスタンシングを心がけることを無自覚に反復すれば、人に触れることを無意識的に忌避する習慣が身についてしまいかねないのではないでしょうか。

 たとえば電車を待っているホームでいきなり人が倒れたとします。そこで求められるのはすぐに駆け寄ることです。相手に触れ、呼吸や心音を確認して救急車を呼び、AEDで延命処置を行う。場合によっては衣服を脱がせたり、体毛を剃る必要もある。一刻を争うこうした緊急事態では一瞬の迷いが命取りになります。そんなときソーシャルディスタンシングを習慣化させた人は果たして咄嗟に動けるでしょうか。

 ここまで極端ではなくとも、飲食店でのやりとりや学校の教室で対面する教師と生徒など、生身の人間が相対する場面は生活の至るところにあります。人と人がこころを通わすこうした場面で、つい二の足を踏んでしまう。こうした習慣を、今、私たちは無意識的に身につけつつあるとはいえないでしょうか。

 必要以上に他者を遠ざける人々が大半を占める社会があるとすれば、それはもうディストピアでしかありません。他者と共存するために呼吸を潜め、自らの存在を矮小化する態度が求められる。そんな社会がユートピアなはずがない。

 このウイルス禍で醸成された空気に水を差すには、新型ウイルスへの感染防止がもたらすもう一つのリスク、つまり他者との友好的な交流をどうすれば維持できるかについて考えることです。人と人とのつながり、こころの交流は、ときに命よりも重いと私は思います。

執筆者プロフィール

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和女子大学教授。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。著書に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)。監修に『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)がある。

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