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短期連載:教育は能力主義の呪縛から抜け出せるのか?【第2回】教育における能力主義をどうほぐすのか(組織開発コンサルタント:勅使川原真衣×東京学芸大学教職大学院准教授:渡辺貴裕)

第1回 能力主義の問題点は学校教育にも通じることなのかでは、企業での組織開発に取り組んできた勅使川原真衣さんの訴えに共感を示す一方で、教育方法学者の渡辺貴裕さんは学校教育の場合の「能力主義」解体の難しさを指摘しました。しかし、産業界と教育界、それぞれにおいてのアプローチができそうな予感もしています。教育における能力主義をほぐすためには、まずどこから手をつければいいのでしょうか。

先生の働き方を変えることで子どもたちにも反映されていく 

——第1回では、勅使川原さんが産業界からアクションを起こせるとすれば、渡辺さんは教育の分野から何か働きかけていけるのではないかというお話がありました、具体的に、教育の分野ではどのようなことが考えられますか。
 
渡辺 学校は、子どもたちへの教育をする場だというだけでなく、先生たちの職場でもありますから、能力主義の問題は二重に生じています。子どもが能力主義のただ中にいるだけでなく、先生自身も能力主義にさらされ、傷つく環境に置かれている。
 
ただ逆に、この二重性を生かすことも大事だと考えています。つまり、先生自身の職場での働き方やコミュニケーションのとり方を変えていくことが、子どもへの教育にも反映されていく。そしてそれは、おそらく何十年後かの社会をつくっていくことにもつながるんじゃないか。そこにある種の可能性を感じています。
 
勅使川原 おっしゃる通りだと思います。先生がまず傷つきを認めて関係をつなぎ直していかないことには、クラスルームにフラットな気持ちで戻れない。私も、社会構造を鑑みると、大きなうねりは教育界より産業界からなのかなと思っている一方で、サンドイッチ的に挟み込む形で活動しようとしています。職員室からの変革と職場の脱・能力主義の両輪をまわすイメージです。

渡辺 私はいろいろな学校の校内研修に入っているのですが、校内研修で教師にとって大きな位置を占めるものとして、研究授業の後の授業検討会があります。研究授業から学び合う、ケースカンファレンスのようなものですが、そこでの話し合いはしばしば、評価と助言のぶつけ合いで、それこそ傷つけ合戦になるんです。
 
そこで、「こうあるべきという持論をぶつけ合う」のではなく、「授業を見ていて自分の心が動いた場面を語り合う」取り組みを行ってきました。子どもの学びの姿から自分の心が動いた場面をキャッチして、どんな風に心が動いたかとともに語り合う。
 
子どもの学びの姿を具体的に出し合うこと自体は今までも強調されてきたんですけどね。それだけでなく、「えっ?」「おっ」「なるほど!」「そうきたか!」などと自分の心が動いた場面をその心の動きとともに出し合う。「○○さんがあそこでああしたのが私には意外で…」とか、「○○さんがこう声をかけていたのが印象に残っていて…」とか。こんなふうに自分の心の動きをオープンにすると、他の人たちも「ああっ!」と心が動くんですよね。それを私は「共感の瞬間」と呼んでいます。それがあると、その後、話がかみあって、実のあるやりとりになっていきます。
 
裏を返せば、そのようにそこで起こっていたことを自分がどう受け止めたかを率直に出し合うことすら、今の先生たちはできない状況に置かれているんです。
 
勅使川原 いやあ、面白いですね。今のお話、まさに会社の会議と何ら変わりません。会社の会議もやはり規範に縛られていて、べき論と良し悪しで即時的に評価して判断を下すことが、優秀さや有能さの勲章のようになっている面が否めません。また、それを多用する人が多いのですが、私はイエローカードを出したい。
 
さらに一枚上手の人もいて、実際には非常にジャッジメンタルに見ているのにそれを巧みに隠して、「いいですね」と口で言いながら、その後に排他的なアクションを起こしてくる方もいます。自戒を込めてですが、ほめるように「すごい」を多用する人も注意が必要です。「すごいすごくないは私たちが決めることではない、というのがミソなので、今日は『すごい』は言わないようにしましょう」と場を設定することもあります。産業界は、心理的安全性や傾聴を単純化して商業的にループさせすぎたところがあるのかなと思います。
 
渡辺 学校の授業検討会でも同じことが起こります。評価や助言のぶつけ合いはやめましょうと伝えても、「『○○がよかった』みたいなポジティブなことも言っちゃダメなんですか」と質問が来る。ポジティブでも評価は評価なんですけどね。

評価的な傷つけ合戦ではなく感じたところで反応を

渡辺 子どもへの教育の文脈でも、同じことが起こっています。例えば、国語の授業で子どもがスピーチをするとき、聞き手が評価シートを持っていて、声の大きさやら話の組み立て方やらいくつかの観点でABCなどの評価をして、話し手に伝える。こんなふうに評価を返すのは、一見理にかなっているように見えます。
 
しかし本来は、客観的な評価よりも、スピーチに一人の聞き手として反応することが大事だと思うのです。面白かったらハッハッハッと笑う、わからない部分があれば質問する、途中で退屈になってきたら、ちょっと退屈だったと言う——。

そういうリアルな反応を返せるような場にしてほしいと先生方には伝えています。
 
勅使川原 本当に、そう思います。客観性という名のお化けがどこにもいるんですね。自分が思っただけではダメで、客観的な視点、エビデンスが必要だとされていますが、渡辺さんのおっしゃる通り、企業でも学校でも、先生も子どもたちも、素直に反応すればいいんですよね。良し悪しはつけずに、生身の反応を返して、それがもし失礼だったら「ごめんね」でいい。
 
渡辺 ただ、素直に反応する、自分が感じたことを返していくという身のこなしは、上の立場にいる人の方がやりやすいんですよね。上の立場にいる人がそれをやる分には、周りも文句をつけられない。もちろん、それが一つの突破口になる可能性はあります。ただ一方で、下の立場の人からすると、「強い立場にいるから、遠慮せずに率直な気持ちを出せるんでしょ」と思ってしまうこともあるのかなあと思います。
 
勅使川原さんの手応えとしては、そうやって上の人たちから自分の感情や傷つきを表現していくことで、下の人たちも変わっていくんですか。「上の人だからできるんでしょう」で終わってしまうことはないんですか。
 
勅使川原 どちらもありますが、それと並行させて下の人がミスをしたときに、ジャッジメンタルな反応を返さないことをやっていくことが必要です。上司が頑張るとしたら、そこじゃないかと。
 
渡辺 ああ、そうか。単に上司がオープンなだけなら、それこそオープンさの押し付けになりかねませんよね。部下がなんらかの逸脱を起こした時に上司がそれを受け止めると、部下も、上司が言ってることは本当なんだと思えるようになるんでしょうね。先生と子どもたちの関係でも同じことが言えるかもしれません。
 
勅使川原 それを同時進行させるのが大事なのと、今一つ思ったのは、最近、オープンに話せることが特権化しつつあるのは問題だと思っています。言語優位な人がうまいことやりやすいじゃないですか。即時的な反応やレシーブができる人が評価されやすいけど、ゆっくり反応する方もいますから。
 
だから私は、書き言葉のほうが表現しやすい人は1on1を無理にやる必要はなく、交換日記でもいいんですよと伝えています。今日1日の学びを部下に書いてもらって、2営業日以内に返すのでもいいですよと言うと、やってくださる方もいます。
 
渡辺 なるほど、書き言葉の活用。私も、授業検討会などで、子どもが行った活動を教師も体験してみるといった、先生方が「一緒に体験する」機会を組み込むというのを試みてきたのですが、それも、「話し合い」に偏重するのを防ぐ一つの工夫と言えるのかもしれませんね。
 
第3回へ続く
 
(記事作成:太田美由紀)

プロフィール

勅使川原 真衣(てしがわら・まい)
1982年、横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。組織開発コンサルタントとして企業や病院、学校などの組織開発を支援する。2020年から乳がん闘病中。2022年に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)を刊行。朝日新聞デジタル言論サイトRe:Ron、教育開発研究所『教職研修』、PHP研究所『Voice』にて連載中。近著に『働くということ—「能力主義」を超えて』(集英社新書)『職場で傷つく』(大和書房)がある。Xは@maigawarateshi。


渡辺貴裕(わたなべ・たかひろ)
1977年、兵庫県生まれ。教育方法学者。東京学芸大学教職大学院准教授。「学びの空間研究会」主宰。研究テーマは、演劇的手法を用いた学習、実践の省察のための対話など。演劇教育・ドラマ教育関連の業績に関して、日本演劇教育連盟より演劇教育賞、全国大学国語教育学会より優秀論文賞、日本教育方法学会より研究奨励賞を受賞。授業や模擬授業の「対話型検討会」の取り組みなど教師教育分野でも活躍。著書『なってみる学び』(藤原由香里と共著、時事通信出版局)、『授業づくりの考え方』(くろしお出版)ほか。「渡辺 貴裕|教育方法学者 note」https://note.com/takahiro_w/ 

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