客観性と中立性を疑う(信州大学教育学部講師:楠見友輔) #倫理に基づく研究の可能性を探る 第2回
1.倫理に基づく研究と研究倫理
「倫理」という言葉を聞くと、多くの方は「研究倫理」を思い浮かべるかもしれません。研究倫理を守ることは研究者としての基本的な責務です。しかし、「倫理に基づく研究」は、単に研究倫理の基準を満たすだけでなく、差別や不平等に対する感受性を高く持ち、研究テーマ、過程、結果が社会にどのような影響をもたらすかを考慮する研究を指します。つまり、それは研究者が「痛みを感じる範囲」を広げ、「社会正義」の実現を目指す研究です。
ここでいう「社会正義」とは、特に社会の中で構造的に不利益を被りやすい立場にある集団—たとえば、性的・ジェンダー的マイノリティ、民族的・言語的マイノリティ、障害や病気のある人々、植民地化の歴史を持つ人々、子ども、高齢者、経済的弱者、移民や難民、宗教的マイノリティ、……さらにはこれらが交差するアイデンティティを持つ人々—が公正に扱われることを指しています。倫理に基づく研究とは、こうした人々がさらなる抑圧を受けないような配慮を備えた研究です。
「研究倫理」と「倫理に基づく研究」は異なるアイディアではありますが、対立するものではありません。研究倫理は、研究者が守るべきルールや基準を指します。たとえば、研究内容やリスクを事前に説明し、協力者が自らの意思で参加を決定する「インフォームド・コンセント」を得ることや、協力者のプライバシーの保護が含まれます。このような研究倫理を守ることは、医学や自然科学領域だけでなく、人を対象とする社会科学や人文科学系の研究においても必須です。現在では、各研究機関に設置されている施設内審査委員会(IRB)または研究倫理委員会(REC)が研究計画の審査を通じて研究倫理の水準を管理しています。
研究倫理を守るという研究者の誠実さ(integrity)をどのように考えるかについては、「原則に基づくアプローチ(principle-based approach)」と「美徳に基づくアプローチ(virtue-based approach)」があります(Resnik, 2012)。前者は倫理的な行動を促すルールに基づきますが、後者は研究者が内的な誠実さや正直さ、公正さといった美徳を持つことによって倫理的な研究ができると考えるアプローチです。
美徳に基づくアプローチを提唱したブルース・マクファーレン(Macfarlane, 2009)は、こうした内面的な美徳を通じて研究者が社会に対する責任を果たすべきと主張しています。美徳に基づくアプローチの考えは、研究者の倫理意識を考慮する点で、倫理に基づく研究と類似しています。しかし、美徳に基づくアプローチが想定する倫理は、IRBやRECが管理する倫理綱領の範囲に留まっています。これに対して、倫理に基づく研究は、倫理意識の範囲をそこから大きく拡張していく点において違いがあります。
2.アンラーニングの重要性
「倫理に基づく研究」というアイディアは、インド出身の批評家ガヤトリ・スピヴァク(2019)の「サバルタンは語ることができるか?」という問いからの影響を受けています。スピヴァクが注目する「サバルタン」とは、社会の中で声を上げることが難しい、もしくはその声が届きにくい立場の人々を指す概念です。これは、サバルタンに発言力がないという意味ではなく、たとえ発言してもその声が支配的な価値観や言葉に絡めとられたり、歪められたりする構造的に抑圧された状況を意味します。
たとえば、スピヴァクはインドの歴史を例に挙げています。イギリスの植民地支配者やインドの支配階級の視点で語られた歴史には、抑圧されてきた人々の視点がほとんど反映されてきませんでした。そして、仮にサバルタンの歴史や経験を記録しようとしても、その過程で使われる言葉や枠組みは支配的な価値観に基づくため、サバルタン自身の視点は搾取されることになってしまいます。そこで、スピヴァク(2019)は「サバルタンの歴史記述はそういった所作がそもそも不可能とされているのだという事実に取り組まなくてはならない(p.50)」と述べています。
では、私たちは差別や不平等の再生産にどのように抗うことができるでしょうか。スピヴァク(2019)は「アンラーニング(unlearning)」という方法を提示します。アンラーニングとは、これまで当然のように受け入れていた知識や価値観を手放し、それらの知識や価値観を生み出してきた社会構造を批判的に見直すことを意味します。アンラーニングは、こうした研究者が埋め込まれた構造自体を疑い、その構造の中で培われた視点を捨て去ることを促します。
たとえば、学校教育では、障害を持つ人々のニーズが障害のない人の視点から解釈されることが多く見られます。標準的とされる子どもを中心に作られた授業の内容が分からなかったり、教室にいることが辛くなったりした子どもは「ニーズがある子ども」と見なされます。そうして、そのような子どもの困り感を解消するための特別な支援が提供されます。しかし、毎年のように「困っている」子どもが出てくる教育そのものについての見直しがなされることは殆どありません。「一般的な教育に合わなくなった子どもに異なる教育を提供する」という、障害のない人を中心に作られた仕組みがずっと続いているのです。アンラーニングとは、そのように「困っている」子どもを生み出す教育が再生産される仕組みそのものを問い直すことです。
3.完全な客観はなく、中立は偏っている
「倫理に基づく研究」を進める上で、科学やエビデンスに基づく研究における「客観」や「中立」という概念を疑うことが重要です。科学やエビデンスは、「客観」や「中立」という言葉を巧みに使って、支配的な視点や価値観を反映し、構造的抑圧を再生産するリスクを秘めているためです。
「客観」や「中立」という言葉は、表と裏の機能が組み合わされることで研究の信頼性を高める機能を果たしています。表の機能としては、「客観」や「中立」は、研究者の偏見やバイアスを含まず、誰にも贔屓をしていない立場を表明します。同時に、裏の機能として、これらの用語は、研究者が依拠している立場を覆い隠しています。しかし、誰の視点も反映していなかったり、全く偏っていなかったりするという「神のポジション」は存在しません。科学的な「客観」や「中立」という立場は、実際には社会的・歴史的な文脈に依存しており、そこに存在する権力構造の影響を受けているのです。
例えば、「授業中に子ども同士が話している」という出来事を考えましょう。「学習とは、よく聞くことだ」という考えがある教室や学校では、授業中の会話は否定的に評価されます。他方で、「学習とは、協働することだ」という考えがある教室や学校では、授業中の会話は肯定的に評価されます。このように見たときに、日本の学校は前者に偏っているでしょう。そして、前者への偏りは、子どもを集団的な規範に合わせようとする社会文化的な権力構造を反映しています。それなのに、「学習とはよく聞くことだ」という考えの方を「中立」や「客観」と呼ぶことによって、権力構造が覆い隠されてしまうのです。
以上のように、「中立」や「客観」という用語は、支配的な立場や権力構造のイデオロギーを潜ませ、それを正当化する手段となる場合があります。「倫理に基づく研究」は、このような「客観」や「中立」という言葉に疑問を投げかける視点を持ちます。そこでは、客観という立場が、どのような価値を代弁しているのかを問い直さなければなりません。特定の文脈における中立が、どのように偏っているのかを見定めなければなりません。
4.権力構造に対する批判的視点
「倫理に基づく研究」を実践するためには、研究者が既存の権力構造に対して批判的な視点を持つことが不可欠です。ここで参考になるのが、フェミニスト理論家サンドラ・ハーディング(2009)の「上に向けた研究(study up)」という考え方です。ハーディングは、従来の研究が抑圧される人々に焦点を当ててきた一方で、権力構造を対象とする研究が十分に行われていないことを指摘しました。
ハーディング(2009)は、「科学者は自分たちの研究によって社会に良いものを生み出そうとしているが、それは単に、すでに権力を持っている人々が、その社会的立場をさらに優位なものにするために必要な資源を提供するだけ(p.4)」だと述べ、「科学に基づく研究」に批判を投げかけています。科学的根拠やエビデンスは、客観的事実や中立的な立場に基づいて知識を蓄積することを目的としていますが、そこに使われる科学的枠組み自体が既存の社会構造や価値観を反映している場合があるのです。
「倫理に基づく研究」は、このような構造に対する疑いを出発点としますが、構造批判を行う研究だけを指すわけではありません。差別や不平等がある構造を批判的に意識した上で行う、構造的不利益を被っている人々の経験についての研究も含めて良いと思います。しかし、そのために、研究者は自身の依拠する立場を批判的に自覚することが不可欠となります。
「科学」や「エビデンス」が強いイデオロギーを持ちながらそれを隠す機能を持つのに対し、「倫理」は広い感受性を持ちながら自分の依拠する立場を明確に示すことができる用語であると、私は考えます。そのためには、「倫理」という用語を慎重に定義しながら、倫理という用語を通して反応することができる痛みの範囲を拡張することが求められるでしょう。
参考文献
ハーディング, S. (2009). 科学と社会的不平等―フェミニズム、ポストコロニアリズムからの科学批判―(森永康子 訳) 北大路書房
Macfarlane, B. (2010). Values and virtues in qualitative research. In M. Savin-Baden & C. H. Major (Eds.), New approaches to qualitative research: Wisdom and uncertainty (pp. 19-27). Abingdon, Oxon: Routledge.
Resnik, D. B. (2012). Ethical Virtues in Scientific Research. Accountability in Research, 19, 329-343.
スピヴァク, G. C. (2019). サバルタンは語ることができるか(上村忠男 訳) みすず書房
執筆者プロフィール
著書
楠見 友輔 (2024). アンラーニング質的研究―表象の危機と生成変化― 新曜社
楠見 友輔 (2022). 子どもの学習を問い直す―社会文化的アプローチによる知的障害特別支援学校の授業研究― 東京大学出版会
楠見 友輔 (2022~). 【連載】新しい時代の教育を創造する― 『教育と医学』 慶應義塾大学出版会