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二つのお守り~父親と、椎名誠さんの言葉を胸に(本の雑誌社:杉江由次) #働く人のメンタルヘルス

 専門学校を卒業しても就職せず、しばらくパチンコをして過ごしていた。疲れていそうなわりにはひょうひょうとパチンコ台の間を走るおじさん達と朝10時に列に並ぶ3か月を過ごした頃、このままじゃまずいと思い、新聞に出ていた求人広告を見て応募した専門出版社に幸運にも採用された。

 採用が決まった夜、仕事を終えて帰ってきた父親に報告すると、父親は肩の荷が降りたように息をつき、「良かったな」と言った。

 そしてその後、不思議な言葉を続けた。

「やばいと思ったら、逃げろ」

 私が採用された出版社は、社員数は40人に満たないものの、ドイツに本社があるちゃんとした会社だった。当時はブラック企業なんて言葉もなかったけれど、給料も待遇も世間並みで、特に心配することもなかった。それなのに父親は「やばいと思ったら、逃げろ」と言うのだった。

 父親は高卒で働きだし、40歳を過ぎて町工場を興した、いわば叩き上げのひとだった。てっきり息子の就職のアドバイスも、「石の上にも三年」とか「継続は力なり」とか「辛抱する木に金がなる」とか言い出すのかと身構えていたのだが、「やばいと思ったら、逃げろ」とはどういうことだろうか。

 思わず首を傾げると、父親はこっそり秘密を打ち明けるかのように、「父さんは3回逃げたことがある」とさらに続けた。父親が実際に逃げたことがある? それも3回も? と驚いたけれど、何から逃げたのかは教えてくれなかった。

 その晩、私の胸には、「やばいと思ったら、逃げろ」という言葉が深く刻まれた。父親の、あまりに情けない座右の銘として。

 配属された部署は、希望した編集ではなく、営業だった。人見知りで、気の小さい私にはこれほど向いていない仕事はないと思われた。先輩から渡された営業先のリストを手に販売店を訪問しては、膝を震わせながらつっかえつっかえ話をした。いや話が続かず黙ってしまうことの方が多かった。うまく伝わらず、会話の受けごたえやメールの文章に失礼があったのではないかと思うとさらに話せなくなった。

 神経の使いすぎなのかもしれないけれど、どうしても相手の顔色を伺ってしまう。表情やちょっとしたしぐさがとても気になる。空気も読み過ぎなほど読んでしまう。

 営業を終えて得意先を後にすると、大きなため息と後悔が襲ってくる。駅のホームにある吸い殻入れの前で、タバコに火をつけ、もしかしたら会話の方向性を間違えたのではないかと反省した。煙を吐き出しながら、自分はトンチンカンな受けごたえをしてしまったのではないかと頭の中をぐるぐると駆け巡り、きっと嫌われてしまったはずだと思いこんだ。来月また訪問しなければならないことを考えると暗澹たる気持ちになった。

 タバコを一本吸い終える頃、いつも決まってひとつの言葉が頭に浮かんだ。

「まあ、いいや、どうだって……」

 これは当時、私が熱烈に愛読していた作家・椎名誠の自伝的小説『新橋烏森口青春篇』の主人公の口癖だった。私と同様に専門出版社に勤める主人公が、仕事や恋愛でうまくいかないことがあると、最後にこの言葉を吐いて、後ろ向きながらも前を向くのだった。

 この投げやりとも思える言葉が、お守りのように私の胸の中にぶら下がっていた。営業先から帰る電車の中で、窓の外の景色を眺めながら、何度も「もういいや、どうだって」とつぶやいた。そんな投げやりでは一流の人間になれないだろうけれど、私は一流になることよりもその日をどうにか生き延びることを選んでいた。

 3年半の月日が経ち、私はまた新聞の求人広告を見て応募し、幸運にも採用され転職することになった。転職先は、「もういいや、どうだって……」とつぶやいていた椎名誠さんが立ち上げた会社、本の雑誌社だった。

 その会社の社是はこうだ。

「無理をしない」

「頭を下げない」

「威張らない」

 あまりに会社らしくなかったが、居心地はよかった。

 そうして、あるとき椎名さんのサイン会のお手伝いをしていたところ、サインをもらいにきたファンの人が何やら真剣な表情で、椎名さんに悩みごとを話し出した。椎名さんは優しい笑みを浮かべながら話を聞き終えるとこう言ったのだった。

「ぼくはね、自分でどうすることもできないことは考えないようにしているんだ」

 椎名さんの脇に立ち、サインした本に半紙を挟んでいた私は、その言葉に衝撃を受けた。

 言われてみればその通りなのだ。

 私が営業先でこぼした言葉、あるいは見せた態度、それを今まで勝手に後悔して不安になっていたけれど、相手がどう思ったかは私にどうすることもできないのだった。

 実際、私が心配するほど怒られることもなかったし、次にお会いしたときに嫌な顔をされることもなかった。

 ほとんどの心配は、私の勝手な思い込みで終わっていた。相手がどう思うかは、「自分がどうすることもできない」ことであり、それは「考えても仕方ない」ことだった。

 椎名さんに悩みを打ち明けた人は表情晴れやかにサイン本を受け取って帰っていった。その日、私には二つ目のお守りが胸の中にぶら下がった。

「やばいと思ったら、逃げろ」と言った父親は去年の春、亡くなった。言われてから30年の月日が経ったのだけれど、今のところ私はまだ、逃げるほどやばいことには襲われていなかった。

 いや、もしかすると…。

 最後は逃げられると思っているから逃げずに済んでいるのかもしれなかった。

「やばいと思ったら、逃げろ」は父親の座右の銘ではなく、父親が私に授けてくれたお守りだったのかもしれない。

【著者プロフィール】

杉江由次(すぎえ・よしつぐ)
浦和レッズと本と本屋を愛する本の雑誌社たったひとりの営業部員。著書に「『本の雑誌』炎の営業日誌」(無明舎出版)、『サッカーデイズ』(小学館文庫)がある。