
短期連載:教育は能力主義の呪縛から抜け出せるのか?【第1回】能力主義の問題点は学校教育にも通じることなのか(組織開発コンサルタント:勅使川原真衣×東京学芸大学教職大学院准教授:渡辺貴裕)
個人の特性を生かした組織開発に取り組む中で、「能力主義」に対する疑問を呈してきた勅使川原真衣さん。その近著である『働くということ「能力主義」を超えて』を手にした教育方法学者の渡辺貴裕さんは、その訴えに大きな共感を示しながらも、学校教育での「能力主義」解体の難しさを指摘しています。「子どもたちの将来のために」という善意によって、「能力主義」がより強固に作用してしまう学校の現場で、「能力主義」をほぐすにはどうすればいいのでしょうか。
「能力主義」の問題点は3つある
――渡辺貴裕さんは、勅使川原真衣さんのご著書『働くということ「能力主義」を超えて』の発売日(2024年6月17日)の翌日に、ご自身のnoteで「能力」がないとやっていけない世の中でいいの!? 〜勅使川原真衣『働くということ』と題して感想を公開されました。その記事がきっかけとなりお二人の対談が実現したのですが、対面でお会いするのは今日が初めてですか。
渡辺 初めてです。ご著書やインターネット上の記事などで切れ味の鋭いイメージをもっていたので、温和な雰囲気でお話しされることに驚きました。
勅使川原 「グイグイきそう」なイメージをお持ちだったかもしれませんね(笑)。でも実は私、コミュ障ですし、しゃべるのがゆっくりなんで、今日はお手柔らかにお願いします(笑)。改めてnoteでは、発売翌日にご紹介くださって、本当にありがとうございました。「議論したい点はここ」っていう書き方もしてくださっていましたよね? ぜひ早速いきましょうか。
渡辺 まず、私が抱いた疑問をぶつけてみたいのですが、三冊のご著書(『「能力」の生きづらさをほぐす』『働くということ「能力主義」を超えて』『職場で傷つく』)は、能力主義の批判という点で一貫しています。批判のポイントは二つあって、一つは、個体能力観であること、もう一つは、能力を抽象化して捉えていること。これらについては、学校教育の文脈でもおおいに同意します。学校でも、能力を個人の所有物のように捉えるのはもちろん、「読解力」「コミュニケーション力」といった言い方に現れているように、能力の抽象化も多く見られるので。
少し気になったのが、二つ目のポイントのように、能力の抽象化を批判するというレトリックをとった場合、「では、抽象的でなければよいのか」と受け取られはしないか、ということです。仕事でいえば、売上げや収穫高など、具体的で客観的に示される成果を指標にする。そして成果をたくさん上げた個人やグループにはたくさん報いる、というやり方ならOKなのか、という疑問を持ちました。
勅使川原 『職場で傷つく』(大和書房)の146ページに、「能力主義はなぜ人を傷つけるのか?」として、能力主義の問題点を3点にまとめています。能力主義の抽象性は、私の中では、ここでいう「1 断定」に含まれると考えています。能力を「抽象的」に捉えることよりも、能力というものが状態ではなく「固定的」に内在していると捉えられていることが問題です。

現在は統計学の発展により性格や心まで測定できるようになっていますが、どんなに客観的な指標でも、その指標によって個人の「人となり」を「能力」として固定化してしまうのは問題です。例えば、「今はこのような状態ですね」という意味で抽象的に使われることや、環境調整や組み合わせを考えるための素材として使う分には問題ないと思っています。
というのも、その人らしさ、って場面場面で変わるものなのに、あたかも個人に内在した「能力」として断定し、さらには個体同士を比較し、垂直方向に序列や優劣をつけるというところが問題だと指摘しています。逆に言えば、水平多元的にいろいろな状態の人が多様に並んでいるという分には、能力の抽象化は何ら問題がないと考えます。
学校で「この子はこういう子」と決めつけていないか
渡辺 なるほど、固定的、断定的に捉えることが問題なのですね。ただ、会社や組織の中での能力主義に関してはそれで論じられるのかもしれませんが、学校教育の中の能力主義については、能力を固定的に捉えているとは限らないと思うんです。それこそ、発達可能性という言い方で、「今後も伸びていくので、次はこれを目指しましょう」などという場合、固定的に捉えているとは言えません。しかし、勅使川原さんの立場からすると、それも批判対象になるのではないかと想像しています。
勅使川原 どうでしょうね。先にも述べたとおり、人となりなんてものは、周囲の人や環境との関係性を合わせ鏡で見ているような、そんな状態の話だと思っています。だから例えば、発達障害も、場次第で立ち現れ方は可変的なものだと、わが子を見ていても思います。
それなのに、環境のことは棚上げして、「発達障害だ」と一個人を診断するのは、まるで個人の中に「問題」のタネが埋まっているという前提があるかのようです。ある子がやりにくそうなこと、うまくできないことがあるときに、矯正しにかかる。その単に状態の話を、当たり前のように個人化して問題視する。その鉄壁の「個人モデル」的な前提には疑問を持っています。
学校教育でも、発達は時間軸的に変化するものだと言っておきながら、起点を診断、「ふつう」かそうじゃないかという区別に置いているのは矛盾ではないでしょうか? 「あなたはこういうところが『ふつう』じゃないよね?」から「支援」を行うというのは、発達可能性ということばで、事物の流動性や可変性を体現したことにはならないのではないでしょうか。
渡辺 確かにそうですね。「伸びていく可能性がある」という言い方はしていても、それは、それぞれのトラック(走路)で見ているという意味では限定的なものかもしれません。そういう意味で、固定的だということですね。
勅使川原 はい。一元的に正しい子ども像にみんなを寄せ集めていく。そのトラック(走路)を「脱線したらダメ」となっている。
渡辺 勅使川原さんは、「固定的」に対して「揺れ動く」という表現を使われますが、学校教育でいうところの「伸びていく可能性がある」と勅使川原さんの使う「揺れ動く」は違うということですね。
「固定的」を批判するだけだと、教育の現場からは、「私たちは固定的なものとして捉えていません。伸びていく、変化していく可能性があるものとして捉えています」と言われてしまい、勅使川原さんの問題提起が届かなくなるんじゃないかということが少し気になっていたんです。
勅使川原 なるほど、これまであまりそのように指摘されたことはありませんでした。私は、学校は「通常級」「支援級」と分けることからして、「能力の固定化をする」ところというのが一般的なイメージだと思っていたので、大変ありがたいご指摘です。私自身が、学校で「お前はリーダーシップがありすぎてダメだ」と決めつけられた経験から『「能力」の生きづらさをほぐす』を書いたこともあり、学校の先生は「この子はこういう子」と決めつけてくるイメージを私が根に持ち続けているのかもしれません。
渡辺 勅使川原さんが批判されているのは、多分、「決めつける」ということなのでしょうね。
勅使川原 良い子、悪い子、できる子、できない子など、「二元論的に分けて、分かった気になっているんじゃないか」ということを書きたかったのかもしれませんね。なるほど、こうやって誤読を招きかねない部分について直接ご指摘いただけるとは。なんと贅沢な機会でしょう。

「できるようにしないと困るのはこの子」の背景
渡辺 私は「吃音親子サマーキャンプ」(日本吃音臨床研究会・主催)というものに20年来かかわっているのですが、吃音は、完全に治るということはありません。医学的にも原因ははっきりわからないとされていて、3、4歳のときの吃音が成長とともに消えるということはあっても、学齢期以降で吃音が残っている場合は大人になっても完全に消えることはないと考えられています。
にもかかわらず、一部の医療機関や学校などでは、吃音を治そうとする、どもらないしゃべり方に近づけようとするアプローチが続けられてきました。なかには、学校に年4回ほど「専門家」がやってきて、検査をして改善のための指針を示し、それを、ことばの教室の先生が実行していく。そんな取り組みを行っている自治体もあるといいます。「子どものために」という思いが、専門家による客観的な判定と処方箋にしたがって改善に努める、という図式を呼び込んでしまっています。
勅使川原 吃音だけでなく、勉強においても、「このままではこの子が苦労する」「できるようにしないと困るのはこの子」という考えが学校に今も根強くありますよね。
渡辺 まさにその通りです。その辺りが、勅使川原さんのご著書を拝読しているときに、学校現場では特有の難しさがあるなと思ったところです。企業の場合、究極的には、会社の利益につながると認められさえすれば、ガラッとやり方を変えられそうです。個体能力観ではなく、組み合わせ方の妙にシフトすればより利益が上がると経営陣が判断したなら、転換しやすいと思うのです。
しかし学校教育の場合、学級でうまく人と人を組み合わせて良い環境を作っても、ずっとその環境が続くわけではありませんから、先生方が、「できるようにしないと将来困るのはこの子」という考え方から身動きが取れない。そこの難しさがあると思うのです。善意であるがゆえの難しさ。
勅使川原 実は、私は教育界と産業界とは不可分なのだと考えています。しかし今、教育は、社会で、産業界で役に立つ、使える人材を輩出することが裏の(と言いつつ実はメインの)命題になっていますよね。
「できるようにしないと困るのはこの子」というのも、社会に出た時を想定しているわけです。そのような言説が私たちの中にまことしやかに内蔵されています。だからこそ、そういった社会の認識を、その子たちが困らないように変えていくことが必要だと考えています。また、そのほうが早いと考えています。
渡辺 そうか、だから産業界から変えていこうとしていらっしゃる。それはとてもよくわかるし、ありがたいと思います。一方で、学校教育が産業界に従属するようなイメージになってしまうのは、私はどうしても気になります。
教育に身を置く私のような人間は、学校教育を理想主義的に眺めているところもあって、先生方には、これからどんな社会をつくっていきたいかを意識して教育活動をしてほしい。今ある社会に適応できる子どもを育てるだけじゃなく、この先こんな社会になっていったらいいなというある種の理想を抱いて、それを日々の教育活動にも反映させていってほしいなと思っています。
勅使川原さんは企業と関わっているからそこにアクションを起こせる。私の場合は、学校の先生との定期的な付き合いが多いので、お互い、そこに何か働きかけることを考えるのでしょうね。
(第2回へ続く)
(記事作成:太田美由紀)
プロフィール

勅使川原 真衣(てしがわら・まい)
1982年、横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。組織開発コンサルタントとして企業や病院、学校などの組織開発を支援する。2020年から乳がん闘病中。2022年に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)を刊行。朝日新聞デジタル言論サイトRe:Ron、教育開発研究所『教職研修』、PHP研究所『Voice』にて連載中。近著に『働くということ—「能力主義」を超えて』(集英社新書)『職場で傷つく』(大和書房)がある。Xは@maigawarateshi。

渡辺 貴裕(わたなべ・たかひろ)
1977年、兵庫県生まれ。教育方法学者。東京学芸大学教職大学院准教授。「学びの空間研究会」主宰。研究テーマは、演劇的手法を用いた学習、実践の省察のための対話など。演劇教育・ドラマ教育関連の業績に関して、日本演劇教育連盟より演劇教育賞、全国大学国語教育学会より優秀論文賞、日本教育方法学会より研究奨励賞を受賞。授業や模擬授業の「対話型検討会」の取り組みなど教師教育分野でも活躍。著書『なってみる学び』(藤原由香里と共著、時事通信出版局)、『授業づくりの考え方』(くろしお出版)ほか。「渡辺 貴裕|教育方法学者 note」https://note.com/takahiro_w/