崩落、泥濘、回り道(前編)(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第15回
何日かぶりに晴れた空の下、数十メートル先では、一台のショベルカーがエンジン音を低く轟かせながら、道路を塞ぐ無数の岩をすくったり、押しのけたりし続けていた。道路の左側には巨大な山塊に連なる崖がそそり立ち、右側は、下を流れる川まで、すとんと切れ落ちた崖になっている。
インド北部ヒマーチャル・プラデーシュ州、キナウル地方。冬のさなか、僕はレコン・ピオという街から州都シムラーまでの約二百二十キロの道程を、チャーターした車に乗って移動していた。サトレジ川の目も眩むような断崖絶壁の峡谷沿いに続くこの一本道では、二日半にわたって降り続けた雪と雨の影響で、至るところで雪崩や土砂崩れが発生し、寸断されてしまっていた。
僕自身、かれこれ三日もの間、レコン・ピオで足止めを食らっていた。ローカルバスの運行再開の見通しは立たず、このままでは、シムラーから首都デリーに戻って帰国便に乗るのにも間に合わなくなってしまう。何日かかるかわからないが、少しでも早くシムラーに辿り着くために、僕は結構な額の料金を承諾して、車を一台、チャーターしたのだった。
今朝も、出発してから三十分ほど進んだところで、発生したばかりの土砂崩れにさっそく行手を塞がれてしまっていた。すでに三時間ほど待たされていたが、幸い、ここでの土砂の撤去作業は、あともう少しで終わりそうだった。
現場の近くから、僕が乗ってきた車のところに歩いて戻ると、車外で別の誰かと話していた運転手が、僕の顔を見て、口を開いた。
「悪いけど、ここから先は、この人の車に移ってくれないか?」
「……え? 何で?」
「俺はもう、レコン・ピオに帰る」
あまりにも急な申し出に、僕は完全に面食らった。
「……いや、出発してから、まだほんのちょっとしか進んでないよ?! そりゃ、ここでだいぶ待たされてはいるけど、もうすぐ通れるようになりそうだし……」
「ここはまだましだが、その先のババ・ナガルのでかい土砂崩れは、まだ撤去が終わってないらしい。さっき、ババ・ナガルにいるやつから電話で聞いた」運転手は淡々と続けた。「今日中にシムラーに着くのは無理だろうし、あと何日かかるかもわからん。そこまであんたに付き合わされるのは、割に合わない。だから、俺はここで引き返したい。金は、ここまでの分だけでいいよ」
「そんな……こんなところで、急にキャンセルされても……」
運転手は、さっきまで話していた男性を僕に示しながら言った。
「この人は、自分の車を運転して、これからシムラーを通ってチャンディーガルまで帰るそうだ。この人の車に乗せてもらえば、あと何日かかっても、いつかはシムラーまで行ける。料金も、ここまでの分を差し引いただけでいいと言ってる。問題ないだろ?」
頼りにしていたチャーター車の運転手にいきなり見限られて、僕は、すっかり狼狽してしまった。ただ、彼の言い分も、わからなくはない。これから道路状況がどうなるか、誰にも予測できない以上、彼が紹介してくれた車に乗せてもらう方が、シムラーにより確実に辿り着けるかもしれない。
とりあえず今は、運を天に任せるしかないか……。
「……わかったよ。荷物を移すから、後ろのトランクを開けて」
僕は、車のトランクから自分のダッフルバッグとカメラザックを取り出し、すぐ横に停まっていた車に積み替えさせてもらった。白い車体の最新型のSUVで、スムーズな路面なら、かなりの速度が出せそうだ。
「失礼します……」
会釈をしながら助手席に乗り込んでみたものの、何しろあまりにも展開が急すぎたので、車の持ち主と何を話せばいいのか、まるでわからなかった。相手も同じ心境だったようで、しばらくの間、車内で沈黙が続いた。
「……日本から?」彼がようやく口を開く。
「ええ、そうです」
「……どこに行ってたの?」
「スピティに。動物の写真を撮りに行ってました」
「……撮れたの?」
「ええ、ばっちり。ツイてました」
「……でも、今の俺たちのこの状況は、ツイてるとは言えないかもね……」
そう苦笑してから、彼は、ラジュと名乗った。チャンディーガルにある旅行会社のオーナーで、この車に客を乗せ、自分で運転してスピティまで行き、一人で引き返す途中だという。それほど大柄ではないががっちりした体格に、青い中綿入りジャケット、ジーンズ、スニーカーと、都会の人らしいこざっぱりした服装。頭の回転も速そうで、整った英語を話す。
「……お! 作業が終わったようだ。進めそうだぞ……!」
周囲にいた人々がそれぞれの車に乗り込み、いっせいにエンジンをかけた。かろうじて車が通れる程度にショベルカーが岩と土砂を取り除いた区間に、一台、また一台と進入していく。こういう場所では、車体の下部をうっかり岩に打ち付けたりしないように、慎重に運転する必要がある。ラジュのハンドル捌きは、都会暮らしの人とは思えないほど巧みだった。
「さあて、先に進むかー!」
そう快哉を上げたのもつかの間、ほんの十分ほど進んだところで、僕たちは再び足止めを食らうはめになった。
サトレジ川の左岸から右岸に渡る鉄橋の入口で、一台のピックアップトラックが立ち往生している。岸から橋に向かって流れ込んだ土砂が深いぬかるみを作り出していて、そこに後輪がはまって空転し、動けなくなっているのだった。パワーのある車で、助走である程度勢いをつけていれば突っ切れそうなぬかるみだが、とりあえず、ピックアップトラックが脱出するまでは、先には進めない。
橋のたもとに集まっている人たちと少し話をしてきたラジュは、戻ってくると、助手席の僕に言った。
「……俺は、そこの食堂で、何か食ってくるよ。君は?」
「いえ、僕はいいです。さっきチョコレートを食べたので……」
「この橋を抜けたすぐ先にも、雪崩で道が塞がってる場所があるそうだ。どのみち、そこでまたしばらく待たされる。まあ、気楽にいこう」
一人残った僕は、車から外に出て、大勢の男たちが寄り集まって、ピックアップトラックを脱出させようと悪戦苦闘しているさまを眺めた。少し前に停まっている別の車とロープを結び合わせ、数人がかりでピックアップトラックを後ろから押しながら、何度も、せーの!と声を合わせて引きずり出そうとしている。誰も彼も少なからず泥まみれだが、もう少しで、何とか脱出できそうだ。
こういう時、この土地の人たちは、他人の車を手助けすることをまったく厭わない。ぬかるみにはまったり、タイヤがパンクしたり、エンジンが故障したりといったトラブルは、この辺境の地では頻繁に起こる。困った時は互いに助け合うのが当たり前という共通認識がなければ、とてもじゃないがやっていけないのだろう。
ぬかるみにはまっていたピックアップトラックが、苦労の末にようやく脱出に成功し、その後も、一台、また一台と、助走で加速しながらぬかるみを突っ切りはじめた頃、ラジュが少し離れたところにある食堂から歩いて戻ってきた。もう一人、キナウル人の若い男性も一緒にいる。
「彼も乗せていっていいか? あさって、シムラーで資格試験を受けなきゃならなくて、先を急いでるんだそうだ」
「そりゃ大変ですね……。僕はいいですよ、もちろん」
スレンダルという名のその青年は、横に緑色の折り返しのあるキナウル特有の筒形の帽子、テパングをかぶっていた。小柄でやせていて、でも俊敏そうで、面長の顔をずっとほころばせて微笑んでいる。英語はあまり得意ではなさそうだ。後部座席に乗り込んだ彼が持っていた荷物は、さほど大きくないリュック一つしかなかった。
「さあて」運転席に座ったラジュは、ふーっと息を吐いた。「俺たちも、あの橋を渡ってみるか。うまくいくといいな……俺ならできる、できる、できる……」
たっぷり二十メートルほど助走距離を取ってから、ラジュは一気にアクセルを踏み込んだ。橋の手前で少しハンドルを右に切り、左右の窓まで泥を跳ね上げながら、ぬかるみを一気に突破。
「フゥーッ!」「オッケー!」「やったな!」
そんな喜びもつかの間、今度は橋を渡って二百メートルも進まないうちに、動かない車列の最後尾に突き当たった。
「……雪崩で道が塞がってるのって、ここですか?」
「そういうことだ」
ラジュは車のエンジンを止めて、ドアを開けた。僕も外に出て、今度はどんな現場なのか、歩いて見に行くことにした。
道路の左には川があり、右には、雪がまだらに残る急斜面がある。その斜面のはるか上から、土砂を巻き込んで崩れ落ちてきた大量の雪が、三メートル以上もの高さで道路を埋め尽くしていた。その只中で、一台のブルドーザーが真っ黒な煙をマフラーからもうもうと吹き上げながら、ガタガタと前後に動き続けている。車一台が通れる幅を確保できるように、何とか雪と土砂を押し除けようとしているようだ。
「……意外と、あともう少しで、いけそうですよね?」と僕。
「そりゃあね。俺たちは今日、ここに着くまでに、さんざん待たされてるから」とラジュ。
この界隈では、道路が雪崩や土砂崩れで通れなくなるのは日常茶飯事なので、街道沿いの至るところに、道路公団のショベルカーやブルドーザーが待機している。どこかで道路が塞がれたとの情報が入れば、作業員と重機がそこに急行して、日中のうちに土砂の除去作業をする。彼ら作業員の努力によって、この土地の不安定な交通網は、どうにか維持されている。ラジュの車やスレンダルの試験、そして僕が帰国便に乗れるのかどうかも、すべて彼らにかかっている。
時刻はすでに、午後三時にさしかかっていた。今日はこの先、どこまで進めるのかも、泊まれる場所を見つけられるのかも、わからない。大規模な土砂崩れで何日も通行止めになっているババ・ナガルの現場は、今どうなっているのか。シムラーには、いったい、いつ辿り着けるのか……。
そんなことをぐるぐる考えながら、じりじりと待ち続けて、一時間。黒煙を吹き上げていたブルドーザーが道路脇に引いて停止し、ようやく、雪崩のあった箇所を通り抜けられるようになった。
ここでも、一台、また一台と、慎重に進入していく。左右にまだ残る雪と土砂の壁の間をすり抜けると、路面は途端にスムーズになった。ラジュがアクセルを踏み込み、車のスピードが一気に上がる。何にも邪魔されずに前に進めるというのは、こんなに気分がいいものなのか。
「ババ・ナガルの現場も、除去が終わってるといいな! さすがにもう通れるだろ!」ラジュが叫ぶ。「そしたら、車をかっ飛ばして、今日の夜中にはシムラーだ! 任せろ! 着いたら酒場で祝杯あげようぜ!」
「スレンダルは、あさって、試験なんじゃないの?!」
「ノープロブレム、ノープロブレム!」スレンダルも笑いながら叫ぶ。
「こいつは、酒にめっぽう強いらしいんだ! 一緒に飲もうぜ!」
そんな僕たちの淡い期待は、この後、あっさり打ち砕かれることになった。
(後編に続く)