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チャダルの記憶(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第18回

 忘れようにも、忘れられない旅がある。
 インド北部、ヒマラヤ山脈の西はずれに位置する、ザンスカール地方。主にチベット仏教を信仰する二万人ほどの人々がひっそりと暮らすこの土地は、周囲を標高五千メートル級の山々に囲まれているため、冬になると外界との間をつなぐ峠道が雪で塞がり、閉ざされた土地となってしまう。
 ところが、もっとも寒さが厳しい一月中旬頃になると、ザンスカールと外界との間には「幻の道」が現れる。外界へと流れ出るザンスカール川が凍結して、その上を歩いて行き来できるようになるのだ。
 険しい峡谷を流れる川の上に現れるこの氷の道を、ザンスカールの人々は「チャダル」と呼ぶ。その一帯の標高は三千メートルを超え、気温は時にマイナス二十度まで下がる。チャダルの行程には、途中に小さな村が一つあるだけだ。旅人たちは川沿いに点在する洞窟で火を熾し、凍える夜をしのぐ。ザンスカールの人々は遠い昔から、外界との間を行き来するための生活の道として、チャダルを旅し続けてきた。
 僕は、二〇〇八年と二〇一九年の二度、チャダルを旅した。冬のザンスカールのありのままの姿と、そこで生きる人々の暮らしぶりを、自分自身の目でつぶさに見てみたかったのだ。どちらの旅でも、ガイドとしてともに旅してくれたのは、ザンスカール人の古い友人で経験豊富なチャダルパ(チャダルの男)でもある、パドマ・ドルジェだった。
 氷の川を辿る旅には、常に危険がつきまとう。川は、全面にわたって凍結しているところもあるが、大半の行程は、川べりから数メートル程度が白く凍っているだけだ。表面に雪がある程度積もっている氷の上は、慣れさえすれば比較的歩きやすいが、ツルツルに凍りついた新しい氷や、その上をうっすらと新雪が覆っているような場所は恐ろしく滑りやすく、転び方が悪ければ骨折しかねない。川の水位は、時に氷より数十センチも上に来ることもあり、防水ブーツとソックスを脱ぎ、ズボンをまくって、渡渉しなければならない場合もある。氷が薄すぎたり、氷自体が張っていなかったりする場所は、雪がこびりつく崖をよじ登って、迂回しなければならない。
「……お前との最初のチャダルの旅、ニェラクの先のオマで、川に氷がまったくなくて、崖沿いにザイルを張って渡ろうとしてた時に、お前のすぐ後ろにいた別のグループのアメリカ人が、足を滑らせて川に落ちたよな? 俺たちのチームの奴がすぐに腕をつかんで引っ張り上げたけど、アメリカ人は首まで川に浸かって、ずぶ濡れになってて。そいつが脱いだ服も、すぐにガチガチに凍りついちまって……あれは大変だったなあ……」
 今でも現地で顔を合わせるたび、パドマは、僕とチャダルを旅した日々のことを、懐かしそうに思い出しながら話す。よくもまあ、そんなにも克明に憶えているものだな、と思う。彼はプロのガイドとして、ほかにも数えきれないほど、チャダルを旅しているというのに。
 危険極まりない行程だからこそ、チャダルでは、凄絶なまでに研ぎ澄まされた、美しい光景を目にすることができる。見上げると首が痛くなりそうなほど垂直に聳え立つ、雪と氷に覆われた断崖。黒曜石の鏃のように鋭く尖った岩峰。川べりに白く続く氷の道を、荷物を積んだ手製のソリを曳き、木の杖をつきながら歩く旅人。かたわらの雪の上に点々と残されていた、雪豹の足跡と尻尾の跡……。
 大いなる自然への畏れと、そこで自分たちが生かされていることへの感謝。チャダルと冬のザンスカールで直に感じたのは、現地の人々のそうした祈りにも似た思いだった。

 かれこれ二十年近くにわたって、ザンスカール川沿いで続けられていた道路の延伸工事が、ついに完了した、という報せが届いたのは、二〇二四年の春のことだった。
 標高四千メートル以上の峠を越えなければならないほかの道路と違って、ザンスカール川沿いに造られた新しい道路は、積雪によって長期にわたって通行不能になる心配が少ない。外界とザンスカールとの間は、真冬でも、車で行き来できるようになる。
 それは同時に、本来の姿でのチャダルの旅が、潰えてしまうであろうことを意味していた。
 冒険好きのトレッカーを対象にした、レジャーとしてのチャダル・トレックは、これからも残っていくのかもしれない。だが、ザンスカールの人々が冬の生活の中で日常的に行っていたチャダルの旅は、瞬く間に、バスや自家用車を使った移動に置き換わっていくだろう。その方が安全で、時間も労力もかからないのだから、当然と言えば当然だ。
 ザンスカール川沿いの道路が完全に開通する前の年の夏、僕は仕事の関係で、ザンスカールの側から中間地点のニェラクという村のあたりまで、工事が終わって通行可能になったばかりの道路を車で移動したことがある。それまで、真冬に凍結した川の上を歩いてしか踏み入ることができなかった峡谷の風景を、車のシートに揺られながら眺めるというのは、妙に居心地の悪い体験だった。
 ニェラクの手前には、現地の人々が「オマ」と呼ぶ、チャダルの行程でも一番の難所がある。川の幅は狭く、両岸には、高さ百メートル近くはある垂直の断崖がそびえ立つ。僕がパドマとともに最初にチャダルを旅した時、別のグループのアメリカ人男性が川に落ちて、あわや、という事態になった場所だ。
 その険しくも美しかったオマの断崖は、中腹をダイナマイトで砕かれ、直径二、三十メートルほども、ごっそり抉り取られてしまっていた。その巨大な空隙を目の当たりにした時、何とも言いようのない感情が、胸に込み上げてきた。
 終わってしまったのだ。僕がかつて歩いた、チャダルの旅は。
 ザンスカールのような辺境の地に、一年を通じて通行可能な道路が開通すると、現地の人々には、今までにないさまざまな恩恵がもたらされる。たとえば、重篤な急病人や怪我人が出ても、外界の大きな病院に迅速に搬送できるようになる。物流がスムーズになり、旅行者も訪れやすくなるので、地域の経済も活性化するかもしれない。
 その一方で、膨大な量の物資と情報と人間が一気になだれ込むことによって、これまで長きにわたってひっそりと培われてきたザンスカール本来の伝統的な生活様式が、急激に廃れてしまう可能性もある。チャダルの旅の伝統も、何も手を打たなければ、すっかり忘れ去られてしまうだろう。現地の人々の心のありようも、大きく変わってしまうかもしれない。
 ザンスカールの未来への舵取りを担うのは、ザンスカールの人々自身であるべきだ、とは思う。僕のような外部の人間にできるのは、チャダルの旅のようなこの土地の伝統を、写真と文章で記録しておくことくらいしかないのかもしれない。そうした記録が少しずつでも積み重なって、いつか……かの地にとって、何かの役に立てばいいのだけれど。
 僕は、忘れないでいたいと思う。あの、厳しくも美しかった、冬の旅の日々を。

【著者プロフィール】

山本高樹(やまもと・たかき)
著述家・編集者・写真家。2007年から約1年半の間、インド北部の山岳地帯、ラダックとザンスカールに長期滞在して取材を敢行。以来、この地域での取材をライフワークとしながら、世界各地を取材で飛び回る日々を送っている。主な著書に『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々[新装版]』『ラダック旅遊大全』(雷鳥社)、『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』『旅は旨くて、時々苦い』(産業編集センター)など。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』(雷鳥社)で第6回「斎藤茂太賞」を受賞。

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