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「対話」による関係の回復(駒澤大学心理学科教授:藤田博康) 連載:「多方向への肩入れ」の心理学〜家族の苦しみと回復 第4回

家族をはじめとする集団には、さまざまな立場の人がいます。力のある立場の人だけでなく、弱い立場にある人の声を公平に聞くためにはどうすればよいのでしょうか? 家族療法の考え方にヒントがあるかもしれません。10月から月1回、駒澤大学心理学科教授の藤田博康先生に「『多方向の肩入れ』の心理学~家族の苦しみと回復」と題して連載いただきます。

 私たちは誰もが生きる苦しみを抱えています。その苦しみが、怒りや不機嫌、妬みやそねみ、頑固さ、冷淡さ、非情さとなって、周囲の人を苦しめたり、周囲の人との関係をひどく難しいものにしてしまうことがあります。とりわけ、親子や夫婦などの間ではそのようなことがとてもよく起ります。しかも、家族であるからこそ、そのしがらみからなかなか自由になれないのです。

 これまで、ナージのいう「忠誠心」や「破壊的権利付与」という考え方をもとに、個人や家族がそのような振る舞いを続けてしまう心のからくりをお話しするともに、私たちがそのしがらみから自由になる道筋をも示しました。

 それは、家族それぞれの苦しみが、その影響による自他を損なうような振る舞いが、セラピストの「多方面への肩入れ」を通じて深く理解、共感されることによって、これまでの苦しみが報いられ、家族同士、相手を気遣い思いやるような関係を回復できる、そんな可能性です。

 特に、自分の抱える苦しみのあまり、周囲に破壊的に振る舞いがちだった人が、そのプロセスを経て、周囲への気遣いや思いやりやケアなどを発揮できるようになる、言い換えれば「建設的」な振る舞いができるようになることを、ナージは目指すべき治癒像とみなしました。

 前回は改変事例を通じて、セラピストの「多方向への肩入れ」により、それぞれの家族メンバーの抱える事情が分かち合われ、家族それぞれが本来の思いやりや優しさを回復していったプロセスをお話ししました。

「多方向への肩入れ」と公平な社会

 うまくいけばそれほど大きな癒しや関係回復の可能性を秘めた「多方向への肩入れ」は、基本的に家族療法、家族支援の専門家のスキルです。ただし、この「多方向への肩入れ」が目指しているゴールや回復のプロセスは、家族療法の場に限らず、広くコミュニティー、組織、社会などにおける人間関係の健全さ、集団の機能の回復や改善、葛藤や対立への建設的解決などへの大切な指針になり得るでしょう。

 ここで前提となるのは、私たちはたとえ互いにわだかまりがあっても、敵対し合っていても、思慮深くかつ粘り強くかかわる第三者の存在のもと、各自の語りが傾聴され、対話がなされることを通じて、理解し合い、尊重し合い、相手への思いやりを持つことさえできるという、言葉への、対話への、そして人間存在へのおおいなる信頼でしょう。さらに言えば、私たち一人ひとりが、葛藤や意見の相違、仲たがいや対立に悲観的にならず、誠意を込めて伝え合うことを通じて、相互理解や思いやり、癒しの関係を目指すという姿勢の大切さを教えてくれるものでしょう。

 それはまさに、「公平性が大切にされる場で」、「人間的諸事情を抱えて生きる自分を理解し(望むらくは自分の言葉で表明して説明責任を果たして)」、「人間的諸事情を抱えて生きる相手も同じように理解し許容してゆく」、そんな関係づくり・社会づくりの推進(中釜2010)であり、その考え方がもっと社会に浸透すれば、深刻な対立や争い、人権が脅かされるような事態や、ひいては戦争ももっともっと減るはずです。

 しかし、同時に、それらは「私たち人間が永く希求しながらいまだ叶わないこと、もしかしたら最も困難なことかもしれない(中釜2010)」という指摘も軽視してはならないでしょう。

 私たちが現実に生きるこの世の中では、その対極にあるような戦争や、対人間の攻撃や報復の応酬が決して絶えることがありません。家族における虐待や暴力、深刻な苦しみや理不尽なできごとも山ほどあふれています。つまり、「多方向への肩入れ」が目指すような関係回復や相互の思いやりは、理屈で考えるほど、そう簡単に実現できるものではないということです。

 私の経験を踏まえたうえで、あえてお話ししますが、互いに相手の立場に想いを馳せ、暖かい関係が回復するような見通しがとても立ちにくいような家族も存在します。苦しみや悲しみがあまりにも深く、それを互いに共有したり、思いやったりできない家族があるのです。弱い立場のメンバーの痛み・苦しみを何とか語ってもらい、それを分かち合おうとすることによって、それが逆に付け込まれたり、搾取されたりしてしまうような「業」の深い家族もまたあるのです。

 ですから、「多方向への肩入れ」や、対話を通じての関係回復という考え方の限界についても、ここで触れておかなければならないと思います。

言葉の限界

 「多方向への肩入れ」による関係回復は、各自の説明責任を重んじています。すなわち、それぞれの事情や想いを言葉で語ってもらうことを前提として、それが家族の理解や信頼、家族関係の回復や再構築につながるとしています。しかし、そのことは、とりもなおさず「言葉」の持つ限界に大きく影響されるということです。

 「言葉」は、ものごとのありようや私たちの想いを、相互理解のために便宜上デジタル化して置き換えたものです。そこにはアナログである現象や想いとの間のズレがあり、表現できない部分、表現されない部分が少なからず残ります。ですから、言葉を通じての相互理解、共通理解は常に「ある程度」の範囲にとどまります。

 それでも、たいていの人間関係においては、そこに多少のズレがあったところで、大きな支障はきたしません。政治、会社や組織、コミュニティーや知人との関係などなど、皆そうです。とはいえ、そのズレがあまりにも大きくなると、目的の遂行や関係の維持が難しくなるでしょう。

 一方、家族のような親密で情緒的な安心感が期待される関係であればあるほど、言葉を超えた「感じ」や「雰囲気」、「つながり」や「絆」が大きな意味を持つようになります。赤ちゃんと母親の関係がその際たる例です。

 それはさておき、そのような親密な関係において言葉に「頼りすぎる」と、実際に起きていることや実際に感じたりしていることから、ズレがどんどん大きくなってしまい「要求」や「主張」や「訴え」が独り歩きしてしまい、対話が双方の「苦しみ」をかえって深刻化させてしまうことが実は少なくないのです。

 私たちが苦しみを抱えているとき、親密な関係においては、相手にわかってもらいたい、自分の期待するように振る舞ってもらいたいという想いが生じ、そのために「言葉」を行使します。しかし、相手には相手の事情があり、こちらの期待には沿えないこともよくあることです。

 そうなると、もともとの苦しみに加えて、「甘え」が満たされない悲しみや不満、ときにはそこに「怒り」が加わり、さらに感情的な強い「言葉」が多発されることになります。あるいは、一見受け身的に見えて、実は相手を責めるような言葉の表現になることもあるでしょう。

 そうなると相手の抵抗や反発を招いて感情的な応酬になりやすく、当初の期待とは逆に、相手に癒しや慰めを求めれば求めるほど関係が悪くなってしまいます。これが繰り返されて、相手をひどく憎むようになったり、相手に絶望感を持ってしまうこともあったりします。

 つまり、言葉や対話は、気をつけていないと大切な誰かとの関係を破綻させてしまったり、苦しみをかえって悪化させてしまう怖さが十二分にあるのです。

 その意味で、「言葉」はもろ刃の剣です。現代の戦争や深刻な争いごとは、そのほとんどが、ある思惑のもとでの「言葉」での主張や要求のすれ違いから始まっています。

 その意味で、葛藤の高い家族では、当事者同士の「対話」による関係修復はとても難しく、十分に気をつけなくてはなりません。

 「十分に気をつける」とは、自分の抱える苦しみが、自分にどういう言葉を発せさせているのか、それに、相手の苦しみがどう反応して、どういう言葉として返ってくるかをよく観て、そのうえで、双方の関係を悪化させることのないような「言葉」を注意して使うということにほかなりません。

 対立の渦中にある当事者にとって、それはとても難しいことであるのはもちろんですが、実は専門家にとっても、そうたやすいことではないのです。

 繰り返しになりますが、そもそも言葉には限界があり、実情や実感とのズレが常にあり、自分のこだわりや自分の思うように相手を動かしたい、変わってもらいたいという感情的、情緒的な意図があります。さらに、相手側の事情もあり、発信者の意図と相手の受け取り方にも少なからずのズレが生ずるため、それを相互理解や相互の思いやりにつなげるのは専門家とてそう簡単ではないのです。

 深い苦しみを抱える人の言語表現や語りのありようは、実にさまざまな形を取ります。
 ですから、誰かの言葉、語り、主張をそのままの意味内容として受け止めておいた方がいい場合もあれば、その背後に潜む「本当の想い」のように見えるものに焦点づけし、それを家族と共有してみる方がいい場合もあれば、逆に、その想いを共有しようとすると、それが相手からやり玉に挙げられたり、いいように使われたり、搾取されたりしてしまうような難しい関係もあるのです。

 さらには、良きにつけ悪しきにつけ、専門家の「公平性」の判断も、「共感」のポイントも、「肩入れ」の程度も、その人自身のものの見方や個人的背景、生きる苦しみや悲しみ、日ごろ抱える不満や憤り、その人の信念などにも多少とも影響を受けており、そのうえ限界のある「言葉」に依存しています。ですから、一つ間違えると、専門家の介入によって、「不公平」が拡大したり、「苦しみ」が再生産されてしまったりすることもまったくないことではないのです。

 総じて、家族支援に携わる者は専門家も含めて、家族が語り合い、伝え合うことによって、家族の関係性が改善されたり、回復されたりするものと当然のように思っている傾向が強いように感じます。でも、言葉の限界や言葉の持つ破壊性をよくよく考える必要があると私は思います。

家族の「業」

 特に、ひどく難しい家族関係の場合、率直な想いを語ることのリスク面を軽視してはなりません。相手に、私たちが通常兼ね備えていると期待されるレベルの共感性や思いやりが欠けていたり、あるいは深刻な破壊的権利付与などの事情で、こちらの率直な「語り」を、逆恨みしたり、搾取したりするような関係もまた実際にないとは言えないのです。誠意のある対話が成り立たない関係が、現実にはあるのです。

 ひどく悪いたとえですが、いくらその人が人生上、大きな「赤字」を抱えていたとしても、こちらが何を言ってもそれを曲げて受け取り、いちゃもんをつけたり、怒鳴ったり、手が出てくるような相手に、粘り強く対話をつづけようとか、こちらのことを分かってもらおうとかしようとは、普通は思わないでしょう。

 その意味で、歴史を遡って綿々と続く家族の深い「業」を軽視すべきではありません。この文脈療法をはじめとする多世代派家族療法の最大の貢献は、代々引き継がれる家族の「業」が、一方では個人に重荷を負わせ苦しめ、一方では、個人の人間性を損なわせ破壊的な振る舞いをさせてしまう、そのような個人の意思や責任を超えた不幸のパターンを示し、それに対する支援や取り組みを考えたことだと思います。

 それは裏を返せば、そのような苦しみや破壊性は、ある意味、個人の語りや主張で表現されるような次元とは異なる次元で存在しているということでもあります。その深い家族の「業」を踏まえて、それでもあえて「多方向への肩入れ」、つまり、家族の対話と分かち合いに賭けてみるか、それとは違う方法を模索していくかは、ケースバイケースで考えるべきでしょう。当事者にせよ、専門家にせよ、私たちのエネルギーには限りがあります。

文献

中釜洋子 2010  個人療法と家族療法をつなぐ-関係系志向の実践的統合 東京大学出版会

【著者プロフィール】

藤田博康(ふじた・ひろやす)
駒澤大学心理学科教授 専門は臨床心理学、カウンセリング心理学
著書に『幸せに生きるためのカウンセリングの知恵~親子の苦しみ、家族の癒し』など

【関連note】

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