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葛藤を生きる人を支えること、葛藤しない人から学ぶこと〜生殖・不妊心理臨床からの雑感(東京リプロダクティブカウンセリングセンター:平山史朗) #葛藤するということ

 多くの人ができることが自分たちはできないという思いは、強い心の葛藤を引き起こすのではないでしょうか。不妊治療に臨まれる方々の心にずっと寄り添ってきた平山先生に、当事者と援助者の葛藤についてお書きいただきました。

不妊を経験することの葛藤

 不妊というのは、子どもを望んでいるけれども思ったように得られない状態のことですが、不妊という経験はさまざまな葛藤を引き起こします。「欲しいのにできない」という不妊そのものが葛藤状況ですし、子どもを得るために努力するのかしないのか、不妊治療という医療の手を借りるのか、どのような治療をどのくらいの期間受けるのか、などなど。これらの葛藤は不妊になって初めて経験する葛藤です。なぜなら、多くの人にとって子どもは自然に「できる」ものだからです。「妊娠しないように努力する(=避妊)」ことについて葛藤することはあっても、「避妊をやめれば妊娠する」という考えが多くの人に共有されているため、自分が不妊状況で葛藤するということは想定外のことになるのです。いやいや、「望んでも得られない」状況は人生でたくさんあるじゃないか、受験だって就職だって思うようになる人ばかりではないし、不妊の葛藤が特別なものとは思えない、不妊の葛藤もそれらと同じではないのか、と考える方もいらっしゃるでしょう。そのように捉えられる不妊当事者は「望んでも得られない」状況を受け入れ、自分なりの葛藤解決をしていかれます。でも、不妊の葛藤は他の葛藤とは違う、と感じて苦しむ当事者も少なくありません。

 それはなぜかというと、子どもを持つことが私たちの社会の中で「大多数の人」が「何の苦労もなく」「当たり前」にできることとされ、子どもがいることが「ふつう」と考えられているからです。不妊を経験した途端、大袈裟ではなく世界は変わります。自分が「ふつう」ではないという感覚は、社会からの疎外感につながり、いわゆる自己肯定感を低下させます。障害受容、疾病受容と似たところもありますが、不妊の厄介なところは、「これから子どもができれば不妊でなくなる=ふつうの人と同じになれる」と思い、不妊である自分は「本来の自分」ではないのだから今の状況を受け入れる必要はないと考えやすいということにあります。失った機能や能力を受け入れる障害受容が簡単なこととは思いませんが、ある意味で「その状態で生きていく」とその人なりに受け入れていくことを目指さざるをえません。不妊の方も「できないのならしょうがない」と受け入れていければ苦しむことは少ないのでしょうが、治療などの努力で子どもが得られるかもしれない、という希望が目の前にあり、それで子どもができれば「ふつう」の人と同じような人生が送れると考えたとき、不妊のままでいる選択はしにくいのです。ですから、他人から「どうしてそんなに苦しい思いまでして不妊治療に取り組むの?子どものいない人生だって幸せではないか」と言われても、「普通の人と同じようになれる」可能性を捨てることなど、容易にできるはずがないのです。しかし子どもができるかどうかはあくまで可能性の話で、努力が子どもを保障してくれるものでもなく、いつ子どもができるか、いつか子どもができるのかは誰にもわかりません(一般に知られているよりも不妊治療で子どもが得られる確率は低いのです)。このような状況で不妊当事者の方は、妊娠という自分の望みのために「できること」と「してよいこと」の間で葛藤し続けるのです。

 一方で、生殖技術はどんどん進化しています。精子や卵子、受精卵の凍結技術は時空を超えた生殖を可能にし、生殖から性交を不要にしました。これによりこれまで子どもを持つことができなかった身体的問題を抱える方や男女のカップル以外の人も子どもを持てるようになりました。さらに着床前診断(PGT)技術によって、受精卵の段階で子どもの染色体数や遺伝子情報を知ることができるようになり、単に子どもを得るだけでなく「どのような」子どもを持つかどうかも選べるようになりました。選択肢や可能性が増えることは、「選べる自由」をもたらしましたが、同時に「選ばなくてはならない不自由」も考えなくてはならなくなったといえるかもしれません。どこまでの技術を利用するのか、「自己決定」の名の下に「いのち」に関わる選択を当事者が迫られているのが実情です。私たち心理支援に関わる人間は、このような簡単に解決できない葛藤状況にある当事者の苦しさに対して、葛藤を解決することだけでなく、葛藤を生きるその人に心を寄せることが求められるのです。

葛藤しないクライエントと出会う

 生殖・不妊にかかわる心理臨床では、葛藤を抱えながら妊活や不妊治療に臨む人が、「自然にできるはずのことができない」自分とうまく折り合いがつかず苦しんで相談にいらっしゃいます。しかしながら、ときにまったく葛藤を感じさせないクライエントさんに出会い、援助者として戸惑いを覚えることもあります。

 子どもを得るために身体的、精神的、経済的、時間的負担を払って努力する不妊の人は、自分の払っている犠牲になかなか目が行かず、「とにかく妊娠できれば問題は解決するのだから」と驚くほどがんばります。精神症状が出ていても(体外受精初期の女性の54%が軽度以上の抑うつ症状であるという調査結果もあります)妊娠しないのは努力が足りないからだとがんばりを続けます。援助者としては、そのようなクライエントに「子どもを持つことがあなたにとってどのように重要なことなのか、本当に必要なことなのか」と治療の意味や子どもを持つ意味について考えてもらいたいと思いますが、「子どもを欲しいのには理由なんてない。本能だし、みんな考えずに親になっているのに、どうして自分たちだけ子どもを持つ意味なんて考えさせられなければならないのだ」という答えが返ってきます。彼女たちの言うことはもっともで、子どもを持つことは考えてすることではなく、「できるのが当たり前」のことである、という社会の子ども観や家族観を取り入れているだけです。でももちろん、「親になる準備」は本来すべての親になる人にとって大切なことで、それがじゅうぶんできないまま親になってしまう人が多いことと、不妊の人にその準備が必要でないということは違う問題なのです。親になる前から親になることについての心理的な準備を意識して行うことは大変なことではありますが、これから誕生するいのちと家族のためを考えて当事者に投げかけたくなるのです。でもなかなかうまくいかない。

 そんな時に、自身が生殖の問題とともに大事にしてきた、セクシュアル・マイノリティの方との臨床のことを思い出しました。20年前の相談場面では、「自分が同性愛者であることが受け入れられない」といった苦しみがよく語られていました。これはご本人が社会の同性愛に対する差別意識や偏見を取り入れてしまい、自分を異常だと考えてしまう「内在化された同性愛嫌悪(internalized homophobia)」の影響によることが大きいことが知られています。しかしながら、最近の若い同性愛者の方々を見ていると、もちろん同様の悩みで苦しむ方も少なくない(自殺未遂の経験率の高さなどは決して見逃してはいけないでしょう)のですが、明らかに相談場面でゲイアイデンティティの悩みは減ってきているように思います。話を聴いても自身が同性愛者であることそのものに関しては、それほど葛藤を経験したこともないという人が多くなっていることに驚きます。これには、やはり日本社会における同性愛に対する受け止め方の変化が影響していることは間違いないでしょう。同性愛は病気や異常ではなく、性指向の向きが多数派と異なるだけで、それによる不利益があるのは個人ではなく社会の側の問題である、と若い人を中心に多様な性のあり方が受けとめられるようになってきています。葛藤を軽やかに飛び越えている若い同性愛者の人たちを見ていると、どのように親になるかということも、「こうでなくてはならない」ということはないのだろうと考えるようになりました。

 出自のあり方や家族のかたちによって生まれてくる子に不利益が出るとしたら、それは親になる人が問題なのではなく、それを「自分たちとは違うから」といって排除する社会の側に問題があるのです。そう考えると、当事者の葛藤のなさも一つの形かもしれません。クライエントの葛藤のなさに葛藤する援助者としての自分を考えたとき、自分が多数派にとっての当たり前の世界から不妊に苦しむ人を見ていないか、援助の暴力性のようなことへも意識が働くようになってきました。

 でも、親になる人も生まれてくる子も、生きて行くのはこの社会です。マクロの視点では社会の側がおかしいことであっても、実際に当事者が周囲の人々(=社会)から傷付けられることもあるでしょう。それを避けるために、わかり合える人だけのコミュニティで生きていければそれでもいいのかもしれませんが、それは結局社会と断絶したままとなってしまいます。社会の側の変化がもちろん先決ではあるのですが、「ポツンと一軒家」的に生きるのではなく、この社会で違う人々が違いを尊重されながら一緒に生きていけないものだろうか、とも思うわけで、援助者の葛藤はなくならないのです。

 最近では、私はそのような援助者の葛藤を面接場面で隠さず伝えることが増えてきました。流行りの感じで言えば、メンタライジング姿勢で接するようにしているとか、ロジャーズの言う“genuineness(純粋性)”を大事にしているとかいえるかもしれませんが、実際はそんなに格好いいものではなく、迷い、葛藤する援助者の姿を見て何か感じてもらい、「もしかしたら自分が望むようにすればいいというだけじゃないかもしれない」と自分と社会との関係に少し意識が向いてくれればうれしい、とそんなことを考えながら日々親になろうとする人たちと出会っています。

執筆者

平山史朗(ひらやま・しろう)

1993年 広島大学教育学部心理学科卒業
1997年 広島HARTクリニック勤務
1998年 Center for Reproductive Psychology(San Diego, CA)にて生殖心理カウンセリングを学ぶ
2001年 厚生科学審議会生殖補助医療部会委員
2002年 東京HARTクリニック生殖心理カウンセラー
2013年 厚生労働省不妊に悩む方への特定治療支援事業等のあり方に関する検討会委員
2021年 生殖・不妊・性の問題に特化した心理相談施設「東京リプロダクティブカウンセリングセンター」開設

【資格】生殖心理カウンセラー、公認心理師、臨床心理士、家族心理士
【役職】日本生殖心理学会(副理事長)、日本家族心理学会(代議員)
【著書】「妊活に疲れたら、開く本」(主婦の友社インフォス)
東京リプロダクティブカウンセリングセンターHP:https://reprocounseling.com

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