自分と他者を知るための哲学対話で、"思い込み"から自由になろう (二村ヒトシ 映像ディレクター) #つながれない社会のなかでこころのつながりを
現代は、人の数だけ恋愛の幸福と不幸があるといっても過言ではないでしょう。
映像ディレクターの二村ヒトシさんは著書を通じて、恋愛でどう幸せになるかを説いてきました。自分と相手の持つ〈心の穴〉の形を知り、思いこみから自由になり、自分と相手について本質的な理解をすることで、より幸せな恋愛ができるということです。
本稿で二村さんは、自分の考えや心と向きあうために哲学対話という手法を勧めています。他者や自分自身との対話を通じて、思ってもみなかった発見をえて、あなたがより生きやすくなるヒントに繋がれば幸いです。
あなたの”愛やセックス”の悩み、”思い込み”に縛られていませんか?ー”すべモテ”から問い続けた20年間
みなさん、こんにちは。いかがおすごしですか。StayHome期間中、どうやってすごされていましたか? 私は、ずっとオンラインで「哲学対話」をやっていました。
私は大人向けの映像(はっきり言いますとアダルトビデオ)のディレクターが本業で、恋愛について考察する本も書いている者です。最初に男性向けの『すべてはモテるためである』(初版は1998年なんですが、いまだに毎年、版を重ねています)、ついで女性向けの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を出版し、どちらも多くのかたに読んでいただいています。
これらの本を書きながら考え、AVを製作することと本を出すこと両方の仕事でさまざまな人と会って話していくなかで、私には一貫した問題意識がありました。
みんな、恋愛やセックスに思い悩むときに「そのような恋や恋愛関係やセックスを、自分はなぜしてしまうのか」を、考えてなさすぎじゃないかということです。
もうすこし、くわしく書いてみましょう。
「恋愛やセックス(だけではなく、ほとんどすべての人間関係)がうまくいかないことには、心理学的な原因がある。そして、どちらか一方だけが悪いということはほとんどない。
そういう二人(もしくは関係者全員)が結びつき、しんどいほうに惹き寄せられてしまうことにも心理的な理由がある。
そして、うまくいっている恋愛やセックスも、その幸せな二人が惹き寄せられたのも、運命といったあやふやなもののせいではなく、心理的な要因があるはずだ」
「恋愛やセックスの実践は、欲望や感情を他人にぶつけ、愛されたいと願い(どういうふうに愛されたいのかも本当に人それぞれ)、そして好きになった相手の欲望や感情について考えることだ」
「ところが、相手の欲望どころか、自分自身の欲望の正体(「こういうふうに愛されたいのだ」という根源的な感情欲求)についても、あまり熟考したことがないという人が多いのではないだろうか」
「その人特有の感情や欲望(愛されたさ)は、その人の生育過程のなかで、生得的な気質や、親との関係や、世間との軋轢によって生じた〈心の穴〉とでも呼ぶべき空洞から湧きだしてくる」
「ようするに恋愛やセックスで幸せになれるかどうかは、その二人の〈心の穴〉の相性なのだ。もちろん、自分を苦しめる相手を好きになってしまうという心の穴のかたちもあるだろう。そういう人が自分の心の穴のかたちを検討しないままでいると、ずっと同じ失敗をくりかえしつづける」
「人は恋愛やセックス(欲望や感情が吹き出す場面)において、自分で自分をコントロールできない。心の穴に操られているのだ。そして心の穴の空洞を誰かに埋めてもらおうとする」
「心の穴を埋めてくれそうな人(それが身近にいる人・現実の存在・人間、だとは限らない)に対して抱く感情が、恋だ」
「よっぽど相性が良くなければ、心の穴は〈恋人の存在〉では埋まらない(相手が生きた人間である場合は特にそうだ)。多くの場合、もっと埋めてほしい、と相手に要求し続けることになるだろう。そうやって人は恋に疲れたり、埋まらないから浮気をしたり恋人を憎んだりする」
「恋愛やセックスは、自分の心の穴を埋めるためにしようとすると痛い目にあうものだ。だが多くの人は心の穴を埋めるため、つまりさみしさを埋めるためか、もしくは〈より良き人間〉になって社会に認められるために、恋愛やセックスをしようとする」
(なぜか、この世の中では「結婚や恋愛やセックスをしている人間のほうが〈より良き人間〉である」という社会通念がまかり通っている。あいかわらず生産性というものが求められているからだろうか)
(もちろん酩酊やギャンブルで心の穴を埋めようとする者もたくさんいる)
「恋愛やセックスを心の穴を埋めるために使おうとすると痛い目にあうのなら、 いっそ考えかたを変えて、恋愛やセックスで傷つくことによって自分の心の穴のかたち(欲望や愛されたさのかたち)を知ろうとするというのはどうだろうか。傷ついた時こそ自分や相手の心の穴のかたちを考えるいいチャンスだ、というのを我々は常識にするべきなのではないだろうか」
「自分と相手の心の穴のかたちを知ろうとするということは、自分と相手の欲望のかたちを知ろうとすることでもあり、それができる人は確実にセックスが上手になる」
最後のは話が飛躍したかもしれませんが、ともかく私はそういうふうに考えているのです。
コロナ禍のさみしさ。
”オンライン哲学対話”との出会い
-みんなで、思考を深めあう
さて、この自粛期間中、私は本業がすっかりヒマになりました。なにしろ、密でないと始まらない撮影が仕事なので、ぜんぶ延期なのです。
せっかくヒマなんだから積んでた本を読んだり配信で映画を観たりする良い機会なのですが、どうもそんな気にならない。
現状や未来への不安もウイルスへの恐怖もありましたが、それ以上に、さみしさがあったからでした。具体的な感情ではなく、茫漠としたさみしさです。そのせいで、古い面白い映画を観ていてもなんだか楽しめないのです。
私は自分の仕事が好きだったんだなあと、あらためて確認できました。なぜそんなに仕事が好きだったのか。私は私の仕事をしていれば心の穴が埋まって、さみしくなかったからです。「お金のためじゃない」とまで断言すると綺麗事になりますが、少なくとも私が私の仕事を選んだのは心の穴を埋めるためだった、いろいろな人と会えて性や恋愛について考えることでさみしさをまぎらわすことができる仕事に就けていて幸せだったのだということが、新型コロナのおかげで仕事ができなくなってみて、よくわかったようにも思えました。
あなたはそんなことないですか? さみしくならないためじゃなく、お金を稼いで食べていくため、家族のため、あるいは世の中のために(自分の心の穴を埋めるためではなく)仕事をしているんだとしたら、あなたは、さみしさは何でまぎらわしていましたか? それともあなたは、あんまりさみしくならずに生きていける人ですか?
ヒマになってさみしくなって「このままだと鬱になるかもしれんな」という予感がした私ですが、ありがたいことに、オンライン哲学対話というものに出会っていました。
(これからの社会や教育の中で、哲学対話がどう運用され、どう重要になっていくのかは、本特集の梶谷真司さんと小宮山利恵子さんの記事をお読みいただければと思います)
3月末から4月の第二週までは週に2回くらい、それ以降の5月中旬まで一ヶ月間はほぼ毎晩、オンラインで哲学対話をやりました。連休中は毎日昼夜、一日に2回やりました。通算40回くらいです(笑)。こんなヒマな一ヶ月は生まれて初めてだったからそんなことができたわけですが。そしてオンライン会議のツールを使ったからこそ、異常といえる頻度とフットワークの軽さでできたわけです。
最初は知り合いがやっているのに参加させてもらい、あまりにも面白くて、SNSで偶然みつけた知らない人ばかりの対話に混ぜてもらい(その知らない人が、いまでは大事な哲学対話友達になってしまったり)やがて自分で主催するようになってしまいました。
そしたら拙著の読者で私の告知を見て参加してくれて初めて哲学対話に触れた人たちが、自分でも主催してみたいと言い出して、私と同じようにすぐに自分でテーマを決めて告知して人を集めて、やり始めました。自粛期間中のオンライン哲学対話には、そういう速さと、中毒性があります。
オンライン哲学対話で扱ったテーマ
毎回の対話のテーマはさまざまでした。(以下のようなテーマのものに参加しました)
・「人生に〈あたり〉と〈はずれ〉はあるのか?」
・「恋人依存について考える」
・「〈おもしろさ〉とは何か?」
・「人間の器(うつわ)について」
・「不安について」
・「〈うらやましさ〉について」
・「職業に貴賎はあるのか?」
・「興奮について」
・「『鬼滅の刃』の1巻と2巻に描いてあることについて(たとえば、鬼と人間は生き死ににおいてどちらが自由か?)」
・「コロナ以降の恋愛について考える」
・「コロナ以降のセックスについて考える」
・「カレーについて」
・「哲学対話とは何か?」
・「男気(おとこぎ)について」
・「ペットの死と人間の死」
・「勉強とからだと心」
・「大人になるメリットについて」
・「なぜ人は他人のことをほうっておけないのか?」
・「〈着ること〉と〈化けること〉について」
・「『星の王子さま』に出てくる〈酒飲み〉について」…etc.
哲学対話で”思い込み”から自由になる
<カレーの、見えていなかった本質(?)に気が付く>
ふだん何気なく食べているカレーでも、みんなでする哲学対話で扱うと、それまで考えたこともなかったいろんな「意味」が発見されていきます。
最初は「なぜカレーは、こんなにも多くの人に愛されるのだろう?」「カレーパンやカレーうどんや家庭のカレーやインドカレーや、多様なカレーが存在していて、じゃあカレーの定義って何だろう?」という、『美味しんぼ』の登場人物が議論しそうな話をしていました。ところが各自が個人的なカレーへの思い、カレーの記憶をそれぞれ語り始めると……。
「ヤバさ(スパイスの辛さや香りによる興奮や、癖になるジャンクな中毒性といった欲望)と、優しさ(ある程度約束された美味しさとか、給食でおかわりをした記憶、家族の食卓の記憶といった安心感)が同時にあるという矛盾こそが、カレーの本質なのでは」という話にたどりついたのでした。
これは「とりあえず偶然たどりついてしまった、その日の到達点」であって、「がんばって何かユニークな〈結論〉を出そうとすること」が哲学対話の目的ではありません。
あくまでも「楽しみながら徹底的に考え、時間内は考えることをやめず、さらに〈おたがい問いかけあう〉ことで、日常の文脈の中では思いつかないような考え、自分一人の頭で考えていては発見できないようなことに到達できる(かもしれない)ゲーム」が哲学対話です。
カレーとはヤバさと優しさを両立させている食品だという発想に対して、もちろん私は「それって恋愛やセックスそのものでは?」と思いました。また、私以上に哲学対話にハマっているある参加者は「つまりカレーの魅力は、さまざまな矛盾を包摂する哲学対話の魅力と似ているのでは?」という感想を持ったようでした。
<哲学対話のなかで、大事にしたいこと>
なんでもかんでも性の欲望と結びつけて考えてしまうのが私の心の穴とも言えるでしょうね(笑)。そうやって、対話を通じて、あらためて自分自身の考えかたの癖にも気づかされます。
哲学対話とは、日常のフレームを壊して思考を(自分の)抑圧の外に向かって自由に広げていくと同時に、他者の思考を使わせてもらって(思考を手伝ってもらって)自分の内面に向かいあう、そういう遊びです。
私が持っていた「みんな自分の恋愛や性について(つまりは自分自身というものについて)考えてなさすぎじゃないか」という課題にアプローチできて、多くの人が思い込みから開放されるかもしれない……。そんな可能性に気づいて、私は哲学対話にハマっていったのではと思えます。
なので私が対話のテーマを選ぶときは、大人向き(アダルト向け?)なテーマを選びがちです。でも形式としては「むずかしいことばを使う哲学的な議論」ではなく、まず素朴な〈問い〉を立ててみんなで考えていく「子どもと一緒にやる哲学対話」がルーツのものが好みなので、その形式でやっています。
問いを立てる前段階で、「ナラティブ」として自身の体験を語るのはもちろんOK。そして参加者があくまでフラットな関係で話すことができるように、専門性やマニア的な知識によるマウンティングは、いましめることとしています。
以下の、私が使っている〈ルール〉は、先達の皆さんが使われているものを参考にアレンジさせてもらったものです。参加者の精神的な安全と自由の確保が最優先だという点は、どのようにアレンジしたルールでも第一に考えられなければならないものです。
<哲学対話のルール(二村ヒトシver.)>
対話中に使う名前は、架空の(本名でもハンドルネームでもない)ものに
変えてください。日常での属性や地位、人間関係を持ち込まないためです。
1. なにを言ってもいいし、だまって聴いて考えているだけでもいい。
ただし、相手を攻撃する態度、茶化すような態度を取らない。自分を否定したり謙遜もしない、人にアドバイスもしない。
・どんなに不道徳なことも、嘘(フィクション)の体験も言っていい。
・わいてきた感情(いま傷つきました、この流れは自分にとってつまらない等)もメンバーを信頼して口に出していい(ただし相手への非難や逆襲にはしない)。なぜ傷ついたのか、なぜつまらないのか、それをみんなで考えるようにします。
・言ってることが途中で変わってもいい。「自分の考えを疑う」姿勢が大切。
・自分の考えてること(言ってること)が、わけわかんなくなってもいい。
相手の言ってることがわかんなかったら、どんどん質問しましょう。
・自分の話をまとめようとしなくていい。
きっと誰かがまとめてくれます。ニュアンスが違っていたら「違うんです」と言って、どう違うのか一緒に考えます。
2. むずかしいことばを使わない。なるべく頭ではなく、体や体験から出てきたことばで。(知識や借り物の名言は、小学生にもわかる単語を使って言いかえてください)
3. 頭に浮かんだ〈問い〉を誰かに問いかける。おたがいに質問しあう。
「なぜ?」「どういうことですか?」「それを言いかえると?」
・安易な同調をせず(共感するのはいいが「なぜ自分は共感したのか」を考えて)、議論しようともせず、でも「人それぞれだよね〜」では終わらせない。
しゃべっている人に、気がすんでしゃべり終えるまで、その場の権利があります。しゃべりたくなった人は手をあげて待ちます。その中から次にしゃべる人を、しゃべり終わった人が指名します。
決めていた時間がきたら対話は終わります。結論は出ません。
恋愛経験や性体験の多寡もマウンティングの材料にしない。経験が多くても少なくても、それによって参加メンバー間で変な優劣というか権力勾配をつけません。
また、メンバーの誰かの「性や恋愛の悩み」から〈最初の問い〉が生まれたとしても、ほかの誰かがその悩みに人生相談的にアドバイスしようとはしない。誰か一人の話を聞く場ではなく、みんなで「問い」に対して探求していく。また、女子会や男子会でありがちな「あるある」や共感だけでは終わらせないようにします。
哲学対話は、その場にたまたま居合わせたみんなで一つのことを考えるゲームです。あくまでフラットに、誰かの意見に偏ることなく、共感も反発も感じながら、問いをみんなで深めていきます。
〈おもしろさ〉とは何なのかをテーマにした対話では以下のような思索が生まれました。
「何かをおもしろがって夢中になっているとき/夢中になれているときに人間は、心の傷(思い出したくないこと)が痛まなくなっている。
ということは〈自分〉から自由になれていて、だから、ガンコなままではいられなくなるのではないだろうか」
この外出自粛期間に初めてオンラインの哲学対話を体験した人が、
「初対面の人と、始まって15分後にはめちゃめちゃ深い話をしている。これはどういうことなんでしょうか。」
と言っていました。
哲学対話は言ってみれば「空気を読まない訓練」でもあります。
「哲学対話のルールを守って喋ることで、かえって自由になれた。自分がいかに〈日常会話〉の目に見えないルールに抑圧されていたかが、わかった」
という感想もありました。
哲学対話の場では「テーマについて意見を述べて、人の意見を聞いて、問いかけて、考える」ということしかしていません。
人の話をちゃんと聞いているということが自身の思索を深め、それをまたゆっくり言葉にすることがみんなの脳を活性化させて思考をうながす。個人がバラバラにディスタンスしているのに、一つの思考の場を共有しています。
私が哲学対話にハマってさみしくなくなったのは、私にとって哲学対話が「うまくいった恋愛やセックス」に似た効能があったからだと思います。なんと、この恋愛やセックスはその場かぎりのもので、不特定多数の人々が相手です。
恋愛もセックスも、まず誰かと一緒にいたいという孤独な欲望に駆動されて始まるわけですが、結果として他者とぶつかったり融合したりしてしまい、自分の存在を揺るがされる。すっかり壊されてしまうことすらありえる。でも、それが爽快で気持ちがいい。自己受容感を得られる (逆に言えば、自分を守っているような恋愛では自己受容感は得られない)。
哲学対話を通じ、自分の考えを見つめなおしたり、自分にあった幸せのありかたを模索できるはずだと思います。他者や自分に問いかけて(ディベートも議論もせずに、対話をすることで)みんなで考えぬくという〈ゆかいな遊び〉が、アフター・コロナあるいはウィズ・コロナの時代に、人々の心に豊かな感覚をもたらすのではないでしょうか。
(執筆者プロフィール)
(photo by 五十嵐絢也)
二村ヒトシ(にむら・ひとし)
1964年 東京生まれ。慶應義塾大学中退。AV監督。ソフトオンデマンド社 顧問。近年は執筆活動や、恋愛と性に関する啓蒙活動も盛んに行う。
著書に『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』『あなたの恋がでてくる映画』、共著に『欲望会議』『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』ほか。