パンデミックと子どもの不安(田中 哲:子どもと家族のメンタルクリニック やまねこ院長)#不安との向き合い方
大人から見ると、とるに足らないのではないかと思えるようなことにも、子どもは大きな不安を抱き、心押しつぶされる思いでいることがあります。大人さえ不安を募らせる現在の特殊な状況が、子どもの心に与えている影響は、無視できないものとなっているでしょう。子どもの不安を大人はどう理解し、対応することができるでしょうか。児童精神科医の田中先生にお書きいただきました。
不安にならない子どもはいない
子どもの発達過程で不安はつきものであると言っても良いかもしれません。人見知り・後追い・安全毛布・指しゃぶりなどは全て、子どもがその時点での安全を確保するために繰り出す行動と考えられます。
大切なことは、安全確認のためのこうした仕掛けが、次のステップへの踏み台となっている点です。例えば人見知りは、見知らない人と接する不安の表出ではありますが、とりあえずの安全を確保することによって、その見知らぬ人と安全に関わっていけるようになることを準備しています。後追いに適切に対応してもらう過程を経て、子どもたちは自分の大切な人が、見えないところに行ったとしても居なくはならないことを習得していきます。
これらは皆、次の一歩を踏み出すための『ため』を作っていることになるわけですから、少しだけ赤ちゃん方向への後戻りを意味しています。だから、これらの行動が長く続いてしまうことは、その長引いた行動そのものが問題なのではなくて、その背後にある後戻りせざるを得ない状況に、何かの問題がありはしないかと考えることができるのです。
子どもの不安と「いつも」
ここでこの時期の不安を私なりに定義しておくと、『成り行きが見えない未来に脅かされること』となります。したがって事の成り行きを見通す力を着けた子どもたちは、少しずつ不安に対処することができるようになります。
見通しを持つ能力は、それから先もずっと進化を続けていくことになりますが、その最も単純な形態は「いつも」という見通しなのだろうと考えられます。「いつもはこうだ」ということがわかっていれば、安心して事態に臨むことができることになります。
自閉的な傾向がある子どもたちの「こだわり」も、この「いつも」がないと納得がいかないという、不安への彼らなりの対処法なのではないかと、個人的には考えているところです。
新型コロナと不安
今回の新型コロナ感染症パンデミックは、私たちの社会に激震をもたらしましたが、子どもたちの世界も実は静かに大きな影響を被っていました。私の観察では、社会の機能が大きく停滞して1ヶ月が過ぎたあたりから、子どもたちの間に普段より母親にベタベタしたり、できるはずのことができなくなったりという、軽く赤ちゃん返りをした行動が目立つようになりました。そしてこのことが子どもの不安のありようを示しているように思うのです。
こうした場合の対処法は、当然ですが赤ちゃん返りした行動そのものを止めることではなく、その不安をもたらす環境の変化への対処です。子どもの不安のほとんどは新型コロナウィルスそのものから以上に、パンデミックがもたらした社会の変化から来ていると思われるからです。
流行が始まってかなり早い段階で、日本では学校が封鎖されました。この対策が有効だったのか否かについては今後の検証を待つしかありませんが、子どもたちにとってはいきなり学校という日常が奪われた形になりました。「いつも」という解決策が見えなくなることが、子どもたちにとって大きな不安をもたらすことは、前の節で見た通りです。学校が復旧し、子どもたちの重要な「日常」が戻ってきたように見えますが、再流行のリスクが去らない現在では、まだまだ彼らの日常感覚が安心を確認できる状況にはなっていません。
子どもたちにとって見えにくいものはまだ他にもあります。例えば、危険だと言われながら、危険な相手が見えにくいこと。これはウィルス感染の特徴でもありましょうが、市中感染の危険が高い今回のパンデミックでは、多くの楽しみが制限されながら、本当の危険が見えていません。危険な人がどこかにいることははっきりしていても、誰が危険なのかは見えていない状況なのです。ゾンビもののホラー・ムービーや、一部の子どもたちの間で流行っている人狼ゲームと似たような状況かもしれませんが、自分も感染していて他人にうつしてしまう危険があるのかもしれないというこの状況は、さらに込み入った不安状況を生み出しているようです。
また、この状況がいつまで続くのか誰にも予想ができないこと、これが不安をさらに大きくしています。人間の英知を集めても、再流行があるのか、パンデミックの終息がいつどのような形でもたらされるのか、全く予測がつかない状況が続いていますし、まだしばらくは変わることがないでしょう。子どもたちにとっては、大切な日常がいつになったら戻ってくるのか、いつもならあてになる大人に聞こうが、ネットで調べようが、だれも教えてくれない状況なのです。
診察室にやってくる子どもたちに「この先どうなると思う?」と聞いてみると、彼らが情報の受け売りではなく、自分たちの感覚で捉えた現実感がよく伝わってきます。その多くは「先生、ワクチンができたってそんな簡単には収まらないよ」といった、とても現実的なものです。「不安だねえ」と尋ねると、「別に、そんなに」とかわされてしまいますが、言外には「そんなに不安がってもしょうがないじゃない」と諭されている気がしてきます。
不安を生き延びる
直接のコミュニケーションが大きく制限され、平素であれば力になるような手段の多くに頼ることができないこの時代を、私たちは子どもたちとともにどのように生き延びたら良いのでしょうか。私はここで、敢えて最も必要だと思う一つのことだけを申し上げておきたいと思います。それは、子どもたちにとってまだ見えにくい状況を見えるものにしていく、その作業に私たちは今、真剣に取り組まなければならないということです。
再開した学校は今、数ヶ月の閉鎖で後れを生じてしまった教育課程を挽回する事に躍起になっています。学ぶべき内容が絶対化されてしまう事によって生じている事態だと理解できますが、今学ぶべき事はそのことなのだろうかという疑問が、私の頭を去らないのです。
本当に知りたいと思うことを学ぶ時に、人の知力は最大限に発揮されるはずです。だとすれば正にこの時に、今起きているパンデミックについて集中的に学ぶということをどうしてさせないのでしょう。その学びは、微生物から哺乳類までを含む生物とそれらが織りなす生態系について、呼吸や循環を含む人の生理や構造について、ワクチンや抗生物質を含む薬物について、ペストやスペイン風邪の流行に翻弄された世界の歴史について、貿易や格差問題を含む国際情勢について、気候を初めとする環境とその変動について等々、私たちが現代を生き延びるために必要な、お互いにつながりあった知恵の多くがそこに含まれることになるでしょう。新型コロナウィルスそのものについては、まだわからないことがあまりにも多いのです。しかし、未知の将来を迎え撃つ方法は、これらの膨大なすでにわかっていることを共有するところからしか生まれてこないはずなのです。それこそが人が築いてきた英知というものだからです。そこには多くの誤認や失敗の歴史も刻まれていますが、それらも率直に見据えるところからしか希望は見えてこないのではないでしょうか。
子どもたちのために、これらの内容をわかりやすく説くことは確かに難しい作業かも知れません。しかしそのような作業こそが、見えないものを見えるようにし、不安を減らして今の状況を生き抜く力を与えてくれる知恵なのではないでしょうか。
子どもの学びの場である学校が、こうした作業に取りかかることは難しいことなのかもしれません。しかしどうしてわれわれは子どもが学ぶということを、学校だけに任せきりにしているのでしょうか。
私たちはさらに強力な微生物の出現によって、人類が滅亡する可能性を見てしまったのかもしれません。この幻想が単なる『不安』に終わらないためには、つまり根拠のない楽観ではなく、肯定的な世界観で今の不安を脱するためには、大切なことが見えてくるためにこそ自分が存在するという、肯定的な感覚が必要なのではないかと思うのです。
執筆者プロフィール
田中 哲(たなか・さとし)
子どもと家族のメンタルクリニック やまねこ院長。専門は児童精神医学。子どもの生活に根を下ろした臨床実践を目指している。
▼ 著書