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孤独の光明(駒澤大学心理学科教授:藤田博康) #孤独の理解

今、自分はひとりぼっち、誰も助けてくれる人はいない。そんな孤独な思いに胸が占められてしまったとき、私たちに何ができるのでしょうか。心の闇から抜け出す手立てはあるのでしょうか。藤田博康先生にお書きいただきました。

孤独の苦しみ

 孤独は人を不安にさせ、苦しめます。孤独によって私たちは、淋しく、恥ずかしく、みじめで、世間から取り残されたような、なんだか生きる価値のない人間になったような、そんな気持ちに追い込まれがちです。

 そんなとき、私たちはとにかく孤独を追い払おうとします。当面の淋しさを紛らわせようとスマホに頼ったり、手っ取り早く誰かとつながっていることを確かめようとしたり、ひとりぼっちにならないように過剰に周囲に気を使ったり、その他さまざまな手段によってなんとか孤独から逃れようと試みます。

 場合によっては、そんなふうにいろいろ手を尽くしても、孤独の苦しみが長く続いてしまうこともあります。そんな先の見えない深い孤独の中で、人は徐々に生きることに悲観的になり、希望を失い、ついには世をはかなんむようにさえなったりします。

内閣府のメッセージ

 そんなふうに孤独はひどく私たちを苦しめるものですが、ただ、それも故のないことではありません。私たち人類は歴史上、生命を脅かすようなさまざまな危機や困難を生き延びるために、互いに力を合わせて、協力して暮らしてきました。かつて、私たちが孤立することは、すなわち生活や生命が脅かされることを意味したのです。だから、私たちが孤独を怖れ、それを焦って回避しようとするのはそもそも自然なことです。とりわけ日本という国は、共同体の価値基準が、言い換えれば世間体や周囲に受け入れられるかどうかが、個人の考えや行動や幸福感に大きな影響力を持つ国ですから、孤独を怖れ、孤立を避けようとする性向はよりいっそう強くなります。日本人の自殺率の高さには、強い孤立感や孤独感によってもたらされる悲観や希望の喪失がその背景にあります。その対策の一環として、内閣府に孤独・孤立対策担当室が設置されたのは皆さんの記憶に新しいことだと思います。そこでは、「孤独のときは、誰かに相談して悩みを打ち明け、一緒に考えてくれる人とつながる」のが大切というメッセージが打ち出されています。

より深刻なダメージを与える孤独

 でも、孤独やそれによる不安は、そもそも自然で人間性に根ざしたものであり、私たちの心の中から抹消することはできません。子どもには子どもの、若者には若者の、大人には大人の、老人には老人の、それぞれの状況に応じたそれぞれの孤独があり、その不安や苦しみから無縁な人はいないはずです。

 周囲に誰かがいるから、家族と暮らしているから孤独ではないとは限りません。むしろ逆に、周囲に他者がいる状況での孤独、孤立感はいっそう身に堪えるものです。とりわけ、本来、親密で分かり合える間柄であるはずの夫婦や親子などの家族間での孤独や孤立は、ひどく苦しく耐えがたいものです。家族やそれに近い情緒的な癒しが期待される関係における強い孤独感は、私たちに深刻なダメージを与え、私たちを思いもよらない行動に駆り立てることがあります。自ら命を絶ってしまったり、誰かをひどく恨んで取り返しのつかない事態に至ってしまうような破滅的なできごとの背後には、そんな深い孤独が潜んでいます。

逆説的ジレンマ

 では、孤独が私たちに一生つきまとうものだとすれば、いったいどうしたらいいのでしょう。内閣府のメッセージのように、誰かとつながることで孤独が癒されればそれでいいのですが、それは一時的なものにすぎず、根本的な解決にはならないかもしれません。

 運よく、あなたの孤独に寄り添ってくれる人がいたとしても、現実的にあなたが孤独や不安になったときに、いつでもその人を頼りにできるわけでもないでしょう。そもそも相手には相手の事情があり、人は互いに分かり合えないところがあるのも当たり前なので、誰かに孤独の苦しみを分かってほしい、癒してほしいという期待は、十分にかなえられないことが普通なのです。なので、誰かに優しい共感や癒しを求めることで、逆によりいっそう孤独感が強まってしまうということが思いのほか多く、その逆説的なジレンマは、しばしば深い孤独に苦しむ者を絶望に追い込んでしまう引き金にもなります。

孤独を生きる

 だから、私たちは周囲の誰かとか、周りの状況にあまり左右されない、孤独を生きる方法を身につけておく必要があるのです。

 孤独が私たちの人生にずっとついてまわるのであれば、それを受け入れて、なにはともあれ、孤独と共に生きていこうと覚悟しましょう。そう心に決れば、孤独の淋しさを感じることはあっても、希望を失うことはありません。いったんそう覚悟しさえすれば、やれること、やるべきことはおのずから見えてきます。

 このとき、孤独の淋しさを焦って消し去ろうとしてはなりません。それらを自分の正当な感情、自分の中の大切な一部分として認めてあげて、そのうえで、仮にこのままの孤独感が続くとして、いったい自分は何をやりたいか、どう時間を過ごしたいか、どう生きていきたいかを真剣に考えるのです。誰かから自分を受け入れてもらうためとか、周囲とつながるために何をやろうか、何をやるべきかではありません。たとえ、このままずっと一人ぼっちだったとしても、私はこれをやりたい、こう生きていきたいというものを本気で探すのです。もちろん、それはすぐには見つからないかもしれません。きっと今までは誰かとつながるためとか、人から認められたい、受け入れてもらいたいという思いが優先していたはずですから。

 でも、今日からは孤独の助けを借りて、今の自分と向き合って、自分のことをよく見てあげて、いったい自分が何をしたいのか、人生をどう生きようとしているのか、自分は何を生きる証にしていくのかを考えていくのです。

 そうやって、本当の自分を知り、本当の自分の人生を生きる旅に出るのです。それはすなわち、ほかならぬ自分と親しくなり親密になる旅路です。スマホやかりそめのつながりで、せっかくの旅立ちのチャンスを逃してしまうのはもったいないことです。

必ず見えてくる

 そう本気で覚悟した人には、自分の進むべき新たな道筋が必ず見えてきます。そして、不思議とそのための気づきや出逢いに導かれます。

 よくあるのは、自分の本当に好きなこと、大事にしたいことに気づき、それを大切に日々を生きていくようになること。それは、人よりうまくできるとかできないとか、自分の能力を周りが評価してくれるとか、社会的に価値があるとかないとか、そんな次元ではなくて、それをやっていると、それに触れていると、それを想っていると、たとえ一人ぼっちでも自分が自分らしく居られ、生まれてきてよかった、生きててよかったと思えるようなこと。

 そんな『ひとり〇〇〇』との出逢いは、あたかも、いつでも自分のそばに寄り添ってくれる「親友」との出逢いです。

孤独を通じて出逢えるもの

 孤独を通じて、私たちは自分自身と親しくなれるのです。むしろ、孤独でなければ、本当の意味で自分と出逢い、自分と親密になる機会はありません。そして、自分と親密になれなければ、どんなに人との付き合いやつながりが多かったとしても、本当の意味で他者とは親密になれません。そして、孤独を見ないように感じないように紛らわしてきた、これまでの日々が続きます。

 自分の中の孤独を大切にして、自分自身と親しくなっていくと、自分の限界も、嫌だったところも、見たくなかったところも、そうあらざるを得なかった事情とともに、自然と自分の中に落ち着いて収まっていきます。そして、自分の中に、これまで気がつかなかった素敵なところ、美しさ、暖かさ、かけがえのなさがあることに気づいていき、新たな次元に生きるようになります。

本当の親密さ

 その新たな自分は、周囲の人の中にも同じように、素敵なところ、美しさ、暖かさ、かけがえのなさを見ることができるようになり、人の限界も、嫌だったところも、あまり見たくなかったところも、そうあらざるを得なかった事情とともに、自然と自分の中に落ち着いて収まっていきます。そうして次第に、今まで批判的に見てきた人、許せないと思っていた人を許せるようになり、本当の幸せとは自分も周囲もそれを共に享受できるものであり、他者の犠牲や苦しみの上での幸せが決して長続きしないということも手に取るようにわかってきます。

 こうして、孤独ははからずも、私たちに本当の親密さやつながりをもたらせてくれ、心穏やかな幸せに導いてくれるのです。

 孤独は光明。

執筆者

藤田博康(ふじた・ひろやす)
駒澤大学心理学科教授 専門はカウンセリング心理学、臨床心理学。著書に『幸せに生きるためのカウンセリングの知恵~親子の苦しみ、家族の癒し』(金子書房)など。


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