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私の気持ちは、誰のもの?(熊代亨:精神科医)#もやもやする気持ちへの処方箋

近年の精神医療や精神療法の進歩には目覚ましいものがあります。
その進歩がもたらした恩恵の一方で、もやもやする気持ちまでもが「治療」の対象になる社会がすぐそこにあるのかもしれません。私たちはどんな社会を望んでいるのでしょうか?
精神科医の立場から現代社会を分析する、熊代亨先生にお書きいただきました。

 精神科医として精神医療に従事しながら、「現代人にとって社会に適応するとは何か」をテーマにブログや本を書き続けている、熊代亨といいます。今回のお題、「もやもやする気持ちへの処方箋」に関連して、いつも考えていることを述べさせていただきます。

 白衣を着て仕事をしている時、さまざまな「もやもやする気持ち」を患者さんから聴きます。うつ病の患者さんの悲観的なお話や、社交不安障害の患者さんの悩みなどは「もやもやする気持ち」という言葉がよく似合い、聞いているこちらまで気持ちがモヤモヤしてくることもあります。

 ですがそれらが精神疾患に当てはまる場合、精神科医としてなすべきことはだいたい決まっています。副作用の少ない薬や認知行動療法などが導入されたこともあって、より多くの精神疾患、より多くの「もやもやする気持ち」が治療可能になりました。

 「もやもやする気持ち」の背景としての精神疾患が研究され、治療できるようになったのはもちろん望ましい進歩でした。

 では、そうした「もやもやする気持ち」はどこまで、どれだけ治療するのが望ましいのでしょうか。

熊代先生 精神科

 さしあたり、精神疾患とはっきりわかっている患者さんの治療については、私は迷う必要がありません。診断と治療については統計学で裏付けられたエビデンスが確立していますし、患者さんの悩みが切実であることをいつも肌で感じているからです。

 ところが診察室から世間に一歩出ると、曖昧な世界が広がっています。世間を見るに、精神疾患に当てはまる二歩手前・三歩手前の「もやもやした気持ち」までもが治療しなければならない・改善させなければならないものであるような風潮が広がっているのではないか、と私は心配になります。そうやってあれもこれも治療や改善の対象となった時、私たちの気持ちはどうなってしまうのでしょう。

 たとえばアンガーマネジメント。
 アンガーマネジメントは20世紀後半にアメリカで編み出され、最近では日本でもよく耳にするようになりました。怒りの適切なコントロールをとおしてより効率的に・より快適に、そしておそらくより正しく働くにあたって、アンガーマネジメントは効果のある方法論だといえます。

 しかし社会にアンガーマネジメントが周知されればされるほど、怒りは職場にあってはならないもの、ひいては社会にあってはならないものとなります。どうしても怒りを表出しなければならない場合も、適切に加工された怒りでなければならなくなるでしょう。実際、アンガーマネジメントが知られるのと軌を一にして、日本社会も怒りのあってはならない社会、怒りを表出することが難しい社会となりました。アンガーマネジメントが広まったことで怒りが社会から締め出されようとしているのか、社会から怒りが締め出されようとしているからアンガーマネジメントが広がったのかを、ここで判断することはできません。いずれにせよ、私たちの気持ちの一部であったはずの怒りは学校や職場にあってはならないもの・改善させなければならないものになりました。そこを改善させられない学生や社員は、たとえば昭和時代に比べてずっと学校や職場に適応しづらく、疎まれやすくなるでしょう。

 マインドフルネスにしても同様です。マインドフルネスもまた、ひとりひとりの心の状態を改善し、職場の生産性や効率性も向上させます。他方、こういった方法論が普及すれば普及するほど、望ましくない心の状態はその職場で許容されなくもなるでしょう。

 正規の精神疾患にも、比較的最近になって学校や職場で許容されなくなったものが含まれています。今日、注意欠如多動症(ADHD)と診断される子どものほとんどは昭和時代には治療の対象とはなっていませんでしたが、座学の必要性の高まりやホワイトカラー的な職域の広がりとともに、治療しなければならないもの・それそのままでは学校や職場で許容されないものとなりました。

 たとえば昭和時代の小学生のステロタイプである、漫画『ドラえもん』ののび太やジャイアンのことを思い出してみてください。精神科医の司馬理恵子さんが『のび太・ジャイアン症候群』(1997)で記したように、のび太やジャイアンのような小学生はそれそのままでは現在の教室にいられません。彼らのような子どもは、すみやかに医療・福祉へ紐付けられるでしょう。

熊代先生 小学校

 うつ病が広く診断されるようになったことも、こうしたことの一環かもしれません。まだ軽症のうちにうつ病が診断されるようになったのは、早期発見・早期治療という観点からはシンプルに望ましいものです。しかし別の観点からみると、同僚や家族のメランコリーな気持ちや仕事や勉強が手につかない状態を職場も家庭も抱えきれなくなったから、いや、個人も社会も抱えきれなくなったから、以前はうつ病と診断されなくても良かった軽度の状態までもがうつ病と診断され、治療されなければならなくなっているのではないでしょうか。

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 厚生労働省の患者調査によれば、平成以来、精神疾患に該当する人の数は右肩上がりに増え続けています。グラフのとおり、高齢化に伴って認知症が増えているだけでなく、うつ病や不安障害、発達障害が含まれるカテゴリーも増加し続けています。増え続ける精神疾患をポジティブに解釈するなら、「ストレス過多な社会になったから増えた」「早期発見・早期治療の体制が整ったから増えた」と捉えられますし、もちろんそれらも事実の一端には違いありません。

 でも、私ならこんな風にも解釈したくなるのです──増え続ける精神疾患は、私たちに期待される「望ましい気持ちの状態」や「望ましい行動」の要求水準が高まり、その要求水準についていけない人が増えていることの反映ではないか、そのせいでそれそのままでは社会に適応できず治療や福祉を必要とする心の状態の範囲が広がっているのではないか──と。

 こうした趨勢は、社会のICT化やAIの発達とも無関係ではありません。たとえばtwitterは、自殺に関連する検索をしたユーザーに自殺防止センターへの連絡先を表示するようになっており、Facebookも2017年から自殺に関する投稿内容をモニタリングしています。twitterやFacebookの措置は自殺防止に役立つものだとは思いますが、程度の軽いものでも「死にたい」という言葉や気持ちを視界から締め出し、禁句にしていくものでもあります。こうなるともう、「死にたい」という気持ちは私たちのものではありません。「希死念慮」という、医療や福祉が取り扱うテクニカルタームになってしまいます。

 さらに、国立精神・神経医療研究センターが研究している心のオンラインサービス(KOKOROBO)や、SNS上の書き込みをとおして精神疾患を発見するための研究(UNDERPIN)などが実用化すれば、より簡便に心の状態がモニタリングできるようになり、と同時に改善できるようになるでしょう。しかし「改善できるようになる」とは、この場合「改善しなければならない」とほとんど同義ではないでしょうか。だとしたら、それが「改善できなければ許容されない」になるのにそれほどの時間はかからないでしょう。

熊代先生 心の監視

 「もやもやする気持ち」に対する医療やテクノロジーがますます進歩し、今よりずっと私たちの間近になった時、果たして、私たちの本当の気持ちとはどのようなものになるのでしょうね。家族が死んだ・恋人に振られた、そういった時の悲しい気持ちまでもが抗うつ薬の標的となった世界では、家族が死んでも恋人に振られても落ち込まずに働き続けられるでしょう。でも、抗うつ薬で悲しい気持ちを打ち消しながら働き続けるその人の気持ちは、いったい誰のものなのでしょう? 本人が率先して治療を受けるならまだいいとして、「職場が落ち込みを許さないから」「社会が落ち込みを許さないから」といった理由で抗うつ薬を飲まざるを得ないとしたら、もうその人の気持ちは職場のもの・社会のものと言っても過言ではないように思います。

 これまで精神医療は患者さんの悩みに応えることをとおして、社会にも貢献してきました。のみならず、時代の変化にあわせて診断も治療も変化させ、新しいニーズにも応えてきました。その歴史を否定する必要はありません。

 しかしもし、私たちに期待される「望ましい気持ちの状態」や「望ましい行動」の要求水準がますます高まり、と同時にICTやAIによって治療のテクノロジーが急激に進歩・普及した未来においては、時代の変化や新しいニーズに精神医療が引っ張られ過ぎて、やりすぎてしまわないかと心配にもなるのです。

 たとえばちょっと想像してみてください、学生や社会人のほとんど全員が常になんらかの治療やメンテナンスを施され、社会にとって望ましいとされる範囲でしか喜んだり悲しんだり怒ったりしなくなった未来が到来した時、私たちは自分の心を自分のものだと確信できるのでしょうか。 もし確信できないとしたら、その心はいったい誰のもので、誰のためのものなのでしょうか。

 10年ほど前にヒットしたアニメーションで、効率主義の異星人が「僕たちの文明では、感情という現象は稀な精神疾患でしかない」と主人公に言い放つ場面を見たことがあります。当時はその異星人の非-人間性に戦慄しましたが、最近の私には、それが他人事には聞こえません。効率性や生産性の妨げとなる感情や行動を次々に病気とみなして治療し、ICTやAIの力を借りて大規模なモニタリングまで実施する、その行き着く先が人間を人間でなくしてしまい、効率性や生産性のための部品のような存在にしてしまう未来はあり得ると思います。

 私は、精神科医は社会のための職業である以上に、個人のための職業であって欲しいので、そんな未来はご免こうむりたいです。そのためにも医療や福祉のテクノロジーが進展してもなお、私たちが私たちであり続け、人間が人間であり続けるための議論がちゃんと行われて欲しいと願います。

執筆者プロフィール

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熊代亨(くましろ・とおる)
1975年生まれ。信州大学医学部卒業。精神科医。地域精神医療に従事しつつ、ブログ『シロクマの屑籠』にて現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信し続けている。通称“シロクマ先生”。著書に『ロスジェネ心理学』(花伝社)、『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書)、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』『何者かになりたい』(イースト・プレス)など。

▼著書


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