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この社会の安心とは(森 真一:追手門学院大学社会学部教授)#私が安心した言葉

今回のテーマの1つである「安心」。不安にあふれているこの社会において「安心」とは何なのでしょうか?
社会学がご専門の森真一先生に現代社会の安心とは何か、そして安心と言葉の関係についてお書きいただきました。

1.私が安心したことば

 私のテーマは「この社会の安心とは」なのだが、その話に入るまえに、今回の特集のテーマ「私が安心したことば」を紹介しておきたい。

「自分の苦しみや喜びを、聴覚を通じて聞き取った者がかつていただろうか」。

 これが、その「私が安心したことば」である。

 いきなり意味不明で申し訳ない。これは、ミシェル・アンリという人の『キリストの言葉――いのちの現象学』(武藤剛史訳、白水社、2012)に書かれていることばである。

 「自分の苦しみや喜びを、聴覚を通じて聞き取った者がかつていただろうか」。

 アンリがそのように問いかけるのは、もちろん、「そんな人はこれまでひとりもいなかったし、今もいない」と主張するためである。苦しいとき、よろこびにあふれているとき、われわれは、自分が苦しいこと、よろこびにあふれていることがわかっている。ただし、聴覚をとおしてではなく。

 では、「自分の苦しみや喜び」をわれわれはどのようにして「聞き取った」のであろうか。この問いに答えることと安心とは、どのように関連しているのか。

 ちなみに、私は現在、安心の境地に達しているわけでもなく、つねに不安や心配とともに生きている。そんな人間が、この問いに答えることができるのかどうか。こうして不安がまたひとつ増えて(増やして?)しまった。

 ※以下、執筆直前に読んでいた、川瀬雅也『生の現象学とは何か――ミシェル・アンリと木村敏のクロスオーバー』(法政大学出版局、2019)、八木誠一『自我の虚構と宗教』(春秋社、1980)や『宗教とは何か――現代思想から宗教へ』(法蔵館、2020)の記憶も活用して執筆していることをお断りしておく。

2.安心していられない状況

 そもそも、どうして人間は安心していられないのだろうか。たとえば、新型コロナウィルスに関連する不安を考えてみよう。

 ウィルスに感染した人が、病院のベッドで苦しそうに呼吸していたり、せきこんでいたりする様子を、何度もテレビで観た。感染して症状がでてくると、すごく苦しくて身体がたいへんそうだ。そんな苦しい思いはしたくない。それに、自分が感染したら、周囲の人に感染させてしまうかもしれない。周囲の人につらい思いをさせてしまう。かりに自分が感染しなくても、感染者が増えて入院患者も増えれば、コロナ感染以外の病気やけがで入院が必要になったときでも、病床が空いておらず、適切な治療が受けられないおそれがある。そんなことを想像すると、安心していられなくなる。

 自分が感染し、検査で陽性反応がでて、それが知られたら、差別されたり、いやがらせを受けるかもしれない。家族や自分が所属する組織・団体を巻き添えにしてしまう可能性もある。

 感染拡大によって、ふたたび自粛要請が行政府からだされ、飲食店も休業や営業時間短縮を要請されれば、日本経済がさらに落ちこみ、倒産する会社や失業者が増え、GDPは縮小するだろう。自分の仕事も安泰ではない。給料も下がるかもしれない。いや、失業かも。そうなったら生活レベルを下げるしかない。60歳近い私を再雇用してくれるところはあるのか。そう想像すると、ますます不安になる。

森先生 写真 曇り空

3.安心させない消費社会

 このように、ふだんからわれわれにつきまとっている不安のほとんどは、頭のなかで想像することによって湧きおこる。それを「観念的不安」と名づけておく。第2節で列挙した不安は、どれも「~~になったら、××が起きるのではないか」という形式になっている。これが観念的不安である。

 この種の不安は欲望がセットになっている。「××が起きてほしくない」という欲望が強ければ強いほど、「××が起きたらどうしよう」と不安が増す。反対に、「××が起きてほしくない」などと願わないで、「××が起きても、まぁ仕方ない」とあきらめている人には、「××が起きるのではないか」という不安はそれほど強くない。

 欲望の本質を見抜いて、欲望をあきらめること。これができれば、不安は減り、その分、安心できるようになる。仏教の教えの一部は、そこにあるように思う。

 とはいえ、それができないのが凡人の悲しさである。すぐに現代の消費社会の論理にからめとられてしまう。

 現代の消費社会の論理とは、「あなたには欠けているものがあります」と人びとに想像させ、「消費によってその欠落は埋めることができます」と人びとに呼びかけ、欠落が商品購入によって埋められ、安心がえられている自分を人びとにイメージさせることで、人びとに消費させる論理のことである。

 たとえば、テレビCM。不安そうな面持ちの登場人物Aのまえに、自信たっぷりの態度で現れる登場人物B。Aに商品Xをみせて、「これがあれば、あなたに欠けている〇〇は埋められます」と笑顔で話しかける。商品Xの存在を知ったAも、不安から解放され、幸福に満たされているような表情をみせる。別のCMでは、最初から笑顔の絶えない家族を演じる人物たちが登場して、「商品Xがあるから、われわれはこんなに楽しい」といった様子をみせつづける。

 それらの映像は「あなたやあなたの家族は、こんなに自信をもって楽しく毎日を過ごしていますか? 過ごしていないでしょ? あなたやあなたの家族には、自信や笑顔や楽しさが欠けているのです。でも、商品Xがあれば、大丈夫。映像のように、自信も笑顔も楽しさも、あなたのもの」という感じのメッセージを暗黙のうちに発信している。「あなたには欠落しているものがある」とわれわれに想像させ、観念的に不安にさせる効果を狙っているわけである。

 自信や笑顔、楽しさのほかにも「あなたには幸福が欠けている、健康が、個性(自分らしさ)が、充実した人生が、承認が、感動が、友人が、体験が、やせた身体が、思い出が、つるつるでシミのないお肌が、親身になって相談にのってくれる他者が、意欲が、成長が、いい睡眠が、ワクワク感が、力が、愛してくれる人が、夢と希望が、若さが、生き甲斐が、安心が、欠けている……」とわれわれに想像させようとする。

 テレビCMだけでなく、ドラマや映画、アニメ、インスタグラムやYouTubeなどなど、さまざまなメディアやコンテンツをつうじて、視聴者は欠落を想像させられる。

 商品Xには、24時間対応の損害保険、歯周病予防歯磨きペースト、自己啓発本、エコカー減税対象のファミリーカー、サプリメント、ゲームアプリ、笑顔で相談にのる薬剤師のサービス、ファストフード、三ツ星レストランでのディナー、アニメ映画、子どもの個性に合わせて指導するマンツーマン学習塾での授業、旅行、レンタルフレンドといった代行サービス、死者の思い出を遺族たちが笑顔で語りあえる場を提供する葬儀、その他が入る。

 欠落を想像させられ、不安にさせられたわれわれは、われわれを不安にさせた相手から、欠落を埋め安心させてくれるものを、お金と交換に手に入れる。まさにマッチポンプである。

 安心はお金で買う商品であるかのようになっている。つまり、この社会の安心とは商品なのである。

森先生 写真 広告

4.ことばの問題

 消費社会によって、絶えず欠落を想像させられ、観念的不安を煽られるわれわれ。そんなわれわれに、ことばは安心をもたらしてくれるのか。

 ことばには種類がある。まず、世界を記述することば。たとえば、私の目のまえには窓があって、快晴の空がみえる。このことをもとに、「2020年12月6日、12:47、神戸の空は快晴である」と表現すると、これは、私にみえる世界の一部を記述したことばである。

 つぎに、世界を説明することばがある。たとえば、「日本付近は西高東低の冬型の気圧配置になっており、大陸から張り出した高気圧に関西地方は覆われたために、神戸の空は快晴になっている」ということばは、神戸の空が快晴である理由(因果関係)を説明していることばである。そして「天気がいいのに私が部屋にこもっているのは、この原稿をしめきりまでに完成させるためだ」と書けば、私が部屋にいる理由(目的)を説明することばとなる。

 3つ目に、世界を解釈することばがある。上の、私が部屋にこもっている理由(目的)を説明した文章を読んだ人が、この文章から「この人は原稿執筆に追われて、たいへんなのかな」という意味を読みとって、それを口にしたり書きとめたりすれば、そのことばは解釈のことばといえよう。

 われわれはことばで世界を記述・説明・解釈し、そのことばをたがいにやりとりする。こうして人間世界が成りたっている。

 このとき、ことばによってわれわれは、世界を「もの」のようにみなす。「もの」は、われわれの主観とは無関係に存在しているとみなされている。「もの」は客観的に存在するとみなされるのだ。たとえば、この原稿を書くのに使っているパソコンは、私が外出しているとき、私にはみることも触れることもできないが、だからといってこの世から消えてしまったわけではなく、帰宅すれば、またみることも使うこともできる。つまり、私の主観とは関係なくパソコンは存在していると私は想定しているわけである。おなじく、「西高東低の気圧配置」なる「もの」が客観的に存在する、とも想定している。そのような気圧配置のときは大陸から冷たい空気が日本列島に流れこむという法則が、「もの」のように客観的に存在する、とも考えている。

 自分についても、同様である。われわれは、自分という「もの」があるとみなしている。その中核を占めるのは、イメージとしての自分、観念としての自分、である。

 われわれは、自分で自分をみることはできない。そこで鏡に映して、そこに映っている鏡像を自分(の顔や容姿)とみなす。

森先生 写真 鏡

 さらに重要なのが、他の人間という「鏡」である。われわれは、自分の性格や価値を映しだす「鏡」として、他者の表情や態度、言動に関心をむける。他者が笑顔をみせてくれると、なんだかいい気分になる。他者のその反応から「よい自分の姿」を想像するからである。SNSの「いいね」も他者の反応であり、「いいね」が増えると、自分にむけられる笑顔の数が増えているかのようにわれわれは想像する。

 笑顔はなにもことばを発しているわけではない。けれども、事実上、自分を肯定してくれることばとして、われわれは受けとっている。

 こうして、われわれは「鏡」から、自分を肯定的に評価することば、自分にむけられる憧れのまなざしや好意的な態度を引きだそうと努力する。この事態を、人によっては「承認欲求」ということばで説明するだろう。

 いずれにしても、他者という「鏡」が発することばをもとに、自分という「もの」があると、われわれは想定しているがゆえに、その「もの」としての自分の価値をより高めようとし、高まったことが確認できれば、よろこび、安心する。それが確認できなかったり、ましてや否定されたりしたときには、われわれは落ちこむ。日々、「鏡」は自分をどう評価するのか、不安になる。

 白雪姫を殺そうとした母親と同じ状況である。「この世で一番美しいのは、だぁれ?」と日々鏡に問いかけた母親。彼女はなぜ、毎日毎日、鏡にむかって同じ質問をするのか。今日も自分が一番かどうか、不安だからである。一番かどうかを教えてくれるのは、鏡だからである。そして、「一番美しいのは、あなたの娘の白雪姫」と鏡は答え、白雪姫殺害を企てる母親。毎日「鏡」を気にしながら観念的不安につきまとわれているわれわれに、彼女を笑うことなどできない。そして多くの現代人にとって、自分の美しさを映しだす「鏡」の代表がスマホであることは、いうまでもないだろう。

5.世界のことば/いのちのことば

 さて、ようやく、冒頭のアンリのことばを話題にできるところにやってきた。

 じつは第4節の内容は、アンリがいう「世界のことば」を私なりに言い換えたものである。「世界のことば」は、自分の外部からやってくることばである。「世界のことば」は、相対的で不確定的だ。正しいときもあれば、間違っているときもある。

 「世界のことば」は、世界を「もの」のようにみなすことばでもあった。だから、世界のなかにあっても「もの」になりえない何かは、つねに「世界のことば」から抜け落ちることになる。

 その何かとは、われわれの「生」、「いのち」である。八木誠一にならって「はたらき」と呼んでもいい。場合によっては「主観性」とも呼べる。「もの」のように客観化できない。客観化できるのは、「はたらき」が残した痕跡だけである。

 われわれが「世界のことば」を使えるのは、われわれの「いのち」がはたらいているからである。「いのち」は、「世界のことば」を使うときにも、パソコンのキーを打っているときにも、他者という「鏡」に映っている自分の姿を想像しているときにもはたらいている。この「はたらき」は、われわれが生きているかぎり、はたらいている。

 いのちは、われわれにつねに語りかけている。しかし、そのことばは「世界のことば」ではない。「いのちのことば」だ、とアンリはいう。

 「自分の苦しみや喜びを、聴覚を通じて聞き取った者がかつていただろうか」。

 このことばが意味するのは、「いのちのことば」の性質である。

 「世界のことば」は、われわれの外部にあって、視覚や聴覚など五感でとらえたものを表現する。表現された「世界のことば」自体も、視覚や聴覚等を通じて伝わる。

 ところが、「いのちのことば」は五感ではとらえられない。にもかかわらず、われわれには自分が苦しいこと、喜びにあふれていることが、わかる。ちゃんと「いのちのことば」を聞きとっている。ただし、聴覚をつうじてでもなければ視覚をつうじてでもなく。

 この経験は疑うことのできない経験である。「いのちのことば」は絶対的であって、「世界のことば」のように相対的ではない。

 安心は、この「いのちのことば」を自覚することによってやってくるかもしれない。アンリなら、そう答えるような気がする。「安心立命」とは、「いのちのことば」の自覚のうえに安心ははじめて成りたつ、というのが本来の意味ではないか。

 最後は禅問答のような話になってしまったかもしれない。「世界のことば」を使うしかないので、仕方がない。「世界のことば」では、安心の方向を示すことぐらいしかできない。

 いのちを客観的に語る「世界のことば」は世間に、いくらでもあふれている。小学校低学年でさえ「いのちの大切さ」を語る。それで安心できるなら、とっくにみんな、安心できているはずである。だれにとっても「安心したことば」とは「いのちのことば」以外にないのではないだろうか。

森先生 写真 最後

執筆者プロフィール

森 真一(もり・しんいち)
追手門学院大学社会学部教授。専門は理論社会学。世の中にある「当たり前」に対する鋭い視点や、「自己」を深く掘り下げる著書を多数出版。

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