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出会いと別れの心理学(杉渓一言:日本女子大学名誉教授)#出会いと別れの心理学

人は日々に出会いと別れと繰り返しながら、それぞれの人生を紡いでいます。その織りなす綾を、長年にわたって見続け、体験を通して研究されてきた心理学者杉渓一言先生に、今、出会いと別れについて思うことを自由にお書きいただきました。

 月一回、朝日新聞に掲載される瀬戸内寂聴さんのエッセー「残された日々」を楽しみに読んでいる。最近の寄稿の冒頭に、「人間、百歳まで生きることは、なかなか大変だと思い知った」とあった。

 寂聴さんは私と同い年である。私も大正十一年の生まれだから今年満で九十九になる。たしかに、この年まで生き延びるのはかなりしんどい。

 このしんどさは、矢張り年をとってみないとわからないだろう。佐藤愛子さんが『九十歳。何がめでたい』というエッセー集を出されて、これが超ベストセラーになったというが、「人生100年時代」の現実として共感を呼んだのも頷ける話だ。

 超高齢の日々を呻吟しながら過ごしている私に、原稿依頼が迷い込んできた。「出会いと別れの心理学」というタイトルで小論をという注文である。

 正直のところ、私は「出会い」も「別れ」も卒業し、残るは今生との別れのみと思っていた。コロナ禍の中では、新たな人との出会いも無いだろうし、親きょうだいは勿論、親友知友もすべてこの世から姿を消してしまった。目下は流行(はやり)の孤独を満喫している最中である。

 この注文は、とてもじゃないがお断りだと思ったが、待てよ、心理学にはこれまで大変お世話になっている。多くの人たちとの出会いが無ければ今の私も無いだろう。別れは苦手だが向きあうべき課題だと思い直し、ペンの赴くままのエッセーならばと、お引き受けすることにした。

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 一世紀近い人生を振り返ってみると、長い間心理学でメシを食ってきた。研究や教育の第一線は遠のいたが、その余慶で今も暮している。心理学との出会いから数々の友も得た。心理学と出会ったお陰で命も救われた。先ずはその話から始めよう。

 私が初めて心理学を学んだのは戦前の旧制高校の授業だった。当時は日独伊の防共協定が結ばれる時代背景もあって、ドイツで興ったゲシュタルト心理学が注目されていた。全体は個を超えるという考え方は、軍国主義に染められた日本の社会風潮にもマッチしていたのであろう。大正末期の自由主義や大正ロマンの残滓(ざんさい)に郷愁を抱いていた私には、馴染めない一面もあったが、コフカやレヴィンの理論に魅かれるものがあった。

 大学の心理学科に入って先ず感じたのは、ここにいる人たちとの、気脈が通じるというか、同類項というか、中学、高校の仲間とは異なった雰囲気であった。私は居場所を得た思いで学業に専念し、信頼しあう友も出来た。

 入学して一年余り、これからという時に学徒動員の号令が発せられた。昭和十八年十二月、私は学友たちと共に海兵団に入団し、海軍二等水兵となった。昨日まで金ボタンの学生服を着ていた仲間が、ジョンベラという名の水兵服に着替えて、同じ釜の飯を食うことになったのである。(因みに、海軍に入団した者は一万八千名であった)

 ジョンベラの生活も、今では貴重な思い出だが、私は間もなく海軍十四期飛行専修予備学生となり、土浦海軍航空隊に入って猛訓練を受けることになる。その後の紆余曲折は省くが、約一年後に海軍少尉となって、航空機搭乗員の心理適性検査の業務に就いた。

 私と同期の飛行予備学生は三千名程いたが、その中から四百十一名が特攻隊や海戦で散って行った。若し私が心理学の道を選ばなかったら、海の藻屑と消えた公算も小さくはなかったであろう。

 そして昭和二十年八月十五日が来た。<夏の日や玉音耳朶(じだ)に焼きつけり> この日を境に、死から生への逆転人生が始まったのだ。

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 戦後、わが国の心理学がドイツからアメリカに軸足を移すなかで、人間性心理学への関心が高まり、私はカウンセリングやグループダイナミックスの研究仲間と出会って、臨床的実践的な研究にいそしむようになった。

 カール・ロジャーズがファシリテーターをつとめる「出会いへの道」(Journey into Self)という記録映画が、アカデミー賞の作品賞を取って注目され、「エンカウンター・グループ」が各地ではやり出した。また、レヴィンの流れを汲む「トレーニング・グループ(Tグループ)」のワークも盛んに行われた。私も参加者として、ファシリテーターとして数え切れない程の体験を重ねた。

 そうした体験の中から一つ二つのエピソードを取り上げてみよう。今ではお笑い草のような話である。

 正確な年月は覚えていないが、グループワークが始まりかけた頃のことである。心理学者を中心とした指導者たちが十数名集まり、箱根のホテルに合宿して「グループ体験」をしたことがあった。その中には錚々(そうそう)たるメンバーが何人もいて、深い学びが出来るかと大いに期待したが、結局はお互いの牽(けん)制の中でプライドの壁が破れず、極く平板な結果に終ったのだった。斯くいう私も参加者のひとりとして、挫折と反省を味わったことを覚えている。

 もう一つの珍妙な体験は、大手企業の研修担当者で行ったグループでのことだ。前後の経緯は記憶にないが、車座の一人が突如裸になったのである。その真意は判然としないが、身に着けているものをすべて剥(は)ぎ取ることで何かを訴えたかったのであろう。そしてその光景は、横に座っていたメンバーを刺激し、同調圧力となって、衣服を脱ぎ出す者が続出したのであった。私は泰然?としてその場を動かなかったが、実をいえば動けなかったのかも知れない。

 人間と人間の出会いを求めるグループの輪は、悲喜交々(こもごも)の出会い体験を演出し、高度経済成長の頃の、世相の一断面を見せてくれたともいえよう。

 そもそも「出会い」とは何か? 私は心理学と出会い、出会いの心理学を学ぶことによって、この問いと出会った。百歳を目前にして、その答えは朧(おぼろ)げながら見えてきたような気がしている。

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 人生は出会いと別れの織りなす綾である。このあたりで別れの心理学に話を移すことにしよう。

 「別れ」は屡々(しばしば)演歌のテーマになるように、悲しい、淋しい、辛いなどのネガティブなイメージを伴う。なかにはスカッとするような別れもあろうが、多くの場合それはネガティブの裏返しではないだろうか。

 人との別れに留まらず、モノとの別れも難しい。「断捨離」には私も手を焼いている。モノにまつわる思い出を断ち切るには、かなりのエネルギーが要るからだ。

 わが家には祖父の愛蔵品が戦災を潜って残っている。私にとっても祖父はロールモデルだったから、簡単に捨てるわけにはいかない。私は両親とも、弟とも死に目に会えたが、祖父の最後は軍隊にいて見送れず、いまだに心残りである。

 大切な人との別れを、事実として受け容れ得心するには、相応の時間を要するであろう。そのプロセスに介入し援助的な役割を担うグリーフ・ケアは、悲嘆の奥底に再生の灯(ひ)をともす「いのちの支援」として、心理臨床に課せられた重いミッションである。

 「別れの心理学」ということで思い出した小さなエピソードがある。曽つて私が家族療法の合宿セミナーに参加したとき、最後のセッションで別れのワークを行った。それは或る意味で遊びのようなものだったが、参加者が各自の氏名を紙片に書いて灰皿に入れ、全員が見守る中で燃やしたのである。チョロチョロと燃える焔(ほのお)を眺めながら、一つの「終わり」を胸にたたむ別れの儀式(リチュアル)が、人生の句読点としての意味を持つことを学んだのだった。

 近年は葬儀も簡略化されてきたが、その形式、内容はともかく、区切りをつけて生きる知恵は、伝統文化的な意味もあり、今日の別れをしっかりと心に刻んで明日への糧とする為に、心理学的にも再認識する要があろう。

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 出会いと別れの心理学という重厚なタイトルにしては、取り止めのない半端なエッセーになってしまった。馬鹿々々しいような話を並べ立てたが、百歳老人の繰り言(くりごと)とお嗤い下さい。

 近頃、私は自分の老いに可笑しみを覚えるようになった。萎(しな)びた顔と心のシワを伸ばすには、笑いが何よりの薬である。生老病死、人生は悲劇で綴られたとしても、最後の幕は喜劇で終わりたいものだ。

 高齢化の波の中で、最近の心理学には「老年的超越」という結構な研究課題が注目されていると聞く。老化の過程で耳が遠くなったり目が翳(かす)んでくるのは当然の成り行きだが、逆に今まで見えなかったものが見えてくるという話だ。何がどう見えてくるのか見当もつかないが、もしかしたら自分を笑う自分に気付いたのはそれかも知れない。

 閑話休題。いまペンを執っている間もコロナの跳梁は続いている。先き行き不透明な日々が何時(いつ)終わるのかわからない。コロナ禍は、人生の出会いも、別れも封印し、ひたすらの蟄居を求めている。

 私たちは、人間社会へのこの歴史的な鉄槌を、どう受けとめればいいのか。そこから何を学ぶのか。冀(こいねがわ)くは、コロナウイルスとの出会いをレジリエンスの糧としながら、彼等との不可逆的な別れを、一日でも早く実現したいものである。

執筆者プロフィール

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杉渓一言(すぎたに・きよとき)
1922年東京生まれ。東京帝国大学文学部心理学科卒、同大学院修了。
日本女子大学名誉教授、一般社団法人日本産業カウンセリング学会特別顧問、NPO法人日本家族カウンセリング協会名誉顧問、日本交流分析学会名誉理事、公益社団法人日本心理学会終身会員、日本エッセイスト・クラブ会員。1998年勲三等瑞宝章受章。