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改めてアタッチメントの大切さについて考える(遠藤利彦:東京大学教授)#子どもたちのためにこれからできること

人は人とふれあうことで成長していく。そんな多くの人に共有されていたであろう概念が、揺らぐ状況が、今回生まれたようにも思われます。これからの子どもの成長に、どのような影響があるでしょうか。何に気をつけていかなければならないでしょうか。発達心理学と感情心理学がご専門の遠藤利彦先生に、子どもの心の成長に極めて重要とされるアタッチメントをテーマにお書きいただきました。

生涯の礎となるアタッチメント

 近年、心理学や教育学の領域では、人の生涯発達を支える礎として、幼少期における子どもと養育者とのアタッチメントの重要性に再び熱い関心が寄せられるようになってきています。それは、一つには、世界各地で、様々な目的を持った長期縦断研究が展開される中、大人になってからの心と身体の健康あるいは幸福感などが、子ども時代のアタッチメントの安定性によってかなり予測されるということが、実証的に示されてきているからに他なりません。

 しかし、現在のコロナ禍の状況下において、親子あるいは保育者と子どもとの関係性なども含め、人と人との物理的距離の確保が強く求められる中、子どもにおける、その本来必要なはずの緊密なアタッチメントの経験が、ややもすると希薄化してしまうのではないかと不安視する向きも一部にはあるようです。確かに、感染予防のために、身体的な接触に多少とも制約がかかることは否めないでしょう。けれども、実のところ、アタッチメントとは、単なる身体接触あるいはスキンシップとは明らかに区別されるべきものとしてあります。ここでは、そもそも、アタッチメントとは何なのかを再確認した上で、こうした状況下だからこそ、本当の意味でのアタッチメントがより強く求められるのだということ、また子どもとの関わりにおいて、私たち大人が今、心すべきことは何かということについて、少し考えてみたいと思います。

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そもそもアタッチメントとは何か?

 もともと、日本では、英語の “attachment”が、長く「愛着」と訳されてきたということもあって、それは、親と子どもの間でやりとりされる「愛情」のようなものとしてだけ理解されてきたところが少なからずあったように思います。もちろん、これが必ずしも誤りということではないのですが、この言葉の元来の意味は、英語の「アタッチ」(attach)そのもの、つまりはくっつくということです。ただし、いつところ構わず、あるいは誰彼構わずくっつくということではなくて、私たち人が、何らかの危機に接して、恐れや不安などのネガティヴな感情を経験した時に、身体的な意味でも、あるいは心理的な意味でも、誰か特定の人にくっつきたい、近くにいたいと強く願う欲求、そして現にくっつこうとする、近づこうとする行動の傾向を指して言います。

    危機などというとちょっと大げさに聞こえるかも知れませんが、例えば小さい子どもにとっては、それこそちょっと転んで痛い思いをしたり、ほんの少しの間でも部屋に一人置いておかれたり、あるいはただ初めての人に出会うというようなことだけでも、恐れや不安を感じさせる危機的状況と言えるかと思います。子どもは、そこで現に恐がったり不安がったりして、すぐに身近にいる親や保育者などに泣きながら、駆け寄ったりするかと思います。そしてくっつくことで、その恐れや不安の感情から立ち直り、また元の平常状態に戻ることができるのです。

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アタッチメントとスキンシップは別物

 ここで強調しておきたいのは、アタッチメントがくっつきはくっつきでもネガティヴな感情に結びついたくっつきだということです。逆に言えば、楽しくて仕方がなくてもっと遊んで欲しくてくっつくというのは、本来、アタッチメントという言葉では言いません。また、ただ皮膚と皮膚とがくっついて気持ちがいいというスキンシップとも全く違ったものです。親や保育者などに向かってよくアタッチメントが重要ですと言ったりすると、「それって、子どもをたくさん、また長くしっかりと抱っこしてあげればよいということですよね」などと言われてしまうことも少なくありません。しかし、アタッチメントはただ抱っこしてあげればいいというようなことではなく、あくまでも、恐い、不安、あるいは子どもの感情が崩れた時に、大人がしっかりとそれを受け止めて、元通りに立て直してあげること、そして安心感を与えてあげることなのです。

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大切なのは安心感:安心感に浸れた子どもは一人でいられる

 実はアタッチメントにおける一番の肝は、いかにこの安心感を与えられるかということであり、そのための手段はただ一つではないということです。確かに、子どもがまだ小さい場合には、抱っこなどの身体的な接触がもっとも効果的なのは言うまでもありません。しかし、たとえ抱っこがなくとも、大人は温かな表情や声で、また言葉でも子どもに安心感を与えることができます。そして、子どもが徐々に大きくなるにつれて、徐々に、身体的なつながり以上に、こうした表情や声、言葉などによる心理的なつながりの重要性が増していくのだと考えることができます。

 ここで確認していただきたいことは、子どもたちがどういう手段であれ、いったん、恐れや不安から立ち直り、安心感に浸ると、多くの場合、ごく自然な形で大人から離れ、また一人で自発的に遊び始めるということです。一度、安心感を得た子どもは、大人のもとにずっと留まって、くっつき続けるということを、大概はしないのです。そして、そこにアタッチメントの一つの逆説があります。それは、恐くて不安な時にしっかりと特定の大人にくっつき、その度ごとに安心感を確実に得られていた子どもほど、「何かあればあの人のところに行けば絶対守ってもらえるはず」という確かな見通しを持つことができるようなる分だけ、徐々に、あまり人にベタベタくっつかず、依存せずに、ちゃんと一人でいられるようになるということです。つまり、恐い時、不安な時に人と身体的および心理的に確実にくっつくことができたという経験が、子どもが一人でいられる力、すなわち自律性の発達をもたらすということです。

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子どもが安定して「安心感の輪」を回れるように支えてあげよう

    アタッチメント理論の創始者であるジョン・ボウルビィという児童精神科医は、親や保育者などの養育者は、小さな子どもにとって「安心の基地」あるいは「安全な避難所」としてあるべきだということを強調していました。子どもは特に感情の崩れがなく落ち着いている時には、養育者を「安心の基地」として、そこを拠点に活動の範囲を広げ、いろいろなことにチャレンジしながら思い切り遊び、探索や冒険を楽しむことができます。また、小さな子どもにとっては遊びと学びはまさに表裏一体ですから、この基地がしっかりしていれば、子どもは自然と自律的に学ぶこともできますし、また自分一人で何かができるという自信の感覚も身につけることができるということになります。

    しかし、その探索や冒険の最中に、遊び疲れたり、何かにぶつかって痛い思いをしたり、知らない人に出会ってびっくりしたり、自分の思い通りにならなかったりして、恐れや不安といったネガティヴな感情が生じると、子どもは、今度は、信頼できる養育者、すなわちあそこに行けば必ず慰めてもらえるはずの「安全な避難所」に一目散に駆け込もうとするのです。そして、そこで養育者にしっかりとくっつき安心感を取り戻し、感情の燃料補給を済ませると、再び養育者を「安心の基地」として勇敢に外界へと出て行こうとします。

    小さな子どもの日常は、まさにこうしたことの繰り返しだと言えます。ある人は、こうした繰り返しのあり様を「安心感の輪」と呼び、子育てや保育の基本は特に難しいことではなく、この「安心感の輪」をごく普通に子どもに経験させてあげることなのだとしています。ここで注意していただきたいのは、基地や避難所は基本的にはどっしりと構えてあまり動かないものだということです。つまり、養育者の子どもに対する、そうあって然るべき関わり方は、必ずしもいつも子どもの後を心配してついて回ったり、先回りして子どもがいやな思いをしなく済むようにしてあげることではなく、子どもの自律的な活動を背後から温かく「見守る」こと、そして「応援する」こと(=「安心の基地」としての役割)、しかし、子どもが恐れや不安などのシグナルを送ってきたり、自ら駆け戻ってきたりした時には、今度は可能な限り、その気持ちに「寄り添う」こと、そしてその崩れた感情をしっかりと元通りに「立て直す」こと(=「安全な避難所」として役割)なのです。

    このコロナ禍の状況下で、子どもたちはいつもと違った生活を強いられ、多少ともネガティヴな感情の経験が増える傾向にあると言えるかも知れません。しかし、だからこそ、私たち大人は、本来のアタッチメントの基本に立ち帰り、子どもたちが「安心感の輪」を思い切り、また円滑に回れるように支えてあげたいものです。

執筆者プロフィール

写真(遠藤利彦)

遠藤利彦(えんどう・としひこ)
東京大学教授。専門は発達心理学・感情心理学。養育者と子どもの関係性と子どもの社会情緒的発達、感情の進化論・文化論などを研究テーマとする。著書に『赤ちゃんの発達とアタッチメント』(ひとなる書房)『「情の理」論』(東京大学出版会)など多数。