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優生思想と伴走した知能検査(立命館大学総合心理学部教授:サトウタツヤ) #誘惑する心理学

知能検査は個人を理解し、必要な支援を提供するのに役立ってきました。しかし、知能検査は、そもそもの開発者の意図から離れて使われたという過去もあります。社会にとって、知能検査とはどのようなものだったのでしょうか。学問と社会のあり方を考える一つの視点がそこにあります。今回は、優生思想とともにあった知能検査の歴史、および社会と学問のあり方をテーマに、サトウタツヤ先生にご執筆いただきました。

学問が社会のためになる、ということに反対する人はいないだろう。

役にたつことだけが学問ではないとか、いつか役に立つことを考えれば良いのであって今役立つかどうかだけを考えてはいけない、などという考えもありうるだろう。社会のため、というとき、私たちは社会がまっとうなものだという前提を置いている。しかし、社会がまっとうでないとすればどうだろうか? 社会に役立つということ自体、それほどお気楽に宣言できるものではない。そういうリスクがあるのならば、象牙の塔に籠もる、という選択肢もありえるが、今の時代にはそぐわない。

心理学における知能検査の開発史はこうしたことを考えるための良い素材である。アタマの良さを客観的に捉えようという試みには長い歴史がある。たとえば、ガルの骨相学(18-19世紀転換期)があるが失敗に終わった。20世紀の初頭、フランスのビネが画期的な知能検査を開発すると、西欧諸国を中心に普及していった。アジアでいち早く近代化を果たしつつあった日本においても20世紀の中頃には日本版の知能検査の開発が始まった。

今の私たちは、知能とか性格の個人差を当たり前のように理解していて、こうした個人差は人類誕生以来存在したのではないか、くらいに思っているが、それは誤解である。生まれつき優れた人とそうでない人がいるという実感は今の私たちにとってはなんとなくわかっているが、身分制度が堅固なときにはそのようなことは何の情報価もない。個人差とその測定こそが、近代という時代に必要とされたものであり、近代そのものなのだ。そして、近代によって生み出された知能検査の測定結果を用いて当時の社会を改良しようという動きも現れた。

さて、ビネによって有用な知能検査が開発される少し前の19世紀の末頃に提唱されたのがEugenicsという考え方である。私は優生劣廃学と訳している(この訳語は浸透してないのだが……)。この優生劣廃学はイギリスのゴルトンによって提唱された(彼は統計学の草分けであり、相関係数の提唱者でもある)。時間は遡るが、19世紀の後半期にダーウィンの進化論が発表され、環境に適合した種が後世に残るという意味でのnatural selectionという考え方が広まった(日本語ではかつて自然淘汰と呼ばれていたが現在では自然選択と訳されている)。ただし、その変形も現れた。すなわちこの適者が残るという考え方を人間という種の中にあてはめて考えた社会ダーウィニズムである。その代表的な論者であるスペンサーは、個人が成長するように社会も野蛮的なものから文明的なものに進化すると考え、さらに文明国が野蛮な国を支配して導くのは当然であると考えた。

そもそもビネが開発した知能検査は個人を理解するためのものであった。さらにいえば、支援が必要な個人に対して必要な支援を与えるためのものであった。だが、知能検査は社会ダーウィニズムや優生劣廃学の主張を支える役割を与えられていく。それは集団式の知能検査が開発されたことで加速した。たとえば、第一次世界大戦期には、世界中の様々な人々がヨーロッパの狭い地域に集合するという人種の見本市のような状況があった。また、アメリカではヨーロッパの様々な国や地域から移民がやってきて、ここでも人種の見本市のような状況になった。様々な人々をいくつかのカテゴリに分けて、知能検査の結果を比較すると、カテゴリごとの優劣が数値化される。たとえば、アメリカに来た移民のうち**地域から来た人たちの知能検査の得点は、++地域の人たちより高かった、というような結果が出せてしまう。そこで、アメリカでは++地域からの移民を制限しようという考えが生じた。個人を対象にした場合には、さらに(現代の視点から考えると)問題が起きた。劣った知能の持ち主には子どもを作らせない、という方針が打ち出されて国によっては法律が作られ断種手術が行われたのである。

日本でもほぼ同じ事が起きていた。知能検査の結果で他国の支配を正当化しようとしたり、知能が劣るとされた人の断種手術が行われたりしていたのである。その当時は国威を発揚し進出していく時代である。「社会のために良かれと思って」知能検査がこうした用途に使われていたのである。その当時の人々の考えを後の時代の人が指弾するのは後出しジャンケンみたいで良くないという考え方も科学社会学や科学史には存在する。だが、ライフ(生命・生活・人生)のあり方自体にマイナスの非可逆的な影響を与えるようなことについては、後世から批判が出てもやむをえないし、そうした反省なしに「社会のためだから仕方なかった」というわけにもいかないだろう。

社会のための学問、社会のための心理学、というとき、2つのことを考える必要があると私は思う。1つは社会自体が間違っていたらどうだろうか?という視点を持つことである。もう1つは誰かに対して非可逆的な影響を与えないということである。過ちをなくすことはできない。だからこそ、過去の事例を反省的に捉えて今後に活かすことが求められる。公認心理師時代の今こそ、歴史を未来に繋げる必要がある。繰り返しになるが優生劣廃学や知能検査の使われ方はその素材として重要である。

追記:優生劣廃学的な考えに対抗するには、あらゆる生の無条件の肯定と生を断ち切る全ての試みに反対する必要がある。これはかなり難しいのだが、そうした考えを形にしたのが生存学である。この生存学を提案し軌道に乗せた立岩真也氏が2023年7月31日に亡くなった。立命館大学GCOE生存学プロジェクトで共に研究することで私もそのラディカルさ(根本的に考えること)に影響を受けた。本稿を立岩さんに捧げたい。

参考文献

  • ビネ,A.・シモン,T. 中野 善造・大沢 正子(訳)(1982).知能の発達と評価―知能検査の誕生― 福村出版  

  • グールド,S. J. 鈴木 善次・森脇 靖子(訳)(2008).人間の測りまちがい 上下 河出文庫

  • サトウタツヤ(2006).IQを問う―知能指数の問題と展開― ブレーン出版 

参考サイト

サトウタツヤ 知能検査100年 ビネ 心理学ワールド第28号掲載(2005年1月15日刊行)
https://psych.or.jp/interest/mm-03/

サトウタツヤ ゴダードと家系研究 (カリカックファミリー)    心理学ワールド第48号掲載(2010年1月15日刊行)
https://psych.or.jp/interest/mm-23/

執筆者プロフィール

サトウタツヤ
東京都立大学卒業。博士(文学 東北大学)。東京都立大学助手、福島大学助教授等を経て現在立命館大学総合心理学部教授(学部長)。日本質的心理学会理事長。『日本における心理学の受容と展開(北大路書房)』『TEMではじめる質的研究(誠信書房)』『臨床心理学史(東京大学出版会)』など著書論文多数。


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