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他者と「共にある」ために(名古屋学芸大学ヒューマンケア学部講師:藤井真樹)#自己と他者 異なる価値観への想像力

自分の能力を開発しよう。自分の時間を有効に使おう。何も間違っていないように思える考え方ですが、自分のことだけに集中し過ぎると、妙に人生が窮屈になっていくように感じることはないでしょうか。自分とは違う他者と同じ場所、同じ時間を過ごす。他者と共にいる空間でこそ、起こりえることはないでしょうか。関係発達の心理学が専門の藤井真樹先生にお考えをお書きいただきました。

1.「分かる」ことと「共にある」ことの関係

 筆者は、これまで他者を「分かる」こととは別のあり方として、他者と「共にある」とはどういうことかについて考えてきた(藤井,2019)。それは、相手の内的な状態について推測や思考を働かせてそれらを同定して「分かった」と認識するあり方ではなく、本来様々なことを感受しているはずの自らの身体の次元に回帰し、その場を共にしている他者とのあいだに醸成されるその場独特な「感じ」に正直に振る舞うようなあり方といえる。

 例えばそれは、その場を共にしている者が各々、別のことをしていてもよいのである。そこには、向かい合って互いの内的な状態を「分かろう」とするある意味緊迫したやりとりはない。内的な状態を把握するという意味での「分かる」ことに固執しないことで、むしろ結果としてお互いのあり方が歯車のように噛み合って、各々に充実した時間が生きられている状態ともいえる。

 筆者は、著書(2019)の中で、「共にある」状態に関して、自分と他者という別々の主体の関係が生きたものとして息づく「ありか」としての「あいだ」という概念を木村敏の理論から援用し、この「あいだ」が自律的・未来産出的な有機的生命をもって立ち上がってくるとき、他者との「共にある」状態に開かれると論じている。

2.「共にある」ことは難しい

 この「共にある」あり方の気づきとなったのは、否が応でも人間にとっての身体というものの存在にあらためて回帰させられた実父を看病した半年間の生活であったが、これは私にとってその後も他者関係を営んで生きていく上で大きな気づきとなった。相手を「分かろう」とする姿勢はもちろん重要であるが、必ずしも「分かる」ことに重きを置かなくても他者と「共にある」ことは可能で、先の議論で言えば、他者との「あいだ」がいかに充実するかという身体的な次元で感じられることに基盤を置いた新たなあり方である。しかし、こうした他者とのあり方-ただ「共にある」-は、できそうでいてなかなかできない。

 私たちは日常的に相手に対する「分からなさ」が募るほどに、より「頭」を使って相手を「分かろう」としがちではないだろうか。実父の看病生活で他者との関わりの基盤として、身体で感受していることに身を委ねる重要性に気付かされたにもかかわらず、この経験から時を経た現在の私にとって身体の存在は再び背景化し、推測したり思考を働かせたりすることによる他者との関わりにいつのまにか舞い戻ってしまっている。

3.「共にある」場の一コマ

 その具体的な例を挙げてみよう。筆者は、子どもを育てる母親でもあるが子どもと過ごす中で常に「共にある」ことができているかといえば、難しい。例えば、娘が1歳の頃、終日二人で過ごす日などは、対応に困る娘のぐずりを避けてできるだけスムーズに1日を過ごしたいという思いから、1日の過ごし方を事前に考えておいて目の前の娘と接することが多かったが、そうした時ほど、娘は酷くぐずり私は困り果てるということがよくあった。その場に身を置く私と娘のあり方の歯車が全く噛み合わず、「あいだ」が立ち上がりもしないという感じである。そうした生活の中で、ある時「普通に過ごせば良いのだ」と気づかされた瞬間があった。

 その日は、お腹が満たされた娘が一人遊びに熱中していたことで私の方も幾分ゆったりとした心持であったせいか、自分のことをしようという思いが浮かび、それに従ってみた。目の前の自分のしなければならないこと(保育園入園準備のためのハンカチへの名札縫い付け)に取り掛かると、一人遊びをしていた娘が興味津々のまなざしでそばにやってきて私の作業に釘付けになり、作業で出た糸くずが面白かったようでご機嫌でおしゃべりしながらそれで遊び、気がつけば6枚のハンカチへの縫い付けが終わっていたのである。

 これは、育児1年目で、特に一人で育児する日には娘との時間をどう過ごすかを頭で考えながら接することの多かった私にとって、ふっと肩の荷が下りた瞬間であった。やらなければならないことが終えられたというだけでなく、いつもと違って娘とごく自然なあり方で同じひとときを過ごせた充実感とその余韻が心地よい出来事となった。まさに私と娘の「あいだ」そのものが自律的に動き出し、その流れに二人で乗っているかのようなひとときであった。

 この体験は、「共にある」ために「どう過ごそうか」と考えることが、皮肉にも「共にある」ことを阻んでしまっていたことを示唆していた。共に何かをしようとする意図的な考えや志向性のないところにむしろ「共にある」という状態は開かれやすいことがわかる。

4.「共にある」時間とは

 「共にある」ということを考えるとき、ここまで「充実した時間が生きられている」とか「同じひとときを過ごせた」などという表現を用いているように、そこには時間の流れや感じ方など、時間の問題が密接に関与している。「共にある」時間とはいったいどのような時間なのだろうか。

 時間をすでにあるものとしてでなく、作られていくものとして捉える野村(2015)は、E系列の時間を提起している。E系列の時間とは、“対話的、相互作用的(インターアクティブ)に創られる時間”(同上)である。“他者や環境と同調、同期化(synchronize)するという特徴をもち、“相互作用するもの同士がリズムを刻む”と考える。先の、「充実した時間が生きられている」とか「同じひとときを過ごせた」というのは、このE系列の時間だといえるかもしれない。野村は、この他者と同調し同期する時間の例として、“素晴らしいひととき”が生きられるクラシック音楽の演奏会の例を挙げているが、そこでの人々は聴衆も演奏者も一体となって生み出される演奏に飲み込まれるように引き込まれていき、その最中には時間の感覚などむしろない。“素晴らしいひととき”の実感として体験される。

 一方で、娘とどのように過ごそうかと考えながら接していた私はと言えば、いわば客観的な時間-B系列の時間(野村,2015)―をマネージする能動の主体と化し、娘と共に“リズムを刻む”者としては存在していなかった。いわば、「自分だけの時間」の中だけでどうこうしようと考え生きており、そこに娘との「同じひととき」が生まれるはずもなかったのである。

5.余白をもって生きること

 このように他者と「同じひととき」を過ごした実感を伴う「共にある」というあり方は、自らが能動の主体でありすぎると経験することができない。しかし、時間に追われて過ごす現代人にとっては、時間を能動的にマネジメントすることはむしろうまく生きる術として捉えられていたりする。本来であれば「共にある」ことの連続体ともいえる家族の日々の暮らし、そこでさえも、先の例で挙げたように筆者はいかに過ごすかについて時間をマネージし、それによって「共にある」ことが逆に難しくなるほどである。

 その背景には、「無駄がなく効率よく」生きたいという思いが無意識に働いているようだが、逆説的にも自らがマネージできない余白の領域でこそ、他者(や世界)との自然な交わりに開かれ、そこから得られる癒しや活力といったものに導かれるのではないだろうか。

 例えば電車に乗っている時の例を見てみよう。これは偶然乗り合わせるという受動の相が必然的に際立つ場ともいえる。高齢者がどちらともなく、たまたま乗り合わせた高齢者と親しげに言葉を交わす。表情は柔らかく笑みを浮かべその時間が少なからずお互いにとって癒しになっているかのようである。お互いどこの誰かも知らない中で言葉を交わしているわけだが、それぞれが話し手として積極的に話すというよりは、どこかリラックスした面持ちで相手の話を聴きながら相槌を打っている。聴く態勢が印象的な場として映る。

 この例以外にも、日常における偶然性や予期していなかった他者との関わりというのは、通常よりも受動の相を表にして生きることとなる。これは、帚木(2017)がまさに“答えの出ない事態に耐える力”の重要性を論じているように、早急に「分かる」ことに結論を求めず、まずはその場にいて感じられることや見えてくること、聞こえてくることに身を委ねるあり方といえ、それが結果として他者との充実したひとときをもたらしてくれるのではないかと考えられる。

6.身構えのない素の存在として他者に現前すること

 同時にこの電車での交わりが独特なのは、相手が誰であるか、この時間は何のためのものであるか、ということと無縁だということである。現代人はこうした「誰でもなく」、「なんでもない時間」を過ごすことが苦手なように感じる。私たちは自分が対他的に何者であるかという認識なしで他者と関わることが難しく、それが他者に現前する際の身構えを形成する。母親である筆者も、ある意味では母親としての身構えで子どものことを「分かろう」とし、ぐずる時間を避けようと能動の主体と化して子どもに現前する。その意味では、「誰でもない」素の自分-その場での受動の相にまず委ねる自分―で常に子どもに接しているとは言い難い。立場的な関係性の中で生まれてくる身構えなくして他者と接することもまた難しいことを思い知る。

 冒頭に挙げた実父の闘病生活の際も、ただ一人私たち家族と「共にある」と感じられる医者がいたが、医者として以前に一人の人として、私たち家族の言葉にならない声を聴き取って接してくれる人であった。こうして考えるとおそらく、医者が医者として患者に現前する以前に、他の例としては教師が教師として学生に現前する以前に等、そうした身構えのない素の存在として他者に現前することが「共にある」ためには必要なのではないだろうか。

参考文献

藤井真樹(2019).他者と「共にある」とはどういうことか―実感としての「つながり」 ミネルヴァ書房

帚木蓬生(2017)ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力 朝日新聞出版

野村直樹(2015).時間を語る―精神病院のエスノグラフィから 森岡正芳(編著)臨床ナラティブアプローチ ミネルヴァ書房

執筆者

藤井真樹(ふじいまき)
名古屋学芸大学ヒューマンケア学部講師。博士(人間・環境学)。専門は、共生人間学、関係発達の心理学、現象学的態度に基づく他者関係の記述と理解。著書に、『他者と「共にある」とはどういうことか―実感としての「つながり」』(ミネルヴァ書房,2019)