距離の近さは諸刃の剣(田中輝美:立正大学教授)#こころのディスタンス
感染症の問題は、人と人との距離を強く意識させる事態を引き起こしました。今までと違った状況から、これまでの距離感の良かったところ、悪かったところを、改めて感じた人も多かったのではないでしょうか。人との距離が心に及ぼす影響について、立正大学心理学部臨床心理学科主任の田中輝美先生に語っていただきました。
人と人との距離
「物理的な距離は心理的な距離」と言います。実際好きな人とは近くにいたいし、嫌いな人とは離れていたいと思うわけです。身体の距離の近さ・遠さは、こころの近さ・遠さにも通じるのです。
こころの距離というと、まず思い浮かぶのが対人距離です。恋人やダンスの時の密接距離、次に親しい友人など個人的な関心を話題にできる個体距離、そして個人的でない用件の会話や共同作業のできる距離である社会的距離、さらに公衆距離と、親しさや接触の個別性によって不快や不適切さを感じる距離が異なります。
今回の新型コロナウイルス感染予防策の一つとして世に広まった“ソーシャルディスタンス”ですが、社会とのつながりを断つべきというように受け止められかねないので、フィジカルディスタンス(身体的距離)という言葉を推奨している向きもありますね。
人と人との距離が近いことは良い?
一般的には、人と人との距離は物理的にも心理的にも近いほうが良いと考えられていると思います。
子どもの心身の成長にとって、養育者への愛着はとても重要なものです。とりわけ日本は乳幼児との身体接触が多いようですが、このような密接な距離の関係をもつことは子どもと養育者相互に精神的に影響します。密接距離で過ごす機会が多ければ、概して子どもは養育者に愛着を、養育者は子どもに愛情をいだきやすくなると考えられるでしょう。
学校では友人をつくることを教師から勧められます。様々な人との付き合い方を学んでほしいという教育目的もあるでしょうが、心理的に距離の近い友人がいれば困った時に助けを求めやすくなるでしょうから、教師としては安心です。大人になっても(在宅勤務推奨時に問題となりましたが)「足で稼ぐ」などのように相手と対面して人間関係を構築することでより良い仕事ができるという考え方が日本では根強いでしょう。
ですが、今回の新型ウイルスによる外出自粛要請の中で家族間のトラブルが増えたという話もあります。一般的に近いほうが良いと思われている人と人との距離も、場合によってはそうでもないようですね。
距離の近さは諸刃の剣
精神分析という心理療法では頻回(週4日、あるいはそれ以上)の面接を推奨します。閉じられた空間・一対一の対面・頻回の接触という構造で、治療者と患者の人間関係を濃くするのです。濃い人間関係になると、普段社会で取り繕っているような常識的な反応ではなく、患者さん個人の特有な反応が現れるようになります。この人は不安やストレスを感じた時にそれをどのように心の中で処理しているのか、人と接するときにどのようなパターンをとることが多いのか。治療者はそれらを、濃い人間関係の中で現れる反応から見極めてゆくのです。
治療で扱うのですから、治療対象となるネガティブな反応が現れることを期待しています。こころの距離の近さによって人の反応は、ポジティブな方向にもネガティブな方向にも、それぞれの個性をもって時には普段よりも極端なかたちで現れるわけです。外出自粛で今までよりも物理的にも心理的にも近い距離に居続けることで、「えっ?こんな言い方するんだ」などとそれまで気が付かなかった傾向が見えたり、「あれ?この言い方、しょっちゅうされるとうんざりするな」などとそれまでは気にならなかった傾向が際立ってきたり、ということがあったかもしれません。
個人空間
心理学を大学で学ぼうとしたときにだいたい最初に経験する実験の一つに、“個人空間”の測定があります。個人空間とは、個人をとりまく空間のうち、個人のプライバシーとしての空間のことを言います。実験では、立っている自分に誰かがだんだんと近づいてきます。「それ以上は近すぎる感じがするな・なんかもう気になるな」というあたりで「ストップ」と止まってもらい、自分と相手の距離をメジャーで実測します。
私たちは近くに他人がいると気になりますが、どれくらいの距離に人がいたら気になるのかと聞かれたら、すぐに答えられますか?「相手によるなあ」と思いませんか?この距離は自分と相手の関係によって異なります。相手と仲が良ければ近くまで接近を受け入れられます。相手が異性より同性の方が接近を受け入れられるということもあります。
個人空間の個人差
相手との関係は個人空間に影響しますので、近しい・親しい関係であれば個人空間は狭くても良さそうです。家族なら近い距離でも気にせず一緒にいられそうです。ですが、個人空間には相手との関係だけでなく、性格など個人的な要因も影響します。例えば親和性の高い人―他の人と一緒にいようとする傾向の高い人は、個人空間が小さい(狭い)です。自分も他の人に近寄りますし、他の人が近くにいることにあまり不快を感じません。一方内向的な人や不安になりやすい人は、個人空間が大きい(広い)といわれます。
たとえ家族であってもそれぞれの人に「ここまでは気にならない」・「これ以上は気になる」という距離に違いがあることを前提として、過ごしやすい距離を考えてみましょう。
まずは周囲の人に対する、自分の個人空間がどれくらいなのか観察してみましょう。次に周囲の人の、自分に対する個人空間がどれくらいなのか観察してみましょう。そのずれが、案外とあなたを不快にしているかもしれません。
まずは周囲の人に対する、自分の個人空間がどれくらいなのか観察してみましょう。次に周囲の人の、自分に対する個人空間がどれくらいなのか観察してみましょう。そのずれが、案外とあなたを不快にしているかもしれません。
個人空間ストレスのケア
これまで紹介してきたように、それぞれに距離に対する態度に違いがあるものです。その違いを自覚して過ごしやすい距離を取るようお互い協力することができれば良いのですが、残念ながら家族をはじめとする近しい・親しい相手とはお互い遠慮がなくなる傾向にあります。
「自分の部屋なんてないから、一人になりたいときはトイレに籠る」「アイロンかけたりする作業台周りは私の自分スペース。おもちゃも旦那のものも絶対置かせない」など、日々個人空間に踏み込まれっぱなしのお母さん達の自己防衛策を聞くことがあります。たとえ愛しいわが子でも、四六時中、特に疲れている時や何か考えなければならない時―判断を急がれている時とかに密接距離に入られるのはストレスとなります。今回のように大変なときだからこそ肩寄せあう必要があるのでしょうが、そっと一人で過ごす時間を確保してリフレッシュすることも必要でしょう。今回の外出自粛でイライラしているなと感じたママ友のお母さんが、出前でいいからと子どもたちの昼食を在宅勤務の旦那さんに頼んで外出したとのこと。「おにぎり作って○○神社(ちょっと遠くの小さな神社)まで一人で歩いてきた。みどりが気持ちいいー!」と大樹の写真つきでラインがきました。微少なストレスの蓄積は家族でも察してもらうことは難しいので、ちょっとした個人空間ストレスのケアを自分自身が意識して行ってゆくことは重要なのではないでしょうか。
執筆者プロフィール
田中輝美(たなか・てるみ)
立正大学心理学部臨床心理学科教授。ネガティブな感情との付き合い方について研究と実践を行っている。
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