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もやもやする時間の過ごし方 わたしが抱えきれるもの(堀 静香:歌人・国語教員)#もやもやする気持ちへの処方箋

例えば、自分に対する自信のなさ、相手に伝わらないもどかしさ。そんな「もやもやする気持ち」に対し、どうにか折り合いをつけてやっていくこともあれば、後悔のループにはまりこんでしまうこともあるでしょう。つきまとって離れない「もやもや」とともに過ごす時間を、国語教員の傍ら、短歌やエッセイなど活動の場を広げる堀 静香さんの目を通して描いていただきました。

 子どもをお風呂から引き上げ、身体を拭いたり寝巻きを着せたりしながら、たまたまつけっぱなしになっていた夕方のニュースを見ていた。

 「カンパネラおじさん」と呼ばれる人が出てくる。地元のちょっとすごい人を紹介するコーナーのようだ。
 本業の海苔漁の傍ら、オフシーズンはパチンコに明け暮れていたカンパネラおじさん。妻の財布からお札を引き抜いては大損をし、もういよいよパチンコはやめようかという折、ぼうっと眺めていたテレビでフジコヘミングがリストの「ラ・カンパネラ」を弾いていた。「これだ」と射抜かれまったくの未経験、当然楽譜も読めない、そんなところから七年間、毎日欠かさず七時間練習しつづけたのだという。「絶対にカンパネラ、俺は弾く」と決めて。経験者でも高難易度の大変技巧的な曲である。それを、ピアノ未経験者が毎日、七時間…。
 聞くだけでこちらが風化しそうなほど途方もない時間と、そのうえに重ねられた忍耐力にただ放心しながら、画面は地元小学校の体育館での演奏シーンへ。スピードはややゆっくりながらタッチは軽やかで、切れ目なく重なり合う音もうつくしい。つまり、とても上手なのだ。

 「夢は諦めなければ叶う」と彼が言えば頷ける。それでもやっぱり。わたしには、できないよなぁ…と思ってしまうのはなぜだろう。

 わたしは何につけても人と自分を比べてしまいがちだ。おまけに、というかだからなのか、とても嫉妬深い。とりわけ「書くこと」にかんして同世代の活躍を見れば深くふかく、底の見えない海に潜りつづけてだれの声も聞こえなくなってしまう。いつだって頼まれてもいないのに誰かと自分を勝手に比べて、嫉妬の炎を燃やしている。当然、恥ずかしいのでそんなことは言えないまま、言えなければそのもやもやはやがて渦を巻く。数々の嫉妬の渦を巻きこんで成長したその大きな竜巻を見上げながら、苦しいなぁと思う。多分、もやもやを抱えつづける自分になんだって一番、もやもやしているのだ。

 そもそも、こうした嫉妬のこころは「もやもや」というより「ざわざわ」なのかもしれない。
 「もやもやとざわざわ、どう違うと思う?」と夫に聞くと、「そんな微妙なオノマトペの違いは考えたことない」という。「短歌やってるからじゃない?」と言われ、そうなのか、いやみんな無意識に使い分けてるんじゃないかなぁ。

 この十年ほど、短歌をやっている。「やっている」というのはあいまいな述語で、つまり趣味であるとも、生業であるとも言えないということだ。力試し、とはじめた短歌の新人賞には挑戦してだいたい五年ほどになるだろうか。知り合いが受賞すれば妬み嫉みに目の前が真っ暗になって、しばらく何も手につかなくなる。嫉妬はときにやる気のエンジンにもなるが、そういうジェットコースターのような感情の高低に振り回されつづけて、つねにうっすらめまいがする。

 こういう類いの嫉妬の気持ちは「ざわざわ」で、「もやもや」はもっと広く、対人関係で起こるわだかまりを指すのかもしれない。

 久しぶりに会った友人がなんだか終始うつむきがちで表情が暗い。どうしたのかな、と思う。なんでもないおしゃべりをしながらタイミングを見て「何か不安に思ってることとか、心配なこと、ある?」と聞けば「ううん」と返ってくる。そっかぁ、と答えながら、きっとやっぱり何か抱えているんだろうなと思う。でもそう言われたら、これ以上聞くことはしない。寂しいなと思う気持ちと、踏み込もうとしてしまったというすこしの後悔がゆっくり巡る。

 思っていることが伝わらない、相手の考えていることが分からない。あのとき言っていたことって、つまりはこういうことだったんじゃないか、それならわたしはこう言えばよかったし、ああもできた。そのようにして指示語を駆使して分からないところを勝手に埋めて作り上げた仮想の他者に、さっきよりもさらにもやもやしている。

 そうして考えれば、なんだかわたしはずっとざわざわしているし、もやもやしている。
 こころのなかに空があるなら分厚い雲に覆われて、だいたい小雨が降っている。だからきっと住人はつねに傘を持ち、それでも濡れる肩や靴はいつも湿っている。住人たちは青空を知らない。嫌な世界だ。だとすればそのとき傘は、何になるだろう。風邪を引かないように、一人ひとりが身体を守るための、小さな折りたたみ傘。

 思っていることがうまく、伝えられないなと思う。ほんとうはこんなことを話したかった。こんなことを、聞いてほしかった。してほしいことばかり、気にかけてほしいことばかり、後からやってくる。

 きっと、だれかみたいになりたい、こうしたいああしたい、そういう欲望のざわざわにはけれどわたしがわたしの横について肩を抱いて、まあまあと宥めてやるしかないのだろう。よく話を聞いて、そうかそうかと頷いて、「なんも分かってない!」と言われても辛抱強く、お茶など淹れてさらに話を聞く。次第に落ち着いて、いつのまにかミスドの新しいドーナツが美味しそうだとか、この本読んだ? とかそういう別の、わたしはわたしとほがらかな話をしているかもしれない。

 しかし。もやもやはちょっと厄介だ。つねにそれは他者に対して起こる感情だから、相手にそれを伝えない限りは晴れることがない。

 ほんとうはあのときこう思っていたのだ、あなたはどうだったの、何を、あのとき考えていたの? とわたしが知りたかったことを後から聞いて、でもそれがそのとき相手にそのまま一切、伝わるのだろうか。もやもやはたいてい遅れてやってくるものだから、そこにはとり戻すことのできない時差が生まれて相手は意外と「それってなんの話だっけ」なんてきょとんとした顔で言うかもしれない。そうしたらもう、一途に思いを伝えようと試みても、なんだか虚しいばかりだろう。

 だからといって、「気になったら時を移さず聞きたいことを! 相手に聞こう!」という元気な標語を掲げるつもりはない。だって言えなかったことは、聞けなかったことはそのとき考えて言わなかったこと、聞かなかったことなのだ。その一瞬間のためらいとわたしの判断は、相手をきっと傷つけないためだった。尊重したいからだった。多分。そうだったよね? 自分にそう問うて、さあどうだったかな。そうかもしれない。でも、聞いてもほんとはよかったのかも。傷つけないで聞くことだって、できたのかもしれない。だから分からないよ。そうか。じゃあなんでそう聞かなかったのさ。だってそのときは…そういう難儀な応酬を結局は毎度、繰り返す。

 相手の気持ちを自分が分かりたいようにまるごと、分かろうとすることがそもそもはとても乱暴で狼藉、もとよりそれは不可能で、そんなことは知っている。分からないから知ろうとして、相手のまわりをうろうろしている。こんな滑稽なこと、いつまでってずっと思っている。

 だからさながら、港をゆっくり大きな船が離れるときの、あのたくさんの色とりどりの紙テープのように、いや、ほんとうにはあんな鮮やかな色ではない、ただ藁半紙のようなつまらないざらざらとした細い紙がたなびいて、わたしのなかのもやもやは、そのようにしてつねにいくつも利き手のほうに握られている。気づけばそのうち、テープは途中でちぎれていたり、風で飛んでいったものもある。

 ああ結局ずっと、今までもこれからも、わたしはもやもやするし、ざわざわしている。自分のなかでなんとかなることなら、せめてざわざわを減らしたい。「もやもや」から「ざわざわ」を取り出して区別して、それができるだけできっと、全然気分は違う。悔しくて妬ましくて、そんなことばかりでどんどん赤く膨らんでゆくわたしのことを、まあまあ、と言ってガス抜きしてやれるのはわたしだけなのだから。

 くだんの「カンパネラおじさん」に人と比べちゃってダメなんです、すぐに妬んで羨んでざわざわしてしまうんですと話したら、きっと目を丸くして「それ、楽しいのかい?」と言われるだろう。そうです、ほんとうに。人と比べても楽しかないのだ。好きなように、好きなことをしたらいいよ。おじさんは言うかもしれない。小刻みに何度も頷いて、そうだ悔しいときには悔しいと、わたしはわたしのしょぼくれた声を聞いて、肩を叩いてお茶を飲み、本を読んで人と話して、わたしの言葉をどんどんごしごし、書いてゆくのだ。

 もやもやしたら、どうしよう。もやもやするたびにわたしは狼狽えて、そうだなぁ、自分の善意を振りかざすのではなくて、相手が困っていそうなときにはそれでも「気にかけているよ」と伝えたい。日々生まれるもやもやにもいろんな種類があるけれど、相手を思う気持ちはそのまま、大切にしたっていい。分かりたい、それと同じかそれ以上に分かってほしいと思ってしまう厚かましさをいつでも携えて、けれどそれはまるきり無理なのだと何度も確かめて、それで。声をかけたりかけられなかったりを多分これからもばかみたいに繰り返すのだと思う。

 いつもそうして、手に余計な力が入ってしまうだけで、ほんとうはだれかの肩をそっと叩くように、握った拳は小指から順にゆっくりとほどけばいいのかもしれない。手放した紙テープはきっと、かんたんにひらひらと風に乗って飛んでゆく。飛んでゆけばわたしの手に固く握られていたことが嘘のように、わたしは手を軽く閉じたりひらいたり、それから遠くを見て、手を振ってみる。別に誰かがそこにいるわけではない。誰もいない海の、町の、わたしはどこへ向かって手を振っているのだろう。声を出さなければどこへも行けず、けれどすぐには掠れた音しか出てこない。何をやってるんだろうなぁと思う。おーい、と大きな声を出して、振り向いてくれる人にそのうち、わたしは出会えるだろうか。

執筆者プロフィール

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堀 静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人集団「かばん」所属。国語科非常勤講師。
晶文社スクラップブックにて「うちにはひとりのムーミンがいる」連載中。
またエッセイ集『せいいっぱいの悪口』は四刷を準備中。


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