見出し画像

社会に出る前のこころのSOS——二極化するポストコロナの学生像(文化学園大学教授:菊住彰)#こころのSOS

 多くの大学には「学生相談室」といった名称の相談窓口があります。私も相談室のカウンセラーとして学生からの相談を長く受けてまいりました。今日はある2校の事例をご紹介しようと思います。この両校の学生像は、多くの面で対照的なのですが、コロナ禍を経た社会情勢を反映して、共通の特徴がみられます。意識の面では多様な生き方を志向する傾向が、はっきりと見え始めているという点です。しかし現実の卒業後の選択という実情を比べると、両極端な方向に分かれつつあるように見えるのです。両者を比較しながら、社会に出た後の将来に対する不安と、その背景について論じていきます。
 
 A大学は創造性に富んだ学生を集め、社会に送り出すことを標榜している学校です。企業から大学に寄せられる採用情報も、デザイン性を発揮できる職種の募集が多い特徴があります。入学してくる学生も高校時に教科ごとにバランスよく学習した実績ではなく、AO入試で長所となる領域を持つことをアピールして、将来もそれを活かした進路を志向する学生が多いのが実情です。前衛的な感性を強調することが誇らしいという伝統的な気風もあいまって、多国籍の学生が集い、LGBTQの意識もすでに浸透しているという特徴があります。コロナ禍の期間には、学生が志向する業界の業績悪化が著しく、ご多分に漏れず採用実績は冷え込みました。学んだことを生産・製作の現場で活かすことはできず、異業種の販売職に就いたり、未経験のITベンチャーに身を置いて、糊口をしのいだりすることとなりました。しかし身に付いた多様性の感覚は、そう簡単に洗い流すことはできないようです。コロナの猛威が収束してきた現在の在学生は、やはり他者とは異なる自身の関心の向く先を意識し始めています。
 
 B大学は総合大学の中でも受験の“勝ち組”が集うところです。帰国子女や留学歴のある学生も多く、国際色はもともと豊かです。外資系の企業への就職も盛んで、海外勤務を経て経営の中核を担おうとする人材が輩出しています。またダブルスクールを経て資格を得て、それを武器に卒業後のライフプランを描く学生も少なくありません。コロナ禍で定着したオンライン就活やインターンシップにも適応できる社会的スキルも持っています。現在は企業の採用活動が持ち直しているという報道に触れて、多彩な領域で活躍する夢を再び馳せているように見えます。
 
 さて、ここまでお話しすると、ポストコロナの学生の前途は明るいように思われるかもしれません。確かに採用現場の人材確保のニーズは、コロナ禍の真っ只中よりは高まっています。しかも生き方の多様性に対する社会の認知も、徐々にではありますが進みつつあり、学生の選択肢が増えているという空気は漂っています。ところが私にはそうした環境の後押しが、すべての学生のモチベーションには結びついていないように思えるのです。
 
 B大学に通う学生はコロナの流行とは無関係のところで、自力で得てきた成功体験があるように見えます。大学入学前に得た称賛の経験や、受験の成功(たとえ第一志望ではなくとも周囲の評価を受けることができた体験)などがあり、それが「自己肯定感」というエネルギーとして蓄えられ、自ら前に進む原動力の素となっているのではないでしょうか。就活が近くなると、周りの動きに焦りを感じながらも、結局は自分自身で動き始めることができるのです。最初は手当たり次第でも、自分らしさと擦り合わせて道を選んでいく。その選択自体もエネルギーを必要とすることです。
 
 一方のA大学の学生は、同じようには動けてはいません。日々の授業の課題に追われているから、と学生も教員も余裕のなさを理由にします。それは事実なのですが、それではB大学の学生のほうが学校の課題が少ないかと言うと、そうとも思えません。むしろ自分で調べて、あるいは調べに出かけて行き、さらには仲間と討論して発表するといった、カロリー消費の多い課題を課されています。にもかかわらずA大学のほうは、コロナ終息の気配を前にして、社会への出口の手前で立ち往生してしまっている学生が多くいます。その背景には心の何かがあるのではないか。それがずっと気になっていました。
 
 A大学の学生たちが、その理由をこう漏らします。
「働く自信がない」。
 それを聞くと訳知り顔の大人たちは、「バイトしかしたことがないのだから、自信がないのはみんな同じだよ」などと言うものですが、そんな一般論など彼らには何の励ましにもなりません。彼らが訴える不安の背景にあるのは、「自分の得意と思っていたことや、人より関心があると思っていたことが、社会から評価された経験がない」という現実なのです。誰もが未知の未来を前にして立ち尽くすことはあるでしょう。しかし例えそうであっても、その自分を前に押し出すだけの勇気や楽観性があれば、立ち往生から転がり出すことは可能です。その勇気や楽観性の素になるのは、「自己肯定感」や「自己効力感」と呼ばれるものだと私は考えています。それが乏しく、言わばガス欠の状態だとしたら、動けない人を意気地なしとか、考えすぎだとか、精神論で貶すことはできません。なぜなら動き出すためのエネルギーの素は、成育歴の中で他者からの称賛によって身につくものだからです。
 
 現在の大学で、単なる理念としてではなく、自己肯定感・効力感を育む目的のワークショップを具体的に実践しているところは、非常勤として渡り歩いた私の知る限りではありますが、残念ながら決して多くはありません。大学生なのだから、専門科目やゼミ、卒業研究に取り組む中でそれを培うことが、大人扱いした自己効力感の育みであるという意見もあるでしょう。しかし、現実の学生像に目を向けると、それが本当にできているのは、学生自身が持つ成功体験をさらなる成功に積み上げられる学生を擁した、一握りの学校でないでしょうか。それらとそれ以外の大学とでは、コロナ禍の前後では学生が社会に出た後の将来像の描き方の格差が広がってしまったように思えます。
 
 自分が誇れるものに気付くきっかけを得て、それを自己開示する場を作り、他者からも客観的に認めてもらってこそ、自分に対する肯定感や効力感は根拠をもって心に根付くのです。すべて人との関わりの中で実現していくものと言ってもいいでしょう。一人で黙って絵を描いて、得意な料理を作って食べて、買い物をするだけでは、ただの趣味の域を出ることはなく、社会に出てからの生業にするだけの強いこだわりや研鑽の動機づけには、なかなかなっていきません。「私より上手だね」「あなたらしくて素敵だね」という言葉がけが得られてこそ、それを活かして暮らしていきたいという思いにつながっていくのではないでしょうか。
 
 コロナ禍はそうした称賛や自覚の機会を奪いました。そう言うと、「でもLINEやZOOM、オンラインゲームでも他者とは交わることができる」という反論がありそうです。もちろんそれらのツールを通して、楽しく遊び会話することはできます。しかし、顔色を窺うこともままならない状態で、自分の自慢話を披露できるでしょうか。相手の得意とすることを見出して、お世辞ではない関心と敬意をもって称賛することができるでしょうか。
 
 話を元に戻します。コロナ禍で採用が冷え込んだ時に、それ以前から自己像を描いていて、何らかの根拠となるエピソードを持てていた学生は、自分の力で選択肢を見つけて、次の居場所を開拓していこうとしました。それは親世代が歩んできた既存の進路をなぞることができなくなったのをむしろ逆手に取って、さらなる進学や留学や起業にも備えたりするものでした。「自分なら何とかなるはず」という自己効力感や、「自分は人と違う道を行ける人間だ」という自信は、それまでの成育歴に裏打ちされたものでした。そしてポストコロナの時代となり、その進路選択は以前にも増して他者と自分の違いを見据えた「非同調型」のものになりつつあることが既に伺えます。
 
 逆にそのような肯定感や効力感を育む機会に恵まれず、高校卒業時に周囲の流れに従って、あるいは親の期待に違わぬ程度に、何となく行ける大学に進学した学生は、ここにきて動けなくなってしまいました。就職戦線は売り手市場へと好転しているとメディアはいいます。学校の就職支援担当も、今が好機と学生の積極的な活動を促します。当の学生も「わかっている。やらねば」とは言いますし、後手に回ればますますチャンスを逃すことになるのも知っています。B大学の学生と同じような言葉も発します。「人と同じような就活はしない」。「私は自分のやりたいことを見つける」。にもかかわらず、フットワークはとても重いのです。まるで膝を抱えているかのようにも見える姿は、私には「見つけたいけれど見つかりそうにないから、今はそっとしておいて」というSOSに聞こえます。強い劣等感と表裏一体の、悲痛な抵抗です。
 
 多様な選択を容認する社会は、「どう生きようとあなたの勝手」という“他人事”集団ではないはずです。自分らしさを持ち得た人が、自分を大事にするために見つけた選択肢を、みんなで尊重しようという積極的な介入を旨とする社会です。逆に言えば多様性社会で他者から尊重してもらうには、自分らしさを語れることが前提となります。しかし自分に自信がなくて今の学校に流れ着きそこで過ごした学生にとっては、大事にしたい自分を探すことが、まず最初の課題なのです。就職市場が変わりつつあるとはいえ、その準備が追い付いていない自分の現実を彼らはどこかで感じて、モラトリアム=猶予を求めているように見えるのです。
 
 自分のキャリアプランを明確にする取り組みは、さまざまな学校で導入されています。ワークシートなどを利用した自己の成育歴の掘り起こしもおこなっています。彼らの劣等感は彼らの育った環境にも責任がありますので、その原因解明には意味がないとは言いません。しかし、いま一番重要なのは、「他者から承認される自己像の明確化」ではないでしょうか。過去より現在の自分を肯定する作業が必要です。そのためにはワークショップ形式などによる体験の機会を数多く提供していく必要があります。信頼できる他者がいる中でしか、本当の自己肯定感は培うことができないと考えるからです。少人数による対応が必要になり、学校側には負担になるという実情もあるでしょう。しかしこのままでは入学時点で修学意欲の差がついているばかりではなく、社会に送り出す出口でさらに大きな差がつくことになってしまいます。受け入れる社会からの再評価を得るためには、教育機関は単なる自助努力で学生自身に解決させるのではなく、適切なファシリテーションによって客観的な自己像を知る機会を与えて学生に介入する支援態勢が欠かせません。

著者プロフィール

菊住彰(きくずみ・あきら)
文化学園大学教授。専門は臨床心理学、コミュニティ心理学。大学卒業後は新聞記者として主に企業取材に携わり、人材育成や過労死の問題に関心を持つ。育児専業の主夫を経て、大学院修士課程を修了。心療内科クリニックや複数の大学のカウンセラーなどをしながら、自治体の男女平等推進区民会議委員、子ども家庭支援センター運営委員を兼務。現在は青年期のこころの成長と自立促進の支援と実践的研究に取り組む。臨床心理士、公認心理師。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!