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心理職の積極的な倫理、みんなで取り組む倫理:保身的な倫理、個人に閉じた倫理を超えて(前編)(京都大学学生総合支援機構教授:杉原保史) #心理学と倫理

心理職にとっての倫理と聞いて真っ先にイメージされるのは、守秘義務の遵守、多重関係の禁止といった、「〇〇してはならない」という消極的倫理ではないでしょうか。その一方で、それだけでは問題を回避することができないケースが多々あります。そこで、消極的倫理にとどまらず、コミュニティ全体でよりよい実践を考える積極的倫理について杉原保史氏にご紹介いただきます(全2回)。前編となる今回は臨床場面における倫理の4つの位置づけを歴史を振り返りながら抽出し、心理支援における倫理の現状を考えます。


1.心理支援にとっての倫理の位置づけ

 心理職の実践において、倫理はもっとも重要な基盤です。心理支援の実践は、理論よりも、技法よりも、エビデンスよりも、まず倫理から出発するべきものです。なぜなら、理論も、技法も、エビデンスも、倫理の視点から常に振り返って慎重に検討していなければ、それらに忠実に依拠した支援がクライエントを傷つけることがあるからです。科学的に正しいことは重要ですが、それだけでクライエントにとって有用な実践になると保証されるわけではありません。科学の歴史を振り返れば、権威ある科学者たちの専門性に基づく言説が、時にいかに人を裏切り、傷つけ、害をなしてきたかに気づかされます。公害や薬害などをめぐって、そうした例は枚挙にいとまがありません。

 当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、実はこうした倫理の位置づけは比較的最近になって出てきたものです。心理支援にとっての倫理の位置づけは、この数十年の間に徐々に変化してきました。歴史を振り返るとともに、そこから4つのモデルを抽出してみましょう。

(1)権威主義的な実践のモデル

 1970年代ごろまでは、専門家がその専門性に基づいて実践を行うとき、わざわざそれを倫理的な視点からあらためて検討する必要など、まったく考慮されていませんでした。もちろん、古代ギリシャのヒポクラテスの誓いのように、古くから対人支援専門職の倫理は存在してはいました。しかし、その位置づけは曖昧で、専門家の実践を明確に規制するようなものではありませんでした。ですから、心理職がクライエントと性的な関係になったとしても、それは単にその心理職の評判に関わる程度の問題であって、職業倫理の問題とは見なされませんでした。世間一般の人がそのことにいかに問題を感じたとしても、専門家の専門的な行為に口出しすることはできませんでした。専門家の権威は強い力を持ち、非専門家の批判を寄せつけなかったのです。このような実践のあり方は、権威主義的な実践モデルと呼ぶことができるでしょう(図1)。

図1.権威主義的な臨床実践のモデル

 この状況は1970年代に崩れ去ります。そのきっかけとなった重要な出来事の1つがタスキーギ梅毒実験でした。医師たちは、梅毒の自然経過を明らかにするために、ペニシリンの利用が可能であるにもかかわらず、説明なしに約600人の黒人男性を無治療のままに観察していたのです。この事件が契機となって、専門家の権威主義的な姿勢に基づく実践は、市民による民主主義的な監視の下に置かなければ危険であると強く認識されるようになりました(Beauchamp & Walter, 2003)。

(2)外部から監視する倫理のモデル

 1970年代以降、専門家の実践は市民による民主主義的な目によって監視される必要があるという考えが広く社会に行き渡ると、専門家自身もこうした考えに立脚した実践をせざるをえなくなります。そこで専門家集団は、そうした市民目線の民主主義的な価値を反映させた倫理綱領を自ら制定し、それによって専門性に基づく実践を自ら監視するようになりました。専門家は、そうした外部から監視する視点を自ら職業倫理として取り入れて初めて、職業的実践についての自律性を確立できると考えられたのです。

 このモデルでは、倫理的な監視の目に先立って、まず専門的な臨床実践があります。そしてそれを外部から監視するという構図になっています。そこでは倫理は、専門的な臨床実践に対して二次的なものであり、外部的なものであるということに注意してください。また、このモデルでは、専門家の加害を疑ってかかるような厳しい目でその実践を監視する姿勢が特徴です(図2)。

図2.監視的な倫理のモデル

 このモデルは現在もなお生きています。心理職の中には、このモデルで倫理を考えている人がなお大勢いるように見えます。

(3)十分に内面化された倫理のモデル

 しかし監視的な倫理のモデルは、身体医学においてはともかく、心理臨床の実践においては、なお不十分なものだと私は思います。身体医学の領域においては、倫理を、実践にとって二次的で外部的な位置に置く考え方がある程度まで有効かもしれません。たとえば、患者のことを侮蔑しながら専門的な知識・技術を用いて手術を行なっても、手術自体は有効であるということがありうるでしょう。つまり身体医療においては、専門的な実践がまずあって、それに対して二次的、外部的に倫理があるという考え方が成立しうるということです。

 しかし心理支援においてはどうでしょうか? 患者のことを侮蔑しながら、専門的な知識・技術を用いて心理支援をしたとして、その支援が有効に働くことなどあるでしょうか? その可能性はゼロではないかもしれませんが、かなり低いと私は思います。心理職の多くはこの意見に同意してくれるものと期待します。もしこの意見が正しいとすれば、そのことは、心理支援の場合、身体医学の場合よりも、専門的実践と倫理とはずっと密接に結びついているということを意味しています。

 つまり、心理支援の実践においては、専門家は倫理を、単に外部的なものとしていてはダメで、より十分に内面化することが求められているのです。心理職は、倫理を専門的実践の外部から厳しく見張るものとして位置づけるのではなく、自らの内部にあって専門的実践を導き、高めるものとして位置づける必要があるのです。このような倫理の位置づけを、内面化された倫理モデルと呼びましょう(図3)。

図3.内面化された倫理モデル

 このモデルでは、心理支援の実践は、倫理と専門性を両輪として前進するものと見なされます。心理支援の実践は、専門的な知識・技術と、倫理とを、あらゆる瞬間において常に、織り合わせながら展開されるものです。

 このモデルでは、倫理的な視点は単に有害な実践を禁じ、見張るだけのものではなく、理想的な実践へと導くものでもあります。倫理的な視点は、厳しく監視する自我異和的なものではなく、専門家のアイデンティティに統合されたものです。そして、専門家は常に自らの実践の倫理的健全性を省察しながら実践するのです。

(4)倫理を第一の基礎とするモデル

 現在の心理職の世界を眺めていると、上のモデルでも十分に進歩的であると言えるかもしれません。しかし、近年、さらに進歩的なモデルが登場しています。このモデルでは、倫理はより大きく位置づけられ、臨床実践を完全に包含しています。倫理を第一の基礎とするこのモデルは、倫理学を第一の哲学であるとしたエマニュエル・レヴィナスの影響(倫理的転回)、関係倫理(ナラティブ倫理やケアの倫理など)の影響、社会正義アプローチ(和田他、2024刊行予定)の影響などを受けたものです(図4)。

図4.倫理を第一の基礎とするモデル

 専門家は、自らが属する専門家コミュニティの常識に沿って、適切なセラピーを良心的に実施していても、なおマイノリティのクライエントを無自覚に傷つけたり、不公平な仕方で遠ざけたりすることがあります。これはタスキーギ毒実験における黒人差別のようなあからさまな差別とは異なり、より微妙で気づかれにくい種類の差別です。たとえば、相談申し込み用紙の性別欄に「男・女」の選択肢を提示して、どちらかを選ぶように求めるというようなあり方がそうです。そのような申し込み用紙を用いている心理職は、それがノンバイナリーやXジェンダーなどの方たちを傷つけたり、遠ざけたりしていることに気づいてさえいないでしょう。こうした微妙な差別は、近年、「無意識のバイアス」や「マイクロアグレッション」や「認識的不正義」といった用語によって指摘されてきたものです。

 こうした微妙な差別は、心理職が自らの文化的な特権性に無自覚であることから起こります。こうした微妙な差別の害を少しでも緩和するためには、心理職は自らの文化的な立ち位置についての自覚を深め、「文化的な謙虚さ」と呼ばれる姿勢を身につける必要があります。こうした姿勢は極めて繊細な倫理的感受性に基づくものです。

 このモデルでは、臨床実践は、何よりもまず倫理から出発します。理論も、技法も、エビデンスも、まず倫理的な視点から吟味されることが必要であるという意味で、倫理を第一の基礎に据えます。倫理的な規則を破らずに実践すればいいというような考え方ではなく、クライエントへの関わり方そのものが高い倫理性を体現したものとなるような実践を追究します。すなわち、誠実に尊重的にクライエントの語りを聴き、常に自らの関わりの適切さを省察します。その省察の視点の適切さをも省察し、自らの省察の限界をも認めます。

(5)まとめ

 以上、心理支援における倫理の位置づけについて、歴史を振り返りながら4つのモデルを抽出してみました。

 私は、現在の社会における心理職にとって、2番目の「監視的なモデル」による実践は危ういものだと考えています。最低限でも3番目の「内面化されたモデル」で、そして望むべくは4番目の「倫理を第一の基礎とするモデル」で、倫理を捉えて実践に携わることが求められていると思います。

 2番目の「監視モデル」では何が不都合なのでしょうか? その理由は、このモデルは消極的な倫理の姿勢をもたらしがちだということにあります。

 このモデルでは、専門的な実践を監視するものとして倫理的な規則(倫理綱領)が置かれてはいますが、それは心理職の専門的実践の外部にあり、専門的実践を疑惑の目で見るような厳しいものです。このモデルでは、倫理的な規則は、専門的実践を「縛る」「規制する」ものであり、心理職にとって「うざい」「めんどくさい」「うっとうしい」ものなのです。そうなると「最低限守っておけばいい」、言い換えれば「真っ黒」でさえなければいいという考え方が誘導されてしまうでしょう。グレーだったら問題ないという発想になりがちなのです。

 こうした倫理の考え方を、消極的倫理と呼びます。消極的倫理は、保身的な倫理であり、防衛的な倫理です。リスク・マネジメントの観点からのみ考えられた倫理です。消極的な倫理では、倫理的に真っ黒のケースは避けられるかもしれませんが、グレーのケースは増えてしまいます。「グレーならOKだ」という考え方は、臨床実践の質を大きく損ないます。

 職能団体の倫理委員会にせよ、裁判所での民事訴訟にせよ、クライエントが心理職を職業倫理違反で訴えるケースの多くでは、何もないところからいきなり訴えるところに飛躍するわけではありません。もやもやしたグレーのところから始まって、それについて心理職とやり取りする中で拗れていき、決裂した挙句に訴えに至るのです。倫理的にグレーの実践にセンシティブに対応できなければ、倫理問題の訴えは予防できません。

 残念ながら、現在、多くの心理職が、なお消極的な倫理の考え方にとどまっているように見えます。そのことは、倫理をテーマにした研修には、人が集まらないことに如実に現れています。多くの心理職が、倫理を「うざい」「めんどくさい」「うっとうしい」ものというイメージで捉えているように見えます。

 私は、職能団体において倫理問題に関わる中で、こんなふうに拗れる前になんとか予防できないものかという思いを強くしてきました。倫理問題を予防するには、積極的倫理の考え方をもっと取り入れる必要があります。さらには、すでに拗れ切って完全に終わったケースの「事後的な倫理判断」ではなく、現在進行中のケースにおける倫理問題の小さな兆しに取り組むための「プロセスにおける倫理判断」が重要です。また「個人の責任を問う倫理判断」ではなく、「みんなで考えて軌道修正していく倫理判断」が重要だと考えています。

 後半では、こうしたことについてさらに考えてみたいと思います。

引用文献

  • Beauchamp, T. L., & Walters, L. (2003). Contemporary Issues in Bioethics. 6th edition. Wadsworth Publishing Company.

  • 和田香織・杉原保史・井出智博・蔵岡智子 編著(2024刊行予定)心理支援における社会正義アプローチ 誠信書房

執筆者プロフィール

杉原保史(すぎはら・やすし)
プロフィール
 京都大学学生総合支援機構 学生相談部門長(教授)教育学博士
 公認心理師・臨床心理士
 日本心理療法統合学会 副理事長
 
経歴
1989年 京都大学大学院教育学研究科 博士後期課程 単位取得退学
その後、大谷大学 文学部 専任講師、京都大学 保健管理センター 講師等を経て、現職。

著書・論文
■主な著書
『心理療法統合ハンドブック』共編著 誠信書房 2021年
『SNSカウンセリング・トレーニングブック』共編著 誠信書房 2022年
『SNSカウンセリング・ハンドブック』共編著 誠信書房 2019年
『心理学的支援法』共編著 北大路書房 2019年
『プロカウンセラーの薬だけに頼らずうつを乗り越える方法』2019年 創元社
『プロカウンセラーの共感の技術』 創元社 2015年
『技芸(アート)としてのカウンセリング入門』 創元社 2012年

■主な訳書
『統合的心理療法と関係精神分析の接点』監訳 Paul L. Wachtel著(2014/2019)金剛出版
『ポール・ワクテルの心理療法講義』監訳 Paul L. Wachtel著(2011/2016)金剛出版
『心理療法家の言葉の技術』Paul L. Wachtel 著(2011/2014) 金剛出版
『心理療法の統合を求めて』Paul L. Wachtel 著(1997/2002) 金剛出版
『説得と治療』Julia Frank & Jerome Frank (1991/2007) 金剛出版