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能力主義は「良いこと」もしたのか(組織開発コンサルタント:勅使川原真衣)

私たちは日々、「仕事ができる」、「リーダーシップがある」など、能力をもとにした評価を受けながら生きています。そうした評価は一見フェアなように見えて、実は問題を個人の能力に押し付けている場合も少なくありません。今回は個人の特性を生かした組織開発に取り組んできた勅使川原真衣先生に、主に産業社会における能力主義をテーマにインタビューいたしました。


『「能力」の生きづらさをほぐす』はどのようにして生まれたか

――まずは『「能力」の生きづらさをほぐす』をご執筆された経緯についてお聞かせください。

ありがとうございます。皆さんもそうだと思いますが、小さいときから私という人間の「評価」をいろいろと受けてきますよね。「人となり」や「能力」などと一見するともっともらしく語られるものの、それって能力の「評価」なんていう大そうなものではなく、案外、「受け」の良さみたいなものじゃないか?と思うような経験がしばしばありました。つまり、人の好き嫌いのようなこととか、相性みたいな双方向に責任のある問題までもが個人に押し付けられてしまうのを肌身で感じ、能力主義をおっかなく思ってきました。だから中高生の頃は卒業アルバムで顔を見ても誰も思い出せないんじゃないかってくらい、すごく気配を殺して、自分を出せずに過ごしていたんですね、でも、今度は就活になると、急に主体性、リーダーシップ、積極性などといわれるわけです。妙な話ですよね。

能力主義は身分制に代わる社会原理だと思います。能力で人を測ることについて誰も疑っていないし、一元的な正しさってある面からみるとすっきりしていますが、格差や不平等の根源もそこにある。幼心に刻まれた能力への疑念は、歳を重ねても募るばかりだったので、その牙城を切り崩したいなと思って教育社会学の道に進みました。本当に楽しかった。

でも、教育社会学の面から能力主義を批判し続けることもできたんですけど、能力主義は学校教育の中だけの問題ではないですよね。産業構造の中で起こっていることでもあって、「誰が使える人なのか」「多くを生み出せる人が多くをもらうべきだ」といった考えが根付いています。なので、労働の世界に入って文句を言った方がいいんじゃないかと大学院のときに思って、敵地視察のつもりで思いっきり能力を売る方に入ってみようと。15年かけてやっと本を出すことができました。今は教育、社会学にプラスして、労働の面から社会の能力主義を紐解き、代案を示したいと思っています。

能力と産業社会

――おっしゃるように、求められることが学校社会の中と産業社会の中でガラリと変わるというところが、社会に出たばかりの若者たちを振り回していますよね。

本当にそう思います。以前からお話ししていますが、企業が求める人材像ランキングはやめてほしいなと思っていて。あれは組織が必要とする機能のリストであって、優劣や序列はないはずです。車に例えるなら、みんなハンドルになれ、アクセルになれ、エンジンになれといっているようなものなんです。でもハンドルが4つも5つもある車はまずい。ボディがあって、地味だけどタイヤがあって、初めて車は走るはず。それじゃまずいということをどうして誰もいわないんでしょうか。

――そういったところでは、例えばアウトプットの仕方も、文章であったり会話であったり、皆得意・不得意があると思うのですが、それらは「コミュニケーション力」なるものでまとめられてしまっていますよね。でもなかなかそれに対して違うだろうといいにくい。

きっと能力の問題にすると都合のいい人がいたんだと思うんですよね、特に権力のある側には。というのも、その個人の能力のせいにすれば責任を回避できることが多いですよね。個人の能力の問題にして、個人に無限の努力を強いて一生涯競争させるという仕組みを作れれば、権力者側、統治する側、体制側は楽です。脅かして脅かして頑張らせられたらとても都合がいい。「向上心」や「創造性」みたいなものを掻き立てることによって、非常に安泰な太ったビジネスモデルが作れる。責任の回避と誰かが潤うという仕組みが見事に能力主義で体現されちゃったのかなという風に思います。コミュ力もおっしゃる通りで、「コミュニケーション」=意思疎通といっている時点で双方向的、相互作用的な問題なはずなのに、無理やり個人に押し付けていますよね。

厚労省が出していた「雇用管理調査」にある大卒者に求める能力・資質ランキングみたいなものも、コロコロ変わっています。94年には「個性」という選択肢があったのですが、そのあとしれっと選択肢自体が抜かれたりしているんです。

――ご著書でも、ある有名私立大学の教育目標が変わっていったことを書かれていましたよね。

そうなんです。やっぱり教育も「社会で役に立つ」人材輩出が至上命令になっているので、就職力ランキングみたいなものにも縛られてしまう。そうなると大学も、あまり個性的な人ばかり輩出されても使えないといわれてしまうと困る。ただ最近はまたちょっと突飛な方に戻っていっていて、対岸の側に変わっているんです。要するに両方が必要だということに他ならないと思うのですが……。個性なのか協調なのか、二極で考えてしまいがちですが、「これ全部必要ですよね? それを一個人だけじゃなくみんなで背負うにはどうしたらいいんでしょうか?」というところに問いを持っていければいいんですけど、なかなか難しい。やっぱり個人主義的な人間観が強いんだろうなと思います。

――最終的に求められるものって、いわゆる万能性のような、どこでもうまくやれるような能力として「コミュ力」という言葉が使われているのかなと個人的には思います。

「よしなに」といわれてうまくやる力みたいなものが「コミュ力」という言葉に勝手に置き換わっていますよね。それから主体性というのも、主体的なのは言葉だけで、自分で勝手に課題発見・解決なんかしようもんなら、十中八九怒られると思うんですよ。組織の中で勝手なことするなよとか、余計なこととか言われて。ただ単に、その上司が問題だと思っていることを上司が気づくより前に自分からやってくれる、空気を読んでやるというような、すごく姑息な「空気読み力」みたいなものがそれっぽく主体性といわれてしまっているだけですよね。自分のときもそうでしたけど、それが就活という名の茶番劇の中で求められる学生さんは、本当に気の毒に思います。

能力主義の3要素

それから、能力主義って3つの不可欠な要素があるなと最近思っていて。1つには、まずは断定ですね。その人の一状態を断片的に、スナップショット的に切り取らないと分析に入れないので、「あなたってこういう人ですよね」と断定します。そのうえで、必ず他者比較します。最終的には序列化に持っていくわけです。この序列化が、ひいては排除してもかまわない人を生み出すすごい力を持ってくる。

これだけ聞くとおっかないシステムだなと思うんですけど、やっぱりポイントは、能力主義の3ステップを踏むと、勝つ人と負ける人が出てくることで。自分にも覚えはあるのですが、勝者側、気持ちよくなれた側の快楽の報酬ってものすごく大きいと思うんですよ。負けた側は、なんならリベンジしたいという素質の人もいらっしゃるでしょうけど、「みんなで協力してやりたいだけなんです」とさんざん言ってきたと思うんです。けれども、勝った人が戦いをやめない、競争の快楽を手放さない、だからずっと「コミュ力」なんじゃないかと。

能力主義に与しない心理検査の使い方

「コミュ力」については飽きたらず色んな記事が出てきますけど、最近はウェルビーイングとか、「いつもご機嫌、いつも笑顔で」とか、「仏頂面が組織を悪くする」とか。おいおい表情の問題なのか、って思うんです。怒りたいときもあるじゃないですか。それこそウェルビーイングもQOLも、表面だけ見ていたらわからないですよね。

――心理検査にかかわる出版社としてはそもそも「能力を測る」とは何なのか、というジレンマを感じることもあります。

でも、今日お伝えしたいなと思ったのは、心理検査は今でも組織開発に欠かせないということです。

レゴブロックでいったら、この人が何色のどんな形のどの大きさのブロックなのかというのは、やっぱり組み合わせる前に知っておかないとでたらめになっちゃうんですよ。よく「関係性だ」というと「じゃあ何でもいいんですか?」と言ってくる人がいるんですけど、何でもいいわけないんです。ちゃんと組み合わせないとレゴブロックもかみ合わないので、そのためにはちゃんと個人を見なくちゃいけない。特性は「擬態」しますしね。ただそのときには、心理検査は能力というあたかもないものをあるかのように見立てて序列化する道具ではないということは再三お伝えしています。能力という言葉は使わず、私は特徴とか持ち味とか、そういう言い方で心理検査をしています。断定とか序列化とか他者比較のために心理検査を使うのではなくて、組織内での合目的的な組み合わせのために活用する情報の1つにさせてほしい、という風にお願いしています。

事例から考える

例えば、ある内向的な会社員の方が直感的で大胆な感じの上司についたとします。その部下の方は、だいたいその上司に振り回された気持ちがして、裏で文句を言っているわけです(笑)。「上司の指示が長嶋茂雄のように「グンとやってガンってやっといて」みたいで困る」とか「朝令暮改だ」とか。でも上司のご本人は、それは柔軟性だ、状況を見て判断しているんだという風に言うわけですよ。実際に部下を困らせているわけですが、これが能力主義的な考えでいうと「いや柔軟性って必要ですよね」という話になって、どちらも折れることができなくなってしまいます。そこで能力の問題としてではなく、「あなたが柔軟性と呼んでいるものがあるとして、予定をしっかり把握したい部下をちょっと困らせているというのは事実ですよね」という風に、組み合わせの問題として会話に入っていくというのが私の行っている組織開発なんです。

向こうが資質を能力論として、よしあしあるものとして議論を始めてきたら、「ちょっと今おっしゃっているのって、本当に能力なんですかね? 双方向的に価値が決まる話じゃなかったですか?」と押し戻す、そういう考えと組み合わせて心理検査をやっていけるといいと思います。

――心理検査を能力を決めつけるための手段ではなく、組み合わせをする基準、見立ての基準として見ていくことが必要ということですね。発達障害についても量的に計測するアセスメントがありますが、それだけで診断を出すというような使い方はできないという事実は、心理検査を販売する出版社として発信し続けなければならないと思います。

はい。それでいうと、私は100%ADHDだと思うんですよね(笑)。クレジットカードは年に4回くらいなくすし、電車もしょっちゅう反対方向に乗る。なので私のような人は生き死にが関わるような医療の仕事とか、社会インフラの仕事などのうっかりミスが許されない仕事についちゃいけないとは思います。でもその特性自体が問題だ、とか有害だ、ということではないと勝手に言い直っていて。あるとしたら、混ぜるな危険的な組み合わせの良し悪しかと。そんな風に業務と人の特性とか、人と人、人とタスクを組み合わせるというのを一番に頭に入れたうえで、もう一度個人を見つめるという順序がやっぱり大事なんじゃないでしょうか。

人手不足の時代に

――今これだけ「人が足りない、働く人間が足りない」といわれている中で、能力主義という考え方は時代に合っていないのではないかと思います。

そうなんです。人手不足だとみんなわかっているという前提を私もよく考えます。でも、やっぱり大企業とか力のある人たちの多くが、人手不足だと思っていないんじゃないかという気がします。まだまだ人を選べる時代に生きているんだと思っているんじゃないでしょうか。そういう人たちが能力主義的な実践を続けてしまうので、いま本当のことに気付いている人は戸惑っている。人を選べるという状況と、大企業でいまバリバリやっている人の優越感が、やっぱりまだまだ能力主義を手放せない要因になってしまっているのかなという風に思います。

中小零細企業の方やそれこそ人手不足が顕在化している学校関係の方とは、この話すごくなじみがよくて。人手足りないですよね、いまいる人を最大活用しないといけないですよね、関係性で組んでいくしかないですよね、ってすぐわかっていただけることが多いんですけど、大企業の方はいまだにけっこうポカンですよ。私の本も反響を鑑みるに、中小零細企業の方や教育や保育、医療に従事されるなど、待ったなしで人材確保・活用が求められている領域で頑張っていらっしゃる方々が読んでくださっている印象です。

――中小零細の企業の数のほうがは大企業よりもはるかに多いですよね。

そうなんですよ。でもニュースとかで出てくるのは大企業の話が多いですよね。あたかも社会全体を代表しているかのように報道されるのですが、いやいやそういう過度な一般化はやめてください、と常々思います。

――産業構造的にそうなっていますよね。やっぱり、草の根的な社会運動じゃないですけど、まずは発信していくことが大事なんじゃないかと思います。

それは言いたいですよね。でも、いま苦境に立たされている方がそういう風に言うと、また勝った人が「論破」もしますし、ルサンチマンだとか言ってきますよね。ルサンチマンが負け犬の遠吠えとほぼ同義になって、社会的に異議を申し立てることを勝者の側が拒絶しているんです。それはないだろうと思います。

学者も勝者

でもこの間、朝日新聞が車座形式の対話会を開いてくださって、僧侶の松本紹圭さんという方と一緒にやったんですよ。そこには社会で傷ついた方々もお越しくださいました。発達障害と診断されて、就労支援B型に通っているが、本当にただただ刑務作業のような作業をして、給料もすごく低いと。

――たとえ障害者年金をもらっていても経済的に厳しいという当事者の話を聞くことがあります。

そうなんです。その方も生活がままならないとおっしゃっていて、車座対話でそれを突き付けられて、もうどうしたらいいかと本当に困ってしまったんですけど、これを扱っていかないと、「だから社会学は」といわれても当然だなと思ってしまいました。けっきょく学者も勝者なので。個人の問題は社会の構造から生まれているとわかったその先、つまり実践をどうにかして社会全体に広げていかないとと考えてます。

それから、最後にもう一つ。先日ある産業カウンセラーの方とお話したのですが、その方は、大変だと語る当事者の方に対峙する際、カウンセラーの立場で傾聴に徹底するとおっしゃったんです。口をふさがれた人にとっては傾聴は必要なことだと思うのですが、毒を吐いてガス抜きしてというのでは足りない部分もやっぱりあるのではないか、というお話を自戒を込めてしたんです。だから、私たちも手をつないで、サービスを一気通貫にしていかないといけないですよね。一方的に職場の悩みを聞いてもらうだけでなく、部署を変えられるのか、仕事の中身は変えられるのかとか、実際に何を変えていけるのかというところをやらないといけないですよね。

プロフィール

勅使川原 真衣(てしがわら・まい)
1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。BCG、ヘイ グループなど外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。組織開発コンサルタントとして企業や病院、学校などの組織開発を支援する。2020年から乳ガン闘病中。2022年に『「能力」の生きづらさをほぐす』を刊行 (紀伊國屋じんぶん大賞2024にて8位入賞)。2023年5月から朝日新聞デジタル言論サイトRe:Ron、大和書房ウェブマガジンだいわlog.、教育開発研究所『教職研修』にて連載中。2024年6月17日に集英社新書より『働くということ—「能力主義」を超えて』が発刊予定。

著書