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こころの距離 ――それを決めるのは何だろう(春日武彦:精神科医) #こころのディスタンス

「君との距離が近づいていく」「あなたの心が離れていく」こんなふうに歌の歌詞にも登場するように、私たちは、人の心が近づいたり離れたりすることを、実感として知っています。しかし、「では、こころの距離とは何ですか?」と尋ねられたら、どう答えることができるでしょうか。精神科医の春日武彦先生に一つの解答をお書きいただきました。

心と心

 心と心は、触れあったり結ばれたり融け合ったりします。逆に、離れたり遠ざかることもある。二人の人間の内面的な関係性は、「こころの距離」である程度推し量ることができそうです。

 とはいうものの、こころの距離といった言い回しには分かったような分からないような曖昧なところがあります。そこで「こころの距離」には、二つの要素が含まれていると考えてみてはどうでしょうか。 ひとつには、相手に対する関心の度合い。もうひとつには、相手とのあいだの信頼感。これらの複合としてこころの距離が成り立っていると理解してみたい。

 電車で隣り合って坐っている人に対して、わたしたちはほぼ無関心です。見知らぬ人物なのですから信頼感も生じない。だからこころの距離はほぼ無限大となる。いっぽう遠距離恋愛といったものは、むしろ、なかなか会えないもどかしさや苦しさが二人のこころの距離を近づけます。関心の度合いも信頼感も、おそらく誰にも負けないからでしょう。いやそれどころか、すでに故人となった人の書いた本を通して、その人と自分とがあたかもこころを通じ合っているかのように感じることすらある。著者に対する関心や信頼が、予想以上に膨れ上がったからでしょう。こころの距離は、物理的な距離とはまったく性質を異にします。

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要素が矛盾する場合(1)

 ところで、相手に対する関心の度合いと信頼感の度合い――これら双方の間には相関関係が存在しません。

 相手に対して激しい嫉妬や憎しみを覚えている場合を例にしてみましょう。嫉妬や憎しみといった感情が生ずるのは、相手が気になって仕方がないからです。無視をすれば(それはとても難しいことですが)、そもそもそんな感情など生じません。そういった意味では、少なくとも陰性感情を抱く側にとって、こころの距離は(あまりにも)近いようにも思える。

 しかし気にはなっても信頼感はまったく成立していません。ほぼゼロでしょう。そうなると、結果的にこころの距離は遠いことになりそうです。

 被害者意識の類も、自らを被害者であると主張する人は、相手(つまり想像上の加害者)に対してあまりにも過剰な関心を抱いています。そのために相手の些細な言動が「あてつけ」「嫌味」「小馬鹿にしている」「脅しを仄めかしている」等と思えてしまう。それに加えて劣等感や敵意などがバイアスとして作用すると、妄想レベルに発展しかねないという次第です。こうしたケースにおいても、信頼感の欠如がこころの距離を遠いものにしています。

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要素が矛盾する場合(2)

  さきほどとは正反対に、関心は「そこそこ」だが信頼感は成立しているといったケースはどうでしょうか。

 おしなべて、相手に関心があり過ぎるのは暑苦しいものです。束縛やコントロール願望にもつながりかねない。我が子を理想通りに育てようと過干渉し、自主性を認めようとしない親がしばしばいますが、これは先ほど述べたように関心があり過ぎて信頼感は乏しいという、いわば「憎しみの構図」に類似してしまっている。

 だが子どもに対する信頼感の厚さとペアになる形で、あえて関心を抑え気味にしたほうが子育ては上手くいきそうな気がします。「干渉し過ぎないように配慮しつつ、信頼感に重点を置く」といったちょっとクールなスタンスのほうが、良い結果を導き出せるのではないでしょうか。

 こころの距離といったテーマの場合、なぜか相手への関心度ばかりが注目されがちです。なぜなら、それは具体的に表現しやすいからでしょう。でもそれが行き過ぎると、〈ラインに5分以内に返事をしなかった ⇒ 相手に関心がない証拠!〉であるとか、〈一緒にTDLへ行こうという誘いを、その日は用事があるからと断った ⇒ 相手に関心がない証拠!〉といった具合に決め付け、どんどん相手を拘束することになる。あるいは関係性が形骸化していく。場合によっては、そのように単純な決め付けを根拠にイジメに発展することすらある。

 わたし個人としては、普段はほぼ連絡など取り合わないけれども、たとえ数年ぶりでもタイミングさえ合えば旧交を温めたり、ときには助け合ったり相談に乗ったりできるような関係性がベストだと思っています。こころの距離を程よいものにする核心はあくまでも「信頼感」であり、相手への「関心度」は必要であるもののそれに囚われ過ぎると面倒になる。そして関心度の髙さをこころの距離とイコールであると錯覚する人が多いのが厄介である。と、そのように考えています。

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家族問題との関連

    たとえばコロナによる自粛要請によって、ウィークデイの昼間から家族全員が家にいるといった事態を例にしてみます。大邸宅ならいざ知らず、いつも家族の姿が目に入る。おまけに家族同士だから遠慮がない。次第に、お互いが鬱陶しくなってきます。べつに大きなトラブルが生じているわけでもないけれど、何となくイライラする。うんざりしてくる。

 マイナスの感情が生じてきて、あたかもこころの距離は日増しに離れていくかのように映るかもしれません。でもこれはお互いが物理的に接近し過ぎているがために、逆に「適度な関心」が麻痺してしまったのでしょうね。しかし家族としての信頼感は持続しているからこそ、破綻は起きない。鬱陶しさも一時的なものとなる。ここで信頼感が欠落していて、それどころか病理性が介在しているとDVなどの問題が生じるのかもしれません。

 といったわけで、こころの距離といった捉え方は誤解を招きやすいところがあります。人と人との関係性を考察する場合には、要素を「関心の度合い」と「信頼感」の二つに分けてみるべきでしょう(ついでに申せば、おそらく引きこもり問題を解く鍵も、そこにある筈です)。そして「関心の度合い」にはいささか不健全な感情や思考が入り込みかねない余地があり、むしろ「信頼感」こそが尊重されるべきだと思います。

執筆者プロフィール

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春日武彦(かすが・たけひこ)
精神科医。専門は精神病理・家族病理。臨床のみならず、多くの講演や執筆も行い、活動は多岐にわたる。『猫と偶然』(2019年/作品社)、『老いへの不安 ――歳を取りそこねる人たち』(2019年/中央公論新社)など著書多数。最新刊は『援助者必携 はじめての精神科・第3版』(医学書院)。

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