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私は私と戦わない(菅野泰蔵:臨床心理士)#もやもやする気持ちへの処方箋

ガンと診断され大手術を受ける。それだけでも心には強い負担がかかり、また、大きく変わった術後の暮らし、リハビリ、検査の日々など、なかなか心晴れない日々が続くのではないかと推察されます。多くの人のこころを支えてきたカウンセラーの菅野泰蔵先生に、ご自身のガンの手術、その後の暮らしについて今思うことを、率直にお書きいただきました。

ガンの宣告

 いくら想定はしていても、ガンだと言われるのはちょっとショックである。痛みを覚悟していても、痛いものは痛いということだ。

 私の場合は、喉頭ガンであったので平均生存率は高い。ほとんどは良性であり、放射線で治る。と思っていたら、何と10万人に1人という希少な悪性ガンだった。一年前にゴルフで初のホールインワンをやらかした私であるが、滅多にない低確率なものをまた当ててしまった。まったく、こんなときまで引きが強いのも困りものである。

 医師は、全摘手術が一番確かと言いつつ、考える時間をくれようとした。全摘となると声帯も除去することになるからだ。しかし、私は即答した。できるだけ早く全摘手術を受けると。すぐに入院日と手術日が決まった。1ヶ月後、1月の末だ。

 後日、なぜそんなに早く決断ができたのかと問われたことがあった。

 それはひとえに覚悟ができていたからだと思う。喉頭ガンについて調べ、ほとんどは良性だが、悪性ということもありえると思っていたからである。まさか10万人に1人とまでは思わなかったが、決して楽観的だったわけではない。

 で、悪性であれば、ほぼ100%転移する。医師の勧めに従っていたら、その間に転移してしまうこともありえる。それはばかばかしい。現状でやれることは早急に転移の可能性を消すことだ。

 よくそんなに冷静でいられるねと言う人もいたが、選択肢がなければ迷うこともなく、覚悟もつきやすいのである。この「覚悟」というやつは、大きな鍵概念であるようだ。後々、私はそれを味わうことになる。

菅野先生 挿入写真 覚悟

手術後の日々

 さて手術では、腫瘍を中心に大きめの切除をし、ついでに転移しやすいリンパ腺も切除する。そして、喉に気管孔と呼ばれる孔を開け、肺呼吸の通路(気道)とする。と同時に、鼻孔と口腔は呼吸機能を失い、消化器官につながるだけとなる。面倒な手術だったと思うが、無事に成功した。

 口鼻の呼吸機能が失われると同時に嗅覚が失われた。嗅覚がなくなると、味覚もかなり損なわれる。私の場合では、辛いものが苦手になったり、白身魚などの微妙な味わいがわからなくなった。総じて、幼児的な味覚に退行したようである。

 味覚はまだ残っているからいいが、嗅覚がなくなるのは生物にとって危険なことである。たとえば、ガス漏れがあっても私には感知できない。こうしたことには気をつけなければいけないのだが、案外気をつけようがない。

 他の人たちが一番大変だと思い、懸念するのはもちろん話せないことだろう。確かに不便だ。そもそも仕事上致命的である。本来は、喉頭全摘者が話せるための訓練教室があるのだが、コロナ禍のため休講状態が続いている。これは想定外。退院後はハードな訓練をこなし、超速で復帰するという目論見はもろくも崩れた。方針を変え、より容易に話せるための手術を受けようと考えている。そのためには気管孔の安定が条件となる。

 しかし、この気管孔が、思いもかけない、悩ましいパラドクスを産み出していた。

 というのも、手術によってつくられたこの孔を、私の身体は傷痕と認識し、これを修繕しようとする。つまり塞ごうとするのだ。また、肺に異物が入らぬようにと痰が大量に生産され、それが気管孔に詰まる。こうした反応は生物の自然に則ったものだ。皮肉なことに、その生物としての正しさが私の命を脅かすのである。

 あるいは、気管孔は肺に直結しているので、入浴やシャワーは大げさでなく命がけである。入院していたとき、私のような患者には看護師が見張りにつくのが鉄則となっていたほどだ。その後、チューブの装着によって気管孔が安定し、窒息や浸水の不安はかなり軽減したが、そうなるまで半年を要した。

菅野先生 挿入写真 矛盾

不便はあるが・・・

 話せないことでひじょうに困るのは、電話をしなければならないときである。宅急便でトラブルがあったときは、しかたないから配送センターに直接赴いて筆談で説明したり、薬局からの連絡をメールにしてもらったりと、切り抜けられることもある。しかし、車のバッテリーが上がったときには、友人にメールで連絡して、代わりにJAFを呼んでもらうしかなかった。

 買い物も、スーパーやコンビニはいいが、店員とのやりとりがあるところには行けない。食事もそうである。行きたいときは誰かを誘うしかないが、一緒にいる間、会話ができないことが申し訳ない。友人が助けてくれるのはとてもありがたいことだが、そのありがたさに比例して申し訳ないと思ってしまうのである。基本、人と会うときは3人以上という方針が定まった。

 また、多くの人は話せないことで淋しい思いをするのではないかと想像しているようである。しかし、もともと独りの時間を過ごすことが多い私には当てはまらない。ただ、不便さから派生する問題が煩わしい。

 そうした私の思いをどう伝えたらいいのかなと思っていたが、ある人にメールを出すときにこういう言葉が出てきた。

「不便はありますが、不満はありません」

この言葉が出たときに、いい感じで現状を受け入れられているなと思えた。

 ちなみに手術後の私は障害者3級となっている。障害者申請は義務ではないが、私はすぐに申請した。障害者の視点というものを知りたかったことが大きいのだが、誰でも長生きすれば、必ず障害者になるのが道理である。そうでないのは、早めに死んでしまうからだ。このように考える私なので、障害の受け入れにはまるで抵抗がなかった。

 声を失ったことについても、知人への挨拶状にはこう書いた。

「昔から、口は災いの元とも言いますし、天は私から災厄の一つを取り除いてくれたのかもしれません」

 この言葉には多くの人が反応した。「前向き」とか「豪気」とか。本人はそんないいものではないと思うのだが、喜ばしくはない現実を受け入れ、覚悟を持ち合わせているという自負はある。それができなければ、毎日はとても苦しいものになるだろう。

菅野先生 挿入写真 日常

 私のガンは厄介なものなので、入院前も後も転移の検査が頻繁にある。その中でも、退院後初のCTスキャンの結果を聞くときは、悪性かどうかの診断を聞くときよりも緊張した。正直、初めて怖いと思ったのだ。

 おそらく、手術が成功し、多くの人から祝福され、これでもう大丈夫という方向に気持ちが傾いてしまったせいではないかと思う。いつも最悪の場合を想定して、覚悟をしていたはずなのに、その覚悟が緩んでしまったのだ。

 私は楽観的な人間ではない。つねに最悪を考えるという意味では,むしろ悲観的な考えの持ち主である。だから、何事にも十全に安心することはない。けれども、悲観的であるからこそ、悪い結果になってもしかたないという覚悟が生まれる。悲観の先には、能天気な楽観とは異質な境地があるのだ。

 このように、精神的なところはあまり問題はないのだが、身体のほうは、いまだに喉に開いたトンネルを受け入れてくれない。チューブを抜いたままにしておくと、時間とともに坑道は狭まり、チューブの再装着が困難になる。

 私の身体が改造後の自分を受け入れ、これと和解すること、それはいつになるのだろうか。当初、このパラドクスを「自分との戦い」ととらえていた私だが、今は違う。私の身体は私の敵ではないはずだ。頑固な奴だがいつかはわかってくれるだろうと、のんびりとした気持ちで、私は私と付き合っていくことにしている。

執筆者プロフィール

菅野泰蔵(すがの・たいぞう)
東京カウンセリングセンター所長。
カウンセリングを社会に定着させるべく、東京カウンセリングセンターを立ち上げ、現在その所長を務める。多くの読者を集めた『こころの日曜日』シリーズ(法研)ほか、著書多数。

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