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こころの健康を社会政策レベルで守ることを、倫理学からどう見るか(学習院大学法学部教授:玉手慎太郎)#誘惑する心理学

健康は、多くの人が大切であると考えます。しかし、社会政策として健康を守ることには多くの問題を引き起こす可能性があります。今回は、特にこころの健康を守ることをめぐって生じる可能性のある問題について、倫理学の観点から学習院大学の玉手慎太郎先生にご執筆いただきました。


はじめに:健康は大事である

 私たちは一人ひとり、人生において大事にしているものに違いがあります。仕事に情熱を燃やす人もいれば、家族と穏やかに過ごす時間に重きを置く人もいます。もしかすると、だれにも邪魔されずにそっとピアノを弾くことに何よりの幸福を感じる人もいるかもしれません。しかし、どんな人にとっても、健康が大事であることはたしかでしょう。健康でなければ、精いっぱい仕事をすることも、家族とありふれた食卓を囲むことも、そっとバッハの旋律をなぞることもままなりません。健康はすべての人にとって、最も大事なものではないとしても、大事なものの一つであると、ひとまず考えることができそうです。

 私たちの社会は人々の健康を守る仕組みを発展させてきました。医療システムや社会保障の整備、感染症対策やヘルスプロモーション(健康増進)の推進などにより、私たちは以前よりもずっと健康な人生を生きることができています。そして周知の通り、近年では、「こころの健康」(あるいは「メンタルヘルス」)に対しても同様の関心が高まっています。学校や職場での不幸な(あるいは悪意ある)やりとりによって、精神のバランスを崩してしまうようなことは避けるべきであるし、そのために政策的介入が可能であればそうすべきだ、という考え方は広く受け入れられるようになってきているものと思われます。

とはいえ健康だけが大事なのではない

 しかしながら、健康が大事なものであるとしても、健康のために国家や社会はできる限りのことをすべきだ、ということには必ずしもなりません。なぜなら、健康は私たちにとって大事なものですが、大事なものは健康だけではないからです。そして、健康を守るための政策介入は、場合によっては健康とは別の価値を損なってしまうかもしれません。

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための都市のロックダウンを、この問題の典型的な事例とみることができます。厳格な外出禁止は、人々の健康を守るために高い有効性をもつ対策であるかもしれません。しかしそれは同時に、私たちの自由な移動や交友——健康とは別に価値を見出しているもの——を制限します。それゆえ、都市のロックダウンは、その負の影響が過大なものとならないよう、必要最小限とみなされる期間のみ実施されるべきとされます。

 ここにあるのは、人々の健康を守る政策が、他の観点において人々の人生にダメージを与えるものになっていないか、政策の立案と実施に際しては慎重に検討がなされなければならない、という考え方です。このような健康をめぐる政策、とりわけ公衆衛生政策における価値の衝突を倫理学的に考えるのが、私の取り組んでいる「公衆衛生倫理学」という学問です$${^{(1)}}$$。日本ではまだマイナーなのですが、学問としての意義は決して小さくないのではないかと思っています。

こころの健康は曖昧で、無理矢理には捕まえられない

 この短い論考のテーマは、「こころの健康を社会政策レベルで守る」営みについて、倫理学的な観点から検討することにあります。私は心理学の専門家ではありませんので、こころの健康について具体的な議論をすることはできません。私にできるのは、倫理学で取り扱われている理論に照らして、抽象的なレベルで考えてみることです。

 ここで簡単に整理してみたいのは、こころの健康をめぐる介入と、身体的な健康をめぐる介入とのあいだには、倫理的に見てどのような相違があるのか、ということです。そのような相違をみることで、こころの健康をめぐる介入について、(すでにある程度なされている)身体的な健康をめぐる介入と同様に考えて良いのか、また別個に考えるべきだとすればそれはなぜなのか、ということがある程度クリアに見えてくるだろうと期待できます。

 さっそく、いくつかの論点を取り出していきましょう。一つ目に、おそらくメンタルヘルス研究においては常識的なことなのではないかと思うところではあるのですが、こころの健康については、《何をもって健康とするのか、その基準があいまいである》ということが、一つの論点になると思います。そもそも「健康」という概念があいまいであることは、医療倫理学において幾度も指摘されていることです$${^{(2)}}$$。たとえば、WHOの用いる健康の定義は「単に疾病がないとか虚弱でないというばかりでなく、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態である」というものですが、精神的に「完全に良好な状態」というのがどのような状態なのかは、極めて論争的であると思われます$${^{(3)}}$$。健康の基準の点についてあいまいなまま政策介入をすれば、それは検討はずれのもの、つまりメリットが十分にないまま大きなデメリットを人々に課すものとなってしまいかねません。何をもって不調とみなすのか(さらにはなにをもって回復とみなすのか)がはっきりしなければ、有効な介入を最低限にしぼって行う、ということは困難でしょう。

 二つ目に、これもいささか常識的な論点ではありますが、こころの健康については《それを常時チェックしておくという、そのこと自体が侵襲的でありうる》とも指摘できると思います。身体的な健康管理において重要なことの一つは、健康状態をよく見ておくことです。急な体重の増加や減少がないか、めまいが増えたりしていないか、ということに意識を向けておく必要があるでしょう。そのために、近年ではウェアラブルデバイスを通じて健康データを取得・管理することも広く行われています$${^{(4)}}$$。しかしながら、これと同様のことを「こころ」について行うことはおそらく難しいでしょう。自分が健康的な精神状態にあるかどうかを逐一気にしている(あるいは気にしなければいけないのだと追い立てられている)というのは、あまり健康的な精神状態ではないように思いますし、またそう言った情報を(たとえば上記のようなデバイスを通じて)システマティックに管理する(異常があれば自動的にアラートが出るようにするなど)としても、やはりそこに多くの人は抵抗を感じるのではないでしょうか。こころの健康については、モニタリングの段階で倫理的な懸念が小さくない、ということを指摘できるだろうと思います$${^{(5)}}$$。

こころの回復は結果ではない(かもしれない)

 三つ目に、私がより深く関心を抱いている論点を挙げさせてください。それは、こころの健康については《どうやって回復するのかという、プロセスそれ自体が大事になる》ということです。これについては、文学作品を例にとって説明しましょう。

 ディストピア小説の古典と言われる、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』という作品があります$${^{(6)}}$$。この小説は近未来を舞台としており、その未来社会では完全に固定化された階層社会のなかで、人々が完全に幸福に暮らしています。人々は階層ごとに、自分の置かれた生活に満足するように教育を通じて条件づけられているとともに、多数の娯楽が用意されているからです。さらに、まさにここが注目したいポイントなのですが、ストレスを感じることがあれば「ソーマ」という錠剤を飲むことで、不安を消去することができるようになっています。副作用のない合法麻薬といったところです。

 この「ソーマ」という薬物は、言ってみればメンタルヘルスの維持と増進のために導入されているわけですが、多くの人はこれになにか間違ったもの、おぞましいものを見出すでしょう。しかし、それはなぜでしょうか。私たちは軽い頭痛を頭痛薬によって、とまらない鼻水を風邪薬によって、手っ取り早く抑え込むことに違和感を抱いてはいません。では、なぜ仕事の失敗のショックや失恋の痛手を薬で癒してはいけないのでしょうか? そもそもヘルスプロモーションの基本は予防ですから、大きく精神的バランスを崩す前に薬でさっと治してしまう——いわば「病み始めにこの一粒」という形で——ことはむしろ、悪化してから対応するよりもスマートな方法とさえ思えます。何が問題なのでしょうか。

 これは人間のあり方に関わる難問ですが、少なくとも一点、以下のように指摘することはできると思われます。おそらく私たちは、心理的な苦痛を単にゼロにすればいいと思っているのではなく、そこからの回復の仕方それ自体にも価値を置いているのではないでしょうか。私たちはこころの健康の維持増進に関して、単に結果として健康になることを求めているのではなく、一定の「正しい」方法(おそらくは「人格的な」方法)が用いられることも同時に求めているのだ——このように考えるのは、私たち自身のことをよく見つめてみれば、決して突飛な推論ではありません。

 このことはもちろん、心理的な問題に苦しんでいる人は自力で回復する以外に道はない、すべては究極的には当人の心構えの問題だといった、素朴な自己啓発本のようなことを言っているのではありません。外部からの手助けが必要な場合は多くあるでしょうし、重い症状の精神疾患に対しては投薬治療も有効でしょう。しかしそのような手助けや治療についても、私たちはやはり、治れば何をしてもいいという単純な話で済ませることはありません。

 もし以上の考察が正しいとすれば、こころの健康を促進するための政策的・社会的介入は、その実施形式について、身体的な健康をめぐる介入以上に、慎重でなければならないことになります。そしてもしかするとそれは、なるべく効率的に実施したいという政策的・社会的な要請と、齟齬をきたしてしまうかもしれません $${^{(7)}}$$。こころの健康を社会全体が政策を通じて守っていこうとするならば、この点について、気をつけて見ていく必要があるでしょう。

こころについての「健康づくり」とは何か

 すでに少し触れましたが、近年のヘルス・プロモーションでは「予防」が重視されるようになっています。発症する前に、また発症しても重症化する前に対処することは、個人の健康にとって望ましいことでしょう。これがたとえば「健康づくり」といった言葉の下に推進されていることであり、健康食品や健康器具の人気、またランニングやジム通いの流行などに具体的にみることができるものです。

 しかしながら、メンタルヘルスについての「予防」となると、なにをすべきなのか、あまりはっきり見えてはきません。すなわち、こころの健康については日々の健康づくりの手段がそれほど明確ではないように思われます。体に良い食事を摂るように、こころに良い食事を摂るとは、どうすればよいのでしょうか。また、体を鍛えるように、こころを鍛えるとは何を意味するのでしょうか(こころの平穏を得るために、ジムの代わりにサウナやソロキャンプに行けばいいのでしょうか)。またそもそもこころを鍛える、ということは(仮に可能だとしても)望ましいことなのでしょうか。たとえば、こころのデトックスと言われるとき、私のこころから抜き取られるべき毒とはなんのことなのでしょうか。

 以上を踏まえつつ、ここで具体的な検討のために、労働者のメンタルヘルスについての厚生労働省の指針をのぞいてみましょう。厚生労働省は「労働者の心の健康の保持増進のための指針」$${^{(8)}}$$を示しており、民間事業者に対して、この指針に基づいてメンタルヘルスケアの実施に取り組むことを求めています$${^{(9)}}$$。

 この指針においても、やはり予防の観点が強調されています。「メンタルヘルス不調を未然に防止する「一次予防」、メンタルヘルス不調を早期に発見し、適切な措置を行う「二次予防」及びメンタルヘルス不調となった労働者の職場復帰を支援等を行う「三次予防」が円滑に行われるようにする必要がある」(2-3ページ、末尾の「を」の重複は原文の通り)。職場復帰支援が「予防」とされるのは少し奇妙な気もしますが、これは復帰の遅れによる更なるメンタルヘルスの悪化を防ぐということでしょう。それぞれの具体的な取り組みについて見てみると、まず未然防止(一次予防)の手段として、労働者や監督者への教育研修や情報提供と、作業環境・労働時間の改善や各種ハラスメントの防止といった職場環境の改善とが挙げられています。早期発見(二次予防)の手段としては、セルフチェックの推進や産業保険スタッフによる相談対応が示されます。職場復帰支援(三次予防)については、主治医との連携を図りつつ取り組む必要があることなどが指摘されています。

 この指針について、有意義な対策が提起されていることに異論はないのですが、率直な疑問もないわけではありません。なにをすべきなのか、やはりここでもはっきり見えてこない、というのがその疑問です。もう少し正確に言えば、こころの健康が損なわれないように予防する日常的な方法についてはあまり触れられておらず、むしろそれが損なわれる兆しを発見することに主眼があるように思える、ということです。メンタルヘルスを向上させる直接の対策は、はっきり述べられているわけではありません。

おわりに:健康のために、こころにどこまで踏み込むか?

 しかし、ここまで見てきた3つの《こころの健康に対する介入の独自性》をふまえて考えれば、むしろこれはやむを得ないことだとも言えそうです。

 こころの健康を向上させる具体的な手法がないのは、おそらく、こころの健康が何を意味するのかはそもそもはっきりしていないからです(論点1)。こころの健康をめぐる問題は、あくまでこころの健康が損なわれた後にしかわからないわけです。であれば、こころの健康を守ろうという社会的な営みは、必然的に、人々のこころの状態を絶え間なく監視していくことになるでしょう(論点2)。しかし、それ以上のことはできません。こころの健康への対策というのはその手法そのものに慎重な配慮が必要なものです(論点3)。となれば、こころの健康の不調が発見されたならば、なされるべきは専門的な治療であり、それ以上のことを行政がシステマティックに行うことは望ましくないと考えられます。このように、メンタルヘルスをめぐる社会的な介入が今のところ、具体的な「こころの健康増進」の手法を提示していないことには、それなりの理由があると考えられるのです。

 議論を整理しましょう。一方では、労働者のメンタルヘルスの健康増進について、健康増進が掲げられながら、実際にはいままで以上に監視を強めることにしかなっていないかもしれない、と指摘することができます。これはたしかに一つの問題です。しかし他方で、もしこの点について、より具体的な内実を含む(たとえば何かしらの食事やアクティビティのあり方をはじめ、日々の過ごし方を具体的に指定するような$${^{(10)}}$$)対策が取られるとすれば、それは上に見てきたような《こころの健康に対する介入の独自性》を無視した、侵襲性の高い介入となる危険性があるとも指摘できます。これもやはり、一つの問題です。

 以上の理解から示唆されるのは、単なる監視の強化を超えて、こころの健康をめぐる介入も(身体の健康をめぐる介入と同じように)もっともっと進めていくべきだ、という単純な話にはならないということです。しかし、健康チェックを徹底的・網羅的に行うだけでよしとすべきだ、という結論で全てが解決するわけでもありません。そしてもちろん、メンタルヘルスについて社会は何もすべきではない、すべて放っておけば良い、という極端な結論に満足することもできないでしょう。このように考えていくと、「こころの健康を社会政策レベルで守る」営みの中に、人々のこころをめぐる議論にまつわる「社会との不都合な関係」の一端を見ることができるように、私には思われます。社会全体で人々のこころの健康をしっかり守っていきたいという善意と、人々のこころをシステマティックに統制してしまいたいというディストピアとのあいだに、実はそれほどの距離はないのかもしれません。

【注】

(1)  公衆衛生倫理の全体像については、以下の拙著を参照していただければありがたく思います:玉手慎太郎(2022)『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』筑摩書房.
(2)  健康概念をめぐる論争全体を批判的に概観するものとして以下:服部健司(2004)「多様な健康像の定式化の果てに」『医学哲学 医学倫理』第22号: 155-160.
(3)  WHOの健康概念について、特にその「完全性」に関して批判的に検討するものとして以下:根村直美(2004)「WHOの〈健康〉の定義をめぐる言説の現在」『医学哲学 医学倫理』第22号: 141-145.
(4)  スマートフォンやウェアラブルデバイスなどを通じた健康情報の収集とその一元的な管理のメリットを概観するものとして以下:天笠志保・荒神裕之・鎌田真光・福岡豊・井上茂(2021)「医療・健康分野におけるスマートフォンおよびウェアラブルデバイスを用いた身体活動の評価:現状と今後の展望」『日本公衆衛生雑誌』第68巻9号: 585-596.
(5)  恒常的な自己モニタリングがわたしたちの社会観や人間観にもたらす影響について哲学的に考察するものとして以下:美馬達哉(2021)「自己トラッキングからみえる未来」『保健医療社会学論集』第32巻1号:23-33.
(6)  オルダス・ハクスリー. 2017.『すばらしい新世界〔新訳版〕』大森望(訳)、早川書房.
(7)  次節の議論にも関連する論点ですが、企業が従業員の健康に配慮する「健康経営」という概念が、今後の高齢化や人口減少を見越しての、労働人口確保や公的医療費削減などの意図に深く結びついていることを論じるものとして以下:山田陽子(2023)「働く人のための健康投資論・序 健康経営・ウェルビーイング」『現代思想』Vol. 51-2: 86-93.
(8)  以下のURLからアクセス可能:厚生労働省ウェブサイト内「ストレスチェック等の職場におけるメンタルヘルス対策・過重労働対策等」ページ(https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei12/index.html) 2023年7月13日確認
(9)  ちなみにこの資料において、「メンタルヘルス不調」は次のように定義されています。「精神および行動の障害に分類される精神障害や自殺のみならず、ストレスや強い悩み、不安など、労働者の心身の健康、社会生活および生活の質に影響を与える可能性のある精神的および行動上の問題を幅広く含むものをいう。」(14ページ)。この定義が非常に広いものであることは言うまでもないでしょう。あくまで私の個人的な感覚ですが、このようなメンタルヘルス不調を感じていない人の方が少ないくらいではないかと思えます。
(10)たとえば、同じく厚生労働省が示している「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」(注8と同じウェブページから確認可能)においては、メンタルヘルスケアの内容は「ストレスに対する気付きへの援助、リラクセーションの指導等」であるとされています。このうちの後者はどのように具体化されるのでしょうか。余暇の過ごし方について、メンタルヘルスの向上に資するものとそうではないものがあるというのは直感的に理解できますが、他方でそこに事業所単位で口出しされることがふさわしいと考える人はそれほど多くないでしょう(だからこそ現段階では前者に注力している、ということなのかもしれません)。

執筆者プロフィール


玉手 慎太郎(たまて・しんたろう)
1986年宮城県生まれ。学習院大学法学部政治学科教授。専門は政治哲学・倫理学。理論研究として平等主義リベラリズムを、応用研究として公衆衛生倫理学を研究テーマとしている。好きな哲学書はプラトンの『ゴルギアス』とウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』。
主な研究成果として以下のものがある:著書『公衆衛生の倫理学:国家は健康にどこまで介入すべきか』(筑摩書房2022)、共編著『政治において正しいとはどういうことか:ポスト基礎付け主義と規範の行方』(勁草書房2019)、訳書『酸っぱい葡萄:合理性の転覆について』(ヤン・エルスター著、勁草書房2018)など。

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