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それは心の問題ではない(渡邊芳之:帯広畜産大学教授)#不安との向き合い方

 不安な世相を反映し、メンタルヘルスの重要性が、強く認識されるようになってきました。そのこと自体はとてもよいことだと思われます。しかし今、あまりに多くのことが心の問題とされ過ぎていないでしょうか。心を重要視することが、他の要因から目をそらすことにつながっているように感じることはないでしょうか。現在の心の問題の扱われ方について、パーソナリティ心理学がご専門の渡邊芳之先生に、お考えをお書きいただきました。

 東日本大震災のあとに、避難所や仮設住宅に「カウンセラーお断り」という貼紙がされたことがあったという。震災やその後の津波の被災者となった人々は強い不安や苦悩を感じており、そうした人々への「心のケア」が急務とされて、国や自治体の要請で現地に入ったカウンセラー、臨床心理士は多かったはずである。それが「お断り」されてしまうというのは奇妙なことだ。

 しかし、実際に被災地の人々が求めていたものはなんだったのか、と考えると、カウンセラーがお断りされる構図が見えてくる。災害直後の被災者にとってまず必要なのは家族や知人の安否確認、衣類や食料などの生活物資、そしてプライバシーの守れる「居場所」である。被災した人々の不安や苦悩の原因は、そうした必要が長い間にわたって満たされなかったことだろう。そういう意味では不安や苦悩のような「心の問題」は社会的・物質的なニーズが満たされないことの「結果」なのである。

 被災した人々が求めているのは一刻も早い家族の安否確認であり、生活物資や居場所が十分に与えられることであり、それらが満たされた結果として不安や苦悩が低減されることだっただろう。そうしたニーズが一向に満たされない状況でカウンセラーがやってきて心のケアをする。いや、私たちがいま求めていることはそれではない、順番が違う、というのが被災した人々の正直な気持ちだったのではないか。

 被災した人々のニーズが(心のケアではなく)社会的・物質的な支援であることは行政側もよくわかっていただろう。しかしそれを満たすには膨大な人手と費用が必要であるため、すぐには実施できない、いっぽう心のケアにはそれほどのお金はかからない(と見られている)。必要な支援ができないことの「代用品」として心のケアとカウンセラーが便利に使われ、そのあげくが「カウンセラーお断り」の貼紙だったのではないか。

 心理学は「心の学問」とされ、心理臨床は心のケアを行うものとされる。しかし、心のケアが必要とされる現場で実際に起きているのは「心の問題」ではなく社会的・物質的な支援の不足であることは、東日本大震災のような大きな災害に限らず、教育や福祉、医療などさまざまな領域でみられることである。そこで心理学や心理臨床が、支援を求めても得られないことによって人々が抱えた不安や苦悩だけを癒すことは、ときには本質的な問題の解決を遅らせることすらあるだろう。

渡邊先生虫眼鏡写真

 学校や職場への不適応などでも同じことが言える。学校に行くのがつらい、出勤したくないという苦痛はたしかに心の問題だが、その原因が学校でのいじめだったり、職場の労働環境が劣悪であることだったりしたら、まず解決しなければいけないのはいじめや劣悪な労働環境という環境の問題であって、それをそのままにして苦痛だけを軽減するのが心のケアであるならば、心のケアはひどい状況をがまんさせるための存在、劣悪な環境の補完装置でしかなくなってしまう。

 いっぽうで、環境や状況の持っている特性が人間の心に与える影響について専門的に発言できる学問はなにか、といったら、やはり心理学だろう。先に述べたような例では心理学者は「それは心の問題ではない」と言うとともに、環境や状況を改善して社会的・物質的なニーズを満たす際の優先順位や、適切な方法について提言することができるし、実際に災害やいじめなど多くの問題で、そうした提言を行った心理学者もいた。

 同じことは、人間の行動に生じるさまざまな問題についても言える。自殺防止のような問題でも、心理学に期待されるのは「自殺する人の心の理解」「自殺防止のための心のケア」となりがちだが、ここでも心理学者は「それは心の問題ではない」と言うことができる。自殺が激増し、それがまた減少したことにもっとも大きく影響したのはバブル崩壊とその後のゆるやかな経済回復という外的な経済状況だと考えられることが多いし、高齢者の自殺では病気を苦にしたものが多いことも知られている。こうした自殺を減らすためにはまず、経済的に困窮する人への支援や、医療福祉の充実が求められる。それを十分に行うことなく心のケアに頼ることは、また新しい「カウンセラーお断り」の貼紙につながるのではないか。心理学者は、「それは心の問題ではない」と言うとともに、うつ状態など自殺に直接つながる心の状態を防ぐために、どのような経済的支援や医療の充実が必要かについて提言することができる。

 駅のホームドアが設置され始めたころには、ホームドアで自殺企図を妨げても、自殺する人は必ず他の方法で自殺する、その気になればホームドアを乗り越えてでも飛び込むだろう、などと言われていた。しかし結果としてホームドアによって少なくとも駅での自殺は大きく減っているし、その他の事故も減ったことから、いまでは首都圏のほとんどの駅にホームドアが設置されるようになり、それに誰も疑問をもたなくなっている。他にも、大学等では屋上の出入りを禁止したり、そもそも校舎を建てるときに屋上や吹き抜けを作らなかったりして、飛び降り自殺を防ぐようになっている。自殺を誘発する環境要因、状況要因のコントロールは自殺防止には重要だし、そこでも心理学者の知識は役立つはずだ。

渡邊先生 写真鍵

 ツイッターである社会心理学者(著者の親友のひとりである)が「痴漢で一番悪いのは満員電車ですよ。状況が人の行動を決めるんです」と書いて炎上したことがあった。痴漢する人が悪いのは言うまでもないことで、このツイートは「痴漢を弁護している」と受け取られたのが炎上の原因だった。しかしいっぽうでこれはとても心理学者らしい考え方で、満員電車というものの存在が、暗い夜道や街角の死角と同様に痴漢を誘発している可能性は高く、それをなくすことができれば痴漢犯の心に踏み込むことなく、痴漢を減少させることができるだろう。これもホームドアと同様に、人の行動の問題を「心の問題」と考えずに、環境や状況のコントロールから解決していこうとする考え方である。

 「自殺の原因は心の問題」「痴漢は犯人の心の問題」と考えてしまうと、こうした「ホームドア的解決法」は対症療法ととらえられがちだが、これまで述べたように人の心も経済的・社会的・物質的環境の産物と考えれば、心のケアもまた対症療法であるといえる。人間の行動には心だけでなく、その人をとりまく物質的・社会的あるいは経済的環境も大きな影響を与えており、そうした環境が人間行動に与える影響も、心理学の専門分野である。ある問題に環境の力が大きく関わっているときには「それは心の問題ではない」と言うことも心理学者の大切な役割であり、その役割をはたしていくことが「カウンセラーお断り」の貼紙を防ぐことになるのではないかと思う。

執筆者プロフィール

watanabe_sensei(2)最新版

渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)
帯広畜産大学教授。
心理学における「パーソナリティ」「性格」及び、それに関連する諸概念の用法とその問題点について研究している。派生して、心理学の研究におけるさまざまな概念、とくに「こころ」についての概念である心的概念の使用、研究の方法論の問題や歴史についても検討している。著書に『心理学・入門 改訂版』(共著、有斐閣)、『性格とはなんだったのか』(新曜社)などがある。

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