孤独と読書(学習院大学文学部教授:秋田喜代美) #孤独の理解
コロナ禍での孤立と読書
「孤独」という言葉は、色に例えるとどのような色合いでしょうか。ブルーやグレーなど、なんとなく寂しく、暗く、ネガテイブな印象を持たれる人が多いのでではないでしょうか。
読書は、自己とテキストとの対話ですから、そこには自己の世界に没入する時間や思考の質が求められます。SOCIETY5.0.におけるデジタル革命により、インターネットを通して、多くの情報がすぐに手早く検索収集できる時代となったからこそ、それで十分と思いがちです。しかし、実用的な情報の収集と読書はそこに関わる思考の質も、本を介して行う他者との対話の質も異なると考えられます。しかし残念なことに、今、子どもたちは、OECDのPISA2018の調査によれば、学校の中で長い文章にふれる割合が先進国で最下位の国となっています。国語の読解力テストの結果では、まだ上位群ですから、要点をつかむとか、限られた試験問題を解くための力は保持されているともいえます。しかし、長いテキストを読む、読書の経験が学校でなくなっている付けはいずれ現れてくるのではないでしょうか。
折しもそのような時にコロナ禍において、2020年には全国的に学校が休校となりました。ソーシャルデイスタンスが生まれました。「学びライブラリ」というデジタル読書を行う小学生は1.5倍、貸出冊数は1.9倍と2019年から2020年に増加したこと、特に小学校低学年での増加も報告され、そしてその読書が心の安定につながっているという報告がなされています(ベネッセ教育総合研究所,2021)。また小学生だけでなく、日頃本を読まないといわれる17~19歳の高校生の層も回答者の結果では「増えた」が24.9%、という結果がでています(日本財団,2021)。時間のゆとり、孤独な時間が一定時間保障されることが、本に立ち向かうには必要ということがわかります。
しかし2021年の全国学力調査結果によれば、自宅に家族の本も含めて、蔵書は25冊以下と答えた子どもは、小中学生と共に回答の約3割という結果が出ています。つまり読遺書の本はすでに子どもの生活環境の中から消えつつあるということもいえます。ですから、時間的ゆとりや孤独なら読書ができるということではなく、そこに出会える本が身近にあるということが必要だということもいえます。
これは大人においても同様でしょう。情報と知識の違い、動画や写真というメディアと文字による紙メディアとの違いは、私たちの心の形成にも違いをもたらしていると考えられます。バリー・サンダースが『本が死ぬところ暴⼒が⽣まれる』(1998)という本を出しました。口承文化から書物の文化へと人類は進化することで、瞬時に消えることを繰り返し反芻することで深く考えるという時間を手にしていったといえます。そしてそのための黙読の時間は孤独な時間によってはじめて成立するといえます。
読書が生む孤独の価値
読書はもともと歴史的にみると孤独な活動だったわけではありません。読書といえば聖書等の宗教の本がメインであった中世の活版印刷術が生まれる前は、孤独な時間ではなく民衆にとっては集団で言葉を聴く時間でした。中世においては、ヨーロッパでは聖書や書物は元来文字が読める人が大衆に声を出して読んで聞かせるものであったとことが読書の社会文化史の本などで紹介されています。その後16世紀の活版印刷術の普及というメディア革命と共に、読書は個人で黙読により行うものとなりました。そしてそれによって、近代的な自我が誕生していったとも言われています。この点について、イヴァン・イリイチは『テクストのぶどう畑で』の本の中で、瞑想と読書の関係、黙読による孤独な読書が自我の形成に寄与していることを次のように述べています。「瞑想は読書に始まります。しかし、読書についてのいかなる約束事や⽅針にも拘束されるものではありません。瞑想とは、広⼤な⼤地をのびのびと散策し、その無垢のまなざしを真実の観想に重ね合わせることなのです。またあれやこれや種々の事柄の原因の喜びをもって分類し、並べ、物事の深淵をのぞき込み、疑わしいもの、明快でないものをそのままにしてはおかないことなのです。」「今⽇われわれは、『⾃我』あるいは『個⼈』という⾔葉を⽇常⽣活の中でよく⽤いるが、この⾔葉の意味するものは、実は⼗⼆世紀の⼤きな発⾒の⼀つなのである。(中略)われわれの意味するような⾃我が前提となっている社会は、いくつものある⽂化の中では⼀つの特殊な存在である。この特殊性は、十二世紀において⽬⽴って顕著になりはじめた。ユーグの著作は、この⾃我という新しい形態の出現に⽴ち会った書物である。」
孤独だからこそ、書物を通して瞑想ができ、テキストとの対話を通して自我が形成されると言えるという思考習慣が生まれると言えるでしょう。もちろん、書物を読むにも多様な目的があります。ミシェル・ピカールは『遊びとしての読書—⽂学を読む楽しみ』(訳書,2000 年)で、読書について5つの機能を指摘しています。「①書かれた記号の読解としての読書における読み、②実⽤的な、情報収集としての読書における読み、③〈逃避〉としての、あるいは〈気晴らし〉 としての読書における読み、④批評家の職業的とされる読書における読み、⑤芸術としての読書における読み」です。特に、⑤の芸術としての読書、夢中になって遊びのように浸り込む読書が、自我を形成するのに機能することを「読書には、飼い慣らしや再=保証や補償のための⾃動的で無⾔の装置とは違って、 もっと複雑でもっと例外的でしかももっと規定的な熟考された活動が含まれており、読書している者は「⾃我」の絶えざる再構築を⾏っている。」と述べています。
本を通じた新たな対話とつながりへ
このような黙読における読書は、テキストへの没入によって深い思考を生み、自我を形成していくと言えます。これは現代においても同様でしょう。しかし孤独、孤立ということに不安を持ち、SNS等でつねに誰かとつながっている関係があれば安心してしまいそこで思考停止に陥ってしまうことが今日、起きています。インターネットは世界を広げるのではなく、むしろフィルターバブル現象といわれたりしますが、内なる仲間だけの世界を作り、それがむしろそこからの排除への不安をもたらしたりもしています。中世のような修養としての読書というよりも、ワクワクしながらテキストの世界に浸り込むからこそ、そこにおいてワクワクしながら、なりたい自分やあこがれの自分を作品世界の中に見出したり、新たに自分を見つめ直したりができていくのではないでしょうか。ミシェル・ピカールは『時間を読む』(1995)の中で、読書を通して私たちは2つの異なる時間の流れを経験することができること、書物のページをめくる度に現在から未来へと前進するような時間と読書を通じて、主体が触れていくことばの⼀つひとつから、過去に経験したことや感じたことを結びつけて⽣じる時間、現在から過去へと遡るような時間という2つの往還可能な時間が生まれると言います。このような経験は読書だからこそ、ゆっくり経験できる時間感覚なのではないでしょうか。せわしなく流れる社会では心を亡くす「忙しさ」をもたらしがちです。その中で黙読における読書、そしてその読書経験を他者にも紹介したり、口コミでその読書経験がさらに他の人にもつながって対話が生まれる時、そこには孤独を越えて同じ本をわかちあえた深いつながり感覚もうまれるのではないでしょうか。
孤独のプラスの側面にも目を向け、本と出合える時間や環境をこれからも創り出していくことが必要なのではないかと思います。
引用文献・参考文献
高橋衛 2022「⼩学校社会科の探究的学びにおける読書の活⽤」学習院大学大学院教育学専攻修士課程論文
イヴァン イリイチ (著), 岡部 佳世 (翻訳)1995 テクストのぶどう畑で (叢書・ウニベルシタス) みすず書房
ミシェル ピカール (著), 及川 馥他 (翻訳) 2000 遊びとしての読書―文学を読む楽しみ みすず書房
ミシェル ピカール (著), 寺田 光徳 (翻訳)1995 時間を読む (叢書・ウニベルシタス)
バリー サンダース (著), 杉本 卓 (翻訳) 1998 本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊 新曜社