子どもの自立を考える(田中陽子:九州保健福祉大学准教授)#出会いと別れの心理学
子どもが親から心理的に、そして経済的にも離れていく自立というもの。以前は、互いに強くぶつかり合い、葛藤しながら別れていくというイメージがありました。今の親子には、そのように衝突し合う姿はあまり見受けられないのではないでしょうか。変わってきた親子関係の中、子どもの自立をどうとらえ、かかわってゆけばよいのか、臨床心理学がご専門の田中陽子先生にお書きいただきました。
実は、別れにもコインのように表と裏の2つの意味があると思う。表面は離れることである。これには、慣れた人、慣れた場所を離れる悲しさ、寂しさ、不安、もしかすると安堵感も伴うかもしれない。裏面は近づくことである。こちらには初対面の人、慣れない場所に近づかざるを得ない緊張、心細さ、不安、それらと同量のうれしさ、期待感が伴うだろう。これを表現しようとすると、光を当てる気持ちのスポットが人によって異なり、様々な出会いと別れになるのだと思う。
1.カウンセリングの別れ
まずは、仕事柄、カウンセラーとして感じている別れについて述べたい。
カウンセラーとクライエントは特別な関係にある。そのため別れも通常とは少し異なる。カウンセリングがうまくいったと思える時ほど別れた後の音沙汰がない、と思っている。もちろん後日談を風の便りに聞くようなことがあったり、中途半端なままなのだけれども連絡が途絶えたりということもある。しかし、特に子どもの場合は、最終回に、振り向かずに走り去るという印象が強い。保護者は「ほら、お礼を言って」などといわゆる常識的なことをさせようとするのだが、子どもたちは前に進んでいく。だから、後日、コンビニで会おうものなら、保護者は思わぬ再会に話したそうにされるが、子どもは驚いたような、時に困ったような表情をする。一方、こちらがどうしているかと気になっている場合は手紙が来ることもある。
別れ際は本当に難しい。もう大丈夫だという子どもに対して、こちらも安心して終われることもあれば、まだだと思うこともある。引っ越しや保護者の仕事の都合で会えなくなる子もいる。その都合が少し前にわかれば、次善の策を取ることにしている。次の場面への向き合い方の作戦を立てるのである。また、状況がわからないまま突然会えなくなる子もいる。さらに、親子ともども出会いと別れを繰り返す長い付き合いになることもある。その時には、途切れた後に再び会えたことをできるだけ新たなスタートとして捉え、責めることなく受け止めたいと思っている。
時に、見守りのような支援が対話の放棄に見えることがある。対話という方法で心のはたらきは深められるのではないかと思う。カウンセラーはその人の特別な時間に相席させてもらう。そして、その特別な時間が終われば終わるような関係である。しかし、決して刹那的ではない。消えはしない。その人の心の余裕になったり、豊かさになったりしていると思いたい。カウンセラーのところに来る必要がないのが良いわけで(…と言っても来るのが悪いとか弱いとかという意味ではないが)、周囲の人と手をつなぎながら、自分を見つめながら、進んでほしいと思う。私がもらった印象深い別れの言葉がある。「会えない時に、先生ならどうするかって考えたんです。」この言葉の後、ほどなくお別れをした。問題を解決するために多様な視点から考えることは解決策につながる。その人は自分なりに考える視点にプラスして新たな視点を手にしたのである。こうなると現実のカウンセラーに会う必要はなくなってしまう。
2.大学生の親離れ
もう一つの仕事柄、3月には一斉に巣立つ学生たちを見送る。卒業式ではいつの頃からか教員側から何かあったら大学に話に来るよう声掛けが始まった。大学も居場所としての役割が大きくなったのだろう。この状況に、初めのうちはとても違和感があった。「こんなとこ出て行ってやる!」というのが親離れ、自立の仕上げのように考えていたからである。今は、出ていく必要がないくっついた関係のままである。それでも少し前まで親と希望の大学を決める時にケンカして、さらに就職先を決める時にケンカして、勢いを付けて飛び出せていたように思う。今は、親は壁ではなく、身近な一番の応援者である。昔の親が応援していなかったというのではない。今の親が応援者の立場を隠さないようになってきた、間接的ではなく直接的になってきたのだと思う。もちろん、今でも子どものやりたいことに大反対していた親が、子の活躍をスクラップしたり録画してくれたりしていたことを親の葬儀で初めて知るというようなエピソードを聞くことがある。子どものしたいことを応援する親心は昔も今も変わりはない。見える態度や支える方法が異なるのである。親は突き放すから受け入れるになったのである。
大学4年生になると卒業したくない、社会に出るのが怖いと言う学生が増えた。私など学校から解放される喜びがあったように思う。現在は大学全入時代。社会への入り口は大学卒業になった。学生たちにとって社会は、入る前の就活の厳しさの影響もあって、うまくいかないイメージが強いのではないだろうか。良いイメージの無いところに飛び込むのは大変だろうと思う。また、今の大学はサービス業の色合いが強く、学生はお客様である。学校という守られた場というだけではなく、してもらう側からする側に立場が変わることも意識すると、社会に出る怖さは倍増するだろう。そして、不安な社会情勢、大きな転換期、モデルがない今である。
親に対して、結局は反抗して対話をやめてしまうにしろ、その時まで伝えるために考えることは、大切な自分を見つめる時間、価値観や人生観を作っていく時間になっていたのではないだろうか。それはまた、守られた中で自分以外の人に自分のことを語る練習にもなる。そうして、離れたいけど離れたくないという揺れる自分を支える考えを見つけることにつながっていたのではないか。親が受け入れるのは良いけれど、今の子どもたちにもそういうプロセスは経てほしいと思う。繰り返すが、親とケンカするよう勧めているわけでは決してない。対立せず話を聞く中で、子どもが自分を支える考えをまとめてくれると良いと思うのである。
3.親子の別れ
親子の別れもまた難しい。あまり見ていないのに言うのもなんだが、最近のアニメ、ドラマなどには、冒頭で親が突然亡くなるという設定が増えた気がする。親がいなくなったので探すという旅ではない。親は目の前で殺され、子どもは残された家族のために状況を変える鍵を持つ殺害者を追う旅に出る。突然降りかかる自分が行動しなければならない状況。親は止めたり、促したりするわけでなく、全くかかわらない。否応なしに訪れる旅立ちである。そうして旅をしながら一人前になっていく。
親にすべてやれと言っているわけではない。これまでは親の背中以外にも地域のコミュニティの中でモデルを見つけたり、地域行事の中で考えを深めたりしやすかったのだと思う。そこで行われていたのも対話であったと思う。今では、一人で籠るほうへ行っている。そしてダメなら飛び出す。この両極端な行動パターンでは心配になる。「うっせぇわ」は対話拒否ではないのだと思う。大人が若者を抑え込んでいることに対して物申しているのだと思う。前の時代を引きずっているのは大人のほうなのではないだろうか。子どもたちは新しい生活しか知らない。バージョンアップが必要なのは大人のほうである。だから、親子のみの対面は危険を伴うことがある。親子だからこそ逃げ場がなくなる。学校や習い事の先生、ママ友、離れて暮らす祖父母など、間に入る人が必要になるのである。
4.巣立ちの時に
大人は子どもたちに未来を、社会を語れているだろうか。単純なのだが、社会に出たほうが出会いが多いとか、悪いことばかりでないという現実を伝えているだろうか。子どもが受け取っているのは、大人はつらいという情報が多い気がする。そして子どもに子ども以外の役割を取らせ、依存しすぎているのではないかと思うことがある。夫婦問題や親の恋愛相談、ヤングケアラーなど子どもでは解決困難な問題である。大人の腕の中にいるうちに、子どもには悔しい思いをし、悲しい思いをし、うれしく思い、そして大人は子どもの気持ちを共有し、時には一緒に行動し、時には見守り、できれば次の一歩を出せることを手伝い、そうして子どもが歩き方を探していける力をつけてあげられたらと思う。これは親だけの仕事ではない。子どもを取り巻く様々な大人のかかわりが必要となる。しかし、家が子どもを守ることを声高に求められるというのは、見方を変えると安全ではない社会になったということかもしれない。そのため大人が不安だから、子どもに相談するなど家の中で済まそうとしているのかもしれない。さらに孤立してしまうとそういうことに陥りやすいのではないだろうか。
現代は、今の大人の歩き方を真似させる時代ではないのだろう。具体的な解決方法をとりつつも探索方法のような汎用性のある前提を身に着けて、独自の歩き方を作っていく時代なのだと思う。山登りのルートがあって即登頂というわけではない。ルート作りに必要なことを頭に入れて道を作っていかなければならないのだと思う。今は始まったばかりだから、個人ごとのルート探しだが、たくさんの個人が集まってそれは大きな道になるのかもしれない。
未来は子どもたちが作るからと言って、大人は今を放棄してはいけないと思う。「ぼぉーっと生きてんじゃねーよ!」と永遠の5歳児に叱られないよう、今日も我が身を振り返るのである。彼女が「つまんねぇ奴だなー」という時は、大人がきちんと応えて大人の役割が取れている時である。
執筆者プロフィール
田中陽子(たなか・ようこ)
九州保健福祉大学准教授。
教育相談に関心があり、地域で子どもや大人、先生方と、みんなで成長できるよう右往左往しながら、実践研究を行っている。