主体性とはイデオロギーではないだろうか(東京農業大学教職・学術情報課程准教授:鈴木聡志) #誘惑する心理学
文部科学省の平成29・30年告示小・中・高等学校『学習指導要領』に「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」の語が載った。このため現在わが国の初等・中等教育では児童生徒が「主体的・対話的で深い学び」ができるよう教員達は努めている。少なくともそうすることが望ましいとされている。しかし主体的な学びは最近になって突然提唱されたのでない。70年前から試みられている。過去にあった「主体的学習」については後述するが,ここで考えたいことは主体的であるとはどのようなことかということである。
主体性とは主体的であることだが,「君には主体性がない」と人から言われると,人間として劣るとか,恥ずかしい生き方をしているとレッテルを貼られたような気になる。そして主体的に生きなければと決意する。どうも主体性の語には,それは望ましいものである,さらには人は主体的でなければならないといった価値観が伴うようである。
「主体性」という言葉は人を惹きつける。本稿では「主体性」とはどういうことかをイデオロギーの観点から考える。
主体と主体性の間
まず考察のための前提として,主体と主体性の間には概念としての繋がりがほとんどないことを確認したい。主体に「性」がついたのが主体性だから,主体と主体性は一見関係があるように見える。しかし,第一に,主体の対義語に客体があるように,主体性の対義語に客体性があるかというとそうではない。誰かが特別な意味を込めて客体性の語を使っているかもしれないが,今日本語を使う人達が客体性と聞いて何を意味するかわかるだろうか。主体と客体はプラスとマイナスの関係である。これに対して主体性のマイナスに当たる語はない。主体性がないとは主体性がゼロであることを意味する。
第二に,主体は哲学的概念として生まれた。小林(2010)によると,明治期に「subject/sujet/Subjekt」の翻訳語がいくつかあった中で主観の語が定着した。そして「object」の翻訳語の客観も定着した。その後大正期にマルクスが紹介されると「subject/sujet/Subjekt」が主体と訳されることが多くなり,「object」は客体と訳されるようになった。主体と客体の語は哲学にルーツがあり哲学的概念として鍛えられてきたが,主体性はそうではない。この語は最初哲学者達が使っていたが,ある時期から学問から離れる。小林(2010)は,高野悦子の『二十歳の原点』から彼女の周りに主体性という言葉を馬鹿の一つ覚えみたいに叫んでいる者が数多くいるという一節を引用して,学生運動を舞台にこの語が急激にひとり歩きを始めたと指摘する。
第三に,主体には責任が伴う。何かマズイことがあったとき,人はその責任を追及するために主体を必要とする。例えば誰かが不慮の事故で亡くなったとする。家族や関係者は原因を追究し,その死に関りのあった人を責めずにはいられない。故意であってもなくても,制度設計上のミスであっても,責任者を名指しせずにはいられない。そしてこの事故に責任があったとされた人には,たとえ冤罪であっても罪が課される。こうして家族や関係者は胸をなでおろす。マズイことがあったため乱された秩序が回復されるために,責任を負わされる主体が必要とされる。これに対して主体性には責任は負わされない。
心理学的概念としての主体性
いくつかの辞書で主体性の項目を引いてみる。
これらの辞書によると主体性とはある種の態度や性格や性質である。またその背後には意志や判断が想定されている。主体性の語は心理学的概念であると人々に理解され,使われている。
主体性が態度や性格や性質なら,人によってそれを有する程度が異なる。実際,主体性を測定する尺度を開発した心理学的研究がある。例えば新井(1992)は幼児の主体性を測定する尺度を開発し,5歳児は4歳児よりも,女児は男児よりも主体的であることを見出した。また浅海(1999)は因子分析により自作の「主体性尺度」が6因子からなるとした。
こうした研究から主体と主体性の違いを指摘することができる。哲学的概念としての主体は誰でも持っている。行為する人間にはその行為を生み出す主体があるはずだ。責任を負わされる主体は,当該人物に責任があるなら必ずある。というか,何かマズイことがあった場合,責任を認め罪を引き受ける主体がなければ誰も納得しない。これに対して心理学的概念である主体性は人によって有する程度が異なる。どの程度主体的かを人と人の間で比較することができる。
主体性の概念は他の心理学的概念に繋がる。たとえばアイデンティティである。エリク・エリクソンの Identity: Youth and crisis が『主体性(アイデンティティ)――青年と危機』(Erikson, 1968岩瀬訳1969)の題で邦訳されたのが1969年で,ちょうど学生運動が盛んだった頃である。訳者によるとこの邦訳が『主体性』と題されたのは出版者の意向によるとのことである。出版社には『主体性』と題すれば売れるとの目論見があったのだろう。目論見通り売れたかはわからないが,今「アイデンティティを確立した若者は主体性がある」と誰かが言うのを聞いて違和感はない。アイデンティティと主体性を同義語にしたのは出版社の慧眼であろう。
ムードのような主体性
この主体性という概念は日本特有であるようだ。その証拠に,主体性を意味する英語が定まっていない。
心理学の文献を探すと,まず塚田(1987)は主体性は英語ではindependenceがほぼ該当するとし,subjectivityは適切でないと言う。尺度を開発した新井(1992)も主体性をindependenceと訳したが,浅海(1999)はself-direction (syutaisei) と訳した。浅海(1999)の (syutaisei) の表現は,主体性に対応する英語が見当たらなかったことを示しているのだろう。
教育学の文献では,『新教育学大事典』(細谷他編,1990)における「自主性,主体性」の項目の英語はautonomyである。『新版 現代学校教育学大事典』(安彦他編,2002)では「自主性,自発性」の項目の英語にautonomy (independence), spontaneityを採用して,「主体性」の項目の英訳はない。
教育行政では,文部科学省は平成29・30年告示小・中・高等学校『学習指導要領』の英訳版(仮訳)(文部科学省,n.d.)で「主体的・対話的で深い学び」の箇所をproactive, interactive and authentic learningとした。(だから「主体的な学び」の英訳はproactive learningとなり,主体性を意味する英語はproactivityとなるだろう。)
主体性を意味する英語がたくさんあって一定していないことは,主体性の概念が曖昧であることも意味する。小林(2010)の言葉を借りれば,主体性という言葉は1960年代末の全共闘運動の頃に「時と所に応じて各自がさまざまに使う『空虚』な言葉となって広がっていった」(p. 208)。そして「それはそれをつかうひとりひとりの想いがこもった,そう言ってよければ,一種のポエジーである」(p. 209)。
教育の世界では全共闘運動よりも先に主体性の語が流行した。教育界で主体性という言葉が使われ始めた頃に,それがムードのような言葉であることを指摘した人がいた。お茶の水女子大学附属小学校校長の坂元彦太郎である。附属小学校の教員達によって書かれた『主体性を生かす学習』のプロローグに坂元はこう書いた。「なお,主体性,自主性,自発性など,類似したことばの異同をせん議する人たちも多いが,そのことよりも,こうした概念に共通している意味やムードを適切にとらえることの方が,よりたいせつなことである,と私は思う」(坂元, 1964. p. 4)。ここには主体性の言葉がムードとして使われているとの認識がある。
主体的学習という実践
主体性という言葉が空虚でポエジーであり,ただのムードとして使われるのなら実害はない。そのようなものとして消費されるだけだ。だがこの言葉には人に何かを行動させる力があるように思える。他人に奮起を促すために「君には主体性がない」とか「主体的になれ」と言うことがある。そう言われた人は主体的に行動しないといけないような気になる。
学校で授業を受ける子供達のほとんどは自ら学習しない。だから教師達は子供達の興味や関心を引くよう工夫をする。そして子供達が主体的に授業を受けてくれるといいのにと願う。
子供達が主体的に学習するための教育実践がかつてあった。その名もズバリ「主体的学習」。この学習指導法は発表当初愛媛県立教育研究所所長で,後に愛媛県立高等学校校長,聖カタリナ女子短大教授を歴任した村上芳夫によって作られた。愛媛県で始まり1958年に書籍として発表されたこの指導法は全国に普及し,その後1970年までに研究に取り組んだ学校は数百校になったという(村上編,1971)。村上を会長にした「主体的学習研究会」という研究組織も作られた。
主体的学習の方法は次の通りである(村上,1958, pp. 8-9)。
児童・生徒を主体的に学習させるためには,どうしても学習方法の訓練と学習技術の訓練が必要である。(技術訓練の報告は略す)
自主的な学習方法訓練のためには,まず課題を出し(後には児童・生徒がみずから出すようになることを期待している)課題を解決する方法を分析して示し,その方法に従ってみずから解決を試みさせなければならない。
そのためにはそれを予習課題をして,家庭学習をさせ,その課題に対して試みた反応を学校で発表させ,それによって教師は児童・生徒の生き生きとしたレディネスをつかみ,それに基づいて指導法を確立させねばならない。
そして,その解決は児童・生徒相互の協力によって解決する学習態度を訓練することが大切である。
要するに予習を課すことを必須とする指導法である。授業では子供達の相互の協力によって課題の解決をするので,「主体的・対話的で深い学び」のうち主体的な学習と対話的な学習がすでに考えられていた。
北海道では全道の学校にこの主体的学習が浸透していった。その結果はこうである。「まず子どもは,ぼう大な量の予習に苦しめられました。『主体的学習』は予習がいのちですから,どんなふうに予習したらよいのか方法のわからない子どもがいたら困ります。そこで各教科にしたがって,一般的な『ひとりしらべ』の仕方を子どもに覚えさせることから始まります」(山下,1973, p. 10)。予習の仕方は,国語では読む練習から始まり,わからない言葉を調べ,全文書きをするまで7項目あった。他の教科の予習も子供はしなければならない。
教師の願いがいかに素晴らしくても,子供達や保護者達に支持されない学習指導法は学校に根付かない。『愛媛県史 教育』(愛媛県史編さん委員編,1986)は主体的学習について「予習を前提とする点に特色がある反面,それが支障にもなっている」(p. 155)と評した。時代の寵児(菊池,1971)と言われたこの指導法の実践を今耳にすることはまったくない。
イデオロギーとしての主体性
「主体性とはイデオロギーではないだろうか」という題でこの文章を書き始めたが,筆者は主体性はイデオロギーであると断定したいのではない。そうではなく主体性にはイデオロギーの側面があるからこれをイデオロギーとして見てはどうかという提案である。
教育の文脈で主体性の語が使われるとき,たいていは自主性や自発性を意味する。「主体的に学ぶ」は「自主的に学ぶ」や「自発的に学ぶ」と同義であることが多い。それならできるだけ「自主的に学ぶ」や「自発的に学ぶ」と言う方がよい。それにもかかわらず「主体的に学ぶ」とか「主体的に行動する」と言いたくなるのはなぜか。
イデオロギーとして主体性を考えるとは,1つにはそれに何かの主張が込められているのではないかと疑うことだ。自主性や自発性の概念からはみ出る何かが主体性の語にはあるようだ。「自主的に行動しなさい」と言われたら,「はいはい,今度からは言われなくても行動すればいいんでしょ」と返すことができる。これに対して「主体的に行動しなさい」と言われたときは,それ以上のことをしないといけないような気がする。
主体性についての次のような辞書の説明がヒントになる。
行動する際,自覚的であったり責任を持ったりして行動することが主体性の語には込められている。だから主体的に行動するとはたんに自発的に行動するだけでなく,その行動に自覚的で責任を引き受けることである。主体的に学ぶことも同様で,それは自主的・自発的に学ぶだけでなく,自覚的に,責任を持って学ぶことである。他者に対して主体性の語が使われるとき,自覚と責任を持てとの主張が伴うのである。
イデオロギーとして主体性を考えるとは,2つ目に人に主体性を求める誰かがいるのではないかと疑うことだ。教師は子供に主体的な学びを求める。もしクラスの子供達全員が主体的に学ぶなら教師は楽だ。教師は子供達に主体的に行動することを求める。学級活動も掃除も部活も,子供達が主体的に行動してくれたら教師にとってどれだけありがたいことか。国は教育基本法の第2条で教育の目標を定めているが,その1つは「主体的に社会の形成に参画」する態度を養うことである。国は国民に主体性を求めている。本当に全国民が主体的に社会の形成に参画するなら,為政者は国家運営がずいぶんと楽になることだろう。
イデオロギーとして主体性を考えるとは,3つ目に主体性には方向性があるのではないかと疑うことだ。主体的に学ぶという場合,子供が自覚的に学ばないことは含意されない。同じように子供がよく考えた末に学校に行かないことを選んだ場合,その子に主体性があると評価されることはめったにない。よく考えて判断していたずらをし,器物を損壊し,その責任を引き受ける子供は主体性があると言えないのだろうか。主体性が発揮される方向性はあらかじめ決まっている。
引用文献
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新井 邦二郎 (1992). 幼児の主体性の教師評定尺度の作成(1) 筑波大学心理学研究, 14, 61-74.
浅海 健一郎 (1999). 子どもの「主体性尺度」作成の試み 人間性心理学研究, 17(2), 154-163.
愛媛県史編さん委員会(編) (1986). 愛媛県史 教育 愛媛県
Erikson, E. H. (1968). Identity: Youth and crisis. W. W. Norton & Company Inc., New York.
(E. H. エリクソン 岩瀬 庸理(訳)(1969). 主体性(アイデンティティ)――青年と危機―― 北望社)細谷 俊夫他(編)(1990). 新教育学大事典 第一法規出版
菊池 啓 (1971). 主体的学習の原理と実践 明治図書
小林 敏明 (2010). 〈主体〉のゆくえ――日本近代思想史への一視角―― 講談社
文部科学省 (n. d.) 平成29年改訂中学校学習指導要領英訳版(仮訳) 中学校学習指導要領 第1章総則 文部科学省 https://www.mext.go.jp/content/20201008-mxt_kyoiku02-000005242_1.pdf (情報取得2023/11/10)
村上 芳夫 (1958). 主体的学習――学習方法分析による教育―― 明治図書
村上 芳夫(編)(1971). 主体的学習と学校経営 明治図書
坂元 彦太郎 (1964). 「主体性を生かす」ということ 坂元彦太郎著者代表 主体性をいかす学習 (pp. 1-4) 児童教育研究会
塚田 毅 (1987). “主体性”をめぐる諸問題――その心理学的点描―― 教育心理学年報, 26, 151-160.
山下 英子 (1973). 「主体的学習」と母親の悩み 鈴木秀一・小田切正・菊池大(編) 能力主義の授業と学力――「主体的学習」批判―― (pp. 10-26) 鳩の森書房
執筆者プロフィール
著訳書
鈴木 聡志 (2007). 会話分析・ディスコース分析――ことばの織りなす世界を読み解く―― 新曜社
ビリッグ,M. 鈴木 聡志(訳) (2011). 笑いと嘲り――ユーモアのダークサイド―― 新曜社