見出し画像

自己と他者-異質な感覚・価値観への橋渡し(聖ウルスラ学院理事長・日本語検定委員会理事長:梶田叡一先生) #自己と他者 異なる価値観への想像力

長年、自己意識についての研究を積み重ねて来られた梶田叡一先生に、現在お考えになっている自己と他者についてお書きいただきました。

 私の場合、小さな頃から「自分は自分、他の人とは違っている」という感覚を持っていた。自分が好きなものを他の人は好きでないことがある、他の人が面白がってやっていることが私には面白くないことがある、などといった違いである。

 自分と他の人とは違っているという感覚は、それぞれが独立した個体として生きていることから言って、当然至極のことと言っていい。自分の体験したこと、実感し納得していること、これは自分だけのものである。自分自身の生まれも育ちも、また現在の日常的な生活も、やがて迎える自分自身の死も、まさに自分自身の個体的な出来事である。他の人のお世話になったり、お陰をこうむることがあるにしても、突き詰めてみれば、私自身これまでずっと、独立した個体としての私を生きてきてきたわけである。

 しかしながら、「他の人も結局は私と同じなんだ」と思ったことも、ないわけでない。小さい時も、高齢になってからも、とりわけ身体のこと、生理的な事象については、他の人も同じような身体機能を与えられて生きているのだなぁ、と思わされたことが少なくない。例えば中学か高校の頃、昼前とか午後遅くなど、友人が空腹になって苛々し、言葉も態度も荒くなっているのを見て、「私も空腹で苛々し出したな」と自分自身の状態に気づくこともあった。また、高齢になってからは、若い頃からつき合ってきた勉強会仲間が時に顔を合わせると、昔のように誰それの考え方はとか、誰それの最近の研究は、ではなく、「夜中に何度もトイレに起きるようになって」とか、「電車の中でトイレに行きたくなって途中下車して駅のトイレに駆け込んで」といった話を、お互い深い共感を持って語り合うことになる。

 自己と他者の間にある決定的な個別性の壁を乗り越えるには、互いの生存の基盤にある身体性に思いを致すことが一番早いのではないだろうか。これを突き詰めれば、自分自身の生と死という根本が、他の人と全く同一の条件にあること、人としての身体を与えられて生きているという運命的な条件の下にあること、にも気づかされることになる。

 もう一つ、自他の決定的な違いに気づかされたのは、文化の問題、基本的な生活習慣の問題である。若い頃に初めて海外に行った折に痛感させられたが、違う文化的習慣の下に育つと、多様な点で「当たり前」が違ってくるのである。例えばメキシコのホテルで朝食に出された真っ赤なスクランブルエッグ、一口食べてみたらその辛いこと口の中が痺れそうな程であった。赤い色はペッパー(唐辛子)の色だったのである。ここで驚いたのは、当時の私の口にはとうてい合わない辛すぎるほど辛い卵料理を、さも美味そうに食べている人たちが居る、という眼前の現実であった。欧米の人が以前、日本人が刺し身やお鮨を美味しそうに食べるのを見て、「生の魚を口にするなんて」と言っていたのを思い出したことである。

 もちろん、こうした文化的条件の違いによる自他違和感は、時間的経過の中で解消していくことが少なくない。私自身、今では辛い味つけが好きになり、何にでもタバスコを振りかけて食べる癖がついているほどである。また、欧米の人の中にも今では刺し身や鮨の愛好者が増え、ニューヨークの下町には小さな鮨屋が林立し、数多くのアメリカ人を客としているといった現実がある。

 ただし、こうした文化的条件の問題は、色々と無理のきく若い時には容易に克服できるとはいえ、年齢を重ねる中でどうしても生育時期に体験してきた「当たり前」に戻っていく、という傾向がある。若い頃には洋食ばかりが続いても何ともなかった日本人が、歳を重ねるにつれてご飯と漬物と味噌汁がないと落ち着かなくなっていくようなものである。

 さて、こうした自他の感覚や価値観の違いについては、お互いに対話に努め、共感の機会を重ねることで、相互理解が進んでいく。自分との違いを認識すればするほど、その人の個性も自分自身の個性もくっきりと見えてくるのではないだろうか。そして、こういう人とはできるだけ一緒に居たい、あるいは一緒になることをできるだけ避けたい、といった感覚的な判断にもつながっていくであろう。

 仕事を進めていく上では、自分と感覚や価値観の合わない人とも協力協働していかなくてはならないことがある。これはこれで仕方ないことである。しかし、そうした無理をしなくてもいい場合には、やはり相互に感覚や価値観が通じ合い、理解し合っている人と一緒に居る方が幸せではないだろうか。

 もちろん、相手の人の感覚や価値観が自分自身のそれとは大きく違っていると気づいた場合、相互に擦り合わせをして、通じ合うところを増やしていく努力をしていこう、とする姿勢も大切である。自分にとって大切な意味を持つ人との場合には、尚更であろう。

 このためには、互いの対話を重ねながら、事に触れ折に触れて互いの感覚なり感想なりを口にし合ったり、そこからの思いを語り合ったり、といったことが大切になるのではないだろうか。大切なのは言葉の上だけの一致を求めないことである。

 違う身体を生きる者同士の、また育ちの環境や文化の違う者同士の自己と他者である。違いは違いとして認識を深めると同時に、実感的に理解し合える部分をできるだけ拡大していく努力をしたいものである。

参考文献

梶田叡一『自己意識の心理学(自己意識論集I)』東京書籍,2020年
梶田叡一『内面性の心理学(自己意識論集V)』東京書籍,2021年

執筆者

梶田 叡一(かじた・えいいち)
山陰の松江市に生まれ、米子市で育つ。京都大学文学部(心理学専攻)卒。文学博士。大阪大学教授、京都大学教授、兵庫教育大学学長などを歴任。この間、中央教育審議会の副会長、初等中等教育分科会長、教育課程部会長なども務める。現在は聖ウルスラ学院理事長、日本語検定委員会理事長。

著書